2015年7月5日説教(ガラテヤ5:1-15、キリストに結ばれ続けて)
1.福音から離れ始めたガラテヤ諸教会へ
・ガラテヤ書を読み続けています。ガラテヤ書の舞台は小アジアのガラテヤです。最初のキリスト教会はエルサレムに生まれました。復活のイエスに出会った弟子たちがエルサレムに集められ、ペンテコステの日に、聖霊を受け、福音を語り始め(使徒2:36)、多くの人々がバプテスマを受け、教会が生まれました。そのエルサレム教会はユダヤ人で構成されていました。しかし、教会はユダヤ教徒たちから迫害を受け、一部の信徒たちがサマリヤやシリアに追放され、そこにも新しい教会が生まれていきます。シリアのアンティオキアを中心とする異邦人教会です。アンティオキア教会はやがて、キプロスや小アジア、ギリシア等へ宣教師を派遣し、ガラテヤ、エペソ、コロサイ等にも教会が生まれて来ました。福音がローマ世界に広がり始めました。しかし、福音の広がりと同時に、いろいろの問題が生じて来ました。ガラテヤ教会にも問題が起こり、パウロは手紙を書きました。
・ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立されましたが、パウロが立ち去った後、エルサレムから派遣された教師たちが、パウロの福音とは異なる教えを説いて、教会に混乱が生じていました。教師たちは「キリストを救い主として受け入れるだけでは十分ではない。救われたしるしとして割礼を受けなければいけない」として、人々に割礼を求めようとしました。そのことを伝え聞いたパウロは、ガラテヤ諸教会にあてて手紙を書き、その中で「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)とガラテヤ人に割礼を受けないように迫りました。
・アンティオキア教会にはユダヤ人もギリシア人もいましたが、民族は違っても兄弟姉妹の交わりがなされ、信仰が民族を超えたものとなり、人々はその地で初めて「クリスティアノ」(キリスト者)と呼ばれ始めました。しかし、エルサレム教会の人々は依然としてユダヤ教の枠内にいて、「異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない」と主張していました。パウロはエルサレムに行って、使徒たちと話し合いを行い、異邦人には割礼を強制しないことが決められましたが、ユダヤ人の律法に対する信仰は消えず、繰り返し立ち現れます。それがガラテヤ教会を混乱させ、ガラテヤ書が書かれました。
2.再び奴隷に戻るな
・ガラテヤの人々は、割礼を受けなければ救われないとのエルサレム教会の影響を受けて、割礼を受けようとしています。パウロは彼らに言います「自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(5:1-2)。割礼を受ける、律法によって救われるとは、律法をすべて守ることを意味しますが、そのようなことは人には出来ません。自然のままの人間は自己の欲望を制御できないからです。私たちは律法を守ることは出来ない、だからキリストが死んで下さった、その恵みにすがるしかないのだとパウロは言います。「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(5:3-5)。
・パウロは続けます「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(5:6)。ユダヤ主義者たちは形のある信仰を求めました。律法は見えます。割礼を受ける、安息日を守る、食べていけないと言われたものは食べない、見えるものを守ることで救いの確信を得たいと思うのが律法主義です。しかし、この律法主義は教会を壊す悪を秘めています。パウロは言います「僅かなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」(5:9)と。小麦粉の塊にパン種(酵母)を入れて焼くと、ふっくらとした、やわらかいパンになります。私たちは酵母の働きが人の役に立つ時、それを「発酵」と言い、役に立たない時、「腐敗」と言います。腐敗も発酵も同じ菌の働きです。ガラテヤの人々は割礼を受け、律法を守ることを、パンをおいしくする信仰的な行為として受け入れようとしていますが、それは「パンをおいしくするのではなく、パンを腐らせる行為なのだ。律法主義を受け入れた時、教会はキリストの体ではなくなるのだ」とパウロは強調します。
