2015年8月30日墓前礼拝説教(詩篇90:3-6、10-12、死を委託する)
1.死を忘れるな
・今日、私たちは墓前礼拝を執り行います。今まで記念堂にお納めしていたお二人の遺骨(古川正康兄2000.2.17召天、中島ケイ姉2012.5.13召天)を、ラザロ霊園に移すにあたって集まって礼拝を持つものです。しかし教会は死なれた個々の方を悼むことはしません。死とは天に帰る、天に召されることであり、悼む事柄ではないと信じるからです。今日、私たちは詩篇90編を通して死と生の問題について御言葉を聴きます。
・詩篇90編がまず私たちに語ることは「死を忘れるな」と言うことです。5-6節「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。朝は咲いていた花も夕には枯れます。人の一生もそのようなものだと詩人は歌います。私たちの人生は死によって限界付けられています。人は誕生し、少年期、青年期を経て壮年期に至ります。健康に恵まれた人は70代、80代まで生きることが出来ます。しかし、振り返ってみれば、その人生は労苦と災いだと詩人は歌います。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(90:10)。長生きしても振り返ってみれば、一瞬の人生であり、生涯を終えた肉体は塵に帰ります。「人は塵だから塵に帰る」、詩篇90編が歌うのは「人生の無常」です。
・私たちは生まれ、死んでいきます。人生は誕生と死の間にあるひと時の時です。しかし、多くの人は自分がこの限界の中にあることを認めようとしません。だから近親者の死に直面する時、私たちは「死んではならないはずのものが死んだ」という矛盾の中で苦しみます。聖書は「私たちは死という限界の中にあることを覚えよ」と求めます。それが12節の言葉です「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。これは非常に大事なことです。私たちは無意識の内に死を他人事ととらえています。それは身内の死、親族の死、友人知己の死であり、自分の死ではありません。死が他人事である限り、私たちは死について考えようとせず、死について考えないとは現在の生についても考えないことを意味します。聖書は私たちに求めます「あなたは死ぬ。死ぬからこそ、現在をどう生きるかを求めよ」。
2.死を委託せよ
・牧師であり、カウンセラーでもある賀来周一先生は、死を次のように語ります「人は生物としては必ず死ぬ存在である。その意味で、人の死は自然である。しかし他ならぬ『私が死ぬ』時は、事態は一変する。私の死は自然ではない。私にとって死は未知なるものである。未知なるものは人に不安を与える。だから人は死に際して、信仰の有り無しにかかわらず、この『私が死んだらどうなるのか』と問う・・・死は最も大きな人の不条理といってよいであろう。死に臨んでのこうした人の思いに答えることができるものは宗教である・・・ここに必要とされるのは『委託する態度』である。委託とは『委ねる』ことである。『委託する勇気』が求められる」。
・委託する勇気とは何でしょうか。大阪・淀川キリスト教病院で長い間働いて来た柏木哲夫医師は、その生涯で多くの方の死を見守りました。彼は語ります「死を前にした患者さんは必ず、“人間が死ぬというのはどういうことなのか”、“死後の世界はあるのか”、“死んだ後どうなるのか”と聞いてくる」。彼はその問に対して何も答えられませんでした。誰にもわからないのです。しかし、多くの人の死を看取った経験から語ります「人は死を背負って生きている」、そして「人は生きてきたように死ぬ」と語ります。つまり、それまでの生き方が死に反映されるということです。そして柏木先生は、「多くの人はあきらめの死を死ぬ」と言います。死にたくないのに死んでいく人が多いのです。しかし、「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」と語ります。ここにある「死を新しい世界への出発だと思えた人」こそ、死を委ねた死に方をした人ではないでしょうか。
・コヘレトというユダヤの知恵の教師は語ります「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない」(コヘレト6:12)。コヘレトのいう通り「人が死んだらどうなるのか、誰にもわからない」、確かにそうです。わからない。私たちに出来るのは死を神にゆだねる生き方です。だから私たちの教会は墓碑銘を「神われらとともにいます」にしました。死後のことをあなたに委ねますという意味です。「あきらめの死を死ぬ」のではなく、「良い死を死ぬ」ことができるように祈ります。