・律法そのものは悪ではありません。ただ「律法を守れば救われる、守らない者は裁かれる」とする時に、それは悪になって行きます。安息日は「休みなさい」という恵みであり、良いことです。しかし「安息日を守らない者は呪われる」とした時、その律法が悪になって行きます。割礼もそうです。神に従うしるしとして割礼を身に帯びることは祝福です。しかし「割礼を受けない者は救われない」とする時、それは悪になって行きます。人は良いものを悪に変えてしまう存在なのです。主の祈りは美しい祈りです。私たちは祈ります「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。ある説教者によれば、裏・主の祈りがあるそうです。次のような祈りです。「側にいて下さる私の神よ。私の名を覚えて下さい。私の縄張りが大きくなりますように。私の願いが実現しますように。私に一生、糧を与えて下さい。私に罪を犯す者をあなたが罰し、私の正しさを認めて下さい。私が誘惑にあって悪に溺れても、私だけは見逃して下さい。国と力と栄えとは限りなく私のものであるべきだからです。アーメン。」(平野克己、主の祈りから)。これが人間の本音に近いような気がします。人間は結局、自己から脱出できない存在であり、エゴから解放されるには、エゴを十字架につけるしかないのです。パウロが語る通りです「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(ローマ6:8)。
3.キリスト者の自由
・今日の招詞にルカ18:13を選びました。次のような言葉です「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』」。イエスは、自分は正しいとして人を見下しているファリサイ人を懲らしめるために、ある喩え話をされました。こういう話です「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」(18:10-12)。
・ここに典型的な律法主義者の生き方が示されています。「してはいけないと定められた悪いことはしていません。しなさいと言われた良いことをしています。だから救って下さい」。自分は律法を守っている、自分は正しいと自負する人は、その対価として救いを要求します。そして律法を守らない人を攻撃します(私は他の人たちのようではない、私は徴税人のような者でもない)。それに対して、罪人と名指しで攻撃された徴税人の祈りが、招詞の言葉です。彼は自分が救いに価しないことを知っています。彼にできることはただ神の憐れみを乞うことだけです。しかしイエスは言われます「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(18:14)。パウロが割礼にこだわるのもそのためです。割礼を受けた人は自分の救いを神に要求するようになる。それはもはや神の恵みに生きる福音信仰ではなく、自分の力を頼みにする偶像礼拝です。
・パウロは語ります「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(5:13-14)。律法とは「隣人を自分のように愛する」ことです。人はキリストに出会い、解放されることを通して、自分の中にある肉の欲が、霊の愛に変えられていきます。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲です。他方、愛は自分が相手に仕えていく行為です。私がオーストラリアに駐在している時、日本人教会のお世話をされていたD.ヘイマン宣教師はお酒を飲みませんでしたが、私たちには次のように言いました「私はワインが大好きです。オーストラリアのワインはおいしい。しかし、私がお酒を飲むことに躓く人もいるかもしれませんので、私はお酒をやめました。しかし、あなた方はどうぞおいしいワインを楽しんで下さい」。「躓く人がいるかもしれないので、私は飲まない、しかしあなたは飲んで楽しみなさい」。これが律法から解放されたキリスト者の自由です。
・律法からの解放は人を自由にします。マルテイン・ルーサー・キングは、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行いました。当時、キングはアトランタの黒人教会の牧師でしたが、公民権運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていました。そのような中で彼は語ります。「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」と彼は聴衆に語りかけました。敵を友に変えることの出来る愛はアガペーの愛であり、それは感情ではなく、意思です。それは神から与えられる賜物です。割礼はこの賜物を虚しくするのだとパウロは語るのです。
・私たちは嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために祈ることはできます。自分に敵対する人のために祈るという実験を私たちが始めた時、その祈りは真心からのものではなく、形式的なものでしょう。しかし形式的であれ、祈り続けることによって、「憎しみが愛に変わっていく」体験をします。その時、私たちは隣人の欠点を数えなくなります。パウロは言います「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:15)。「新しく創造される」、キリストの愛によって根底から変えられる、その道に私たちは招かれているのです。