2015年6月14日説教(ガラテヤ2:15-21、信仰はあなたを自由にする)
1.割礼からの解放
・ガラテヤ書を読み続けています。ガラテヤ書の主題は、「割礼からの解放」です。パウロは小アジア(現在のトルコ地方)のガラテヤ地方を何度か訪れ、そこにいくつかの教会が生まれました。彼はその後エペソに移りましたが、そのパウロのもとに、「ガラテヤの人々がパウロの伝えた福音から離れ、割礼を受けようとしている」との知らせが届きました。パウロの去った後に、エルサレム教会から派遣されたユダヤ人キリスト者たちが訪れ、「信仰だけでは人は救われない。私たちユダヤ人のように、割礼を受けて、律法を守らなければ、本当の救いはない」と宣教し、人々がその教えに従おうとしたのです。
・割礼とは何か、聖書辞典を見ますと、次のように記載されています「割礼、ヘブル語ムールは『切り取る』、『切り捨てる』という意味を持つ。またギリシア語ペリテムノーは『周りを切る』という意味で,男性の性器の亀頭を覆っている包皮を切開、もしくは切り捨てることを指す。割礼がユダヤ人の間で宗教的儀式として行われるようになったのは、神とアブラハムとの契約のしるしとして、アブラハムの家のすべての男子が割礼を受けたことによる(創世記17:1‐14)」。創世記は選びのしるしとして、イスラエルの民は割礼を受けることを神が命じ、もし割礼を受けない男子がいるならば、その者は民から断ち切られると記しています(17:23‐27)」。 割礼はユダヤ人にとっては「救いのしるし」であり、当然受けるべきものでした。当時聖書は今日で言う旧約聖書しかなく、その聖書が「割礼を受けよ」と命じるのであれば受けなければいけないとガラテヤ教会の人々が考えたのは当然です。今日でもユダヤ教徒及びその流れを汲むイスラム教徒は割礼を受けます。
・しかしそれに対してパウロは「あなた方は間違っている」と声を大にして叫びます。そのパウロが教会の人々を説得するために書いた手紙がガラテヤ書です。パウロは語りました「たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(1:9)。パウロが述べ伝えたのは「十字架の福音」でした。人はキリストの十字架の贖いにより救われる、それなのに救いのために割礼が必要であれば、「キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。パウロはその意味を明らかにするために、自分が割礼論者と戦ってきた歴史を述べます。それが今日読みますガラテヤ2章です。
・パウロの弁明は1章13節から始まります。「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(1:13-14)。パウロは熱心な律法主義者、割礼論者でした。そのパウロに復活のイエスが啓示され(1:15-16)、彼は自分の間違いを悟り、伝道者に変えられます。彼は最初ダマスコで、その後故郷のタルソスに帰って、10数年の年月を福音伝道についやします。そのタルソスにバルナバが来て、パウロをアンティオキア教会の協力者に迎えます。そのアンティオキア教会で「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒11:26)。エルサレムに最初のキリスト教会が建てられましたが、それはあくまでもユダヤ教の枠内にある教会でした。しかし、アンティオキアに生まれたのはユダヤ教の伝統から自由な、異邦人もユダヤ人も共に礼拝するキリスト教会でした。
・しかし、エルサレム教会の人々はそれを喜ばず、『異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない』と主張し、教会内に混乱が起き始め、バルナバとパウロは問題を話し合うためにエルサレムに行きます(使徒15:1-2)。エルサレム使徒会議とよばれる最初の教会会議です。パウロは書きます「十四年たってから、私はバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際テトスも連れて行きました。・・・しかし、私と同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした」(2:1-3)。パウロの弟子テトスは異邦人であり、当然「割礼を受けさせよ」との圧力がかかりましたが、パウロはそれを拒否し、エルサレム教会の人々もそれを容認しました。会議では異邦人に割礼を強要しないことが決められました。パウロは語ります「彼らは私に与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、私とバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、私たちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです」(2:9)。割礼問題は解決したと思われていました。
2.律法から自由でない人々との戦い
・しかし会議で決まったもののユダヤ人の律法に対する執着は消えませんでした。パウロの理解者であったペテロやバルナバでさえも、律法主義者に押されてその態度を後退させる出来事が起こりました。「ケファがアンティオキアに来た時、・・・ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」(2:11-13)。パウロはこの事態に直面し、激しくペテロに抗議します。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」(2:14)。
・当時、主の晩餐式は共同の食事の中で営まれていました。共に食卓につかないことは、共に礼拝をしないことを意味し、見過ごしに出来ない問題でした。だからパウロはユダヤ人キリスト者の態度を激しく批判します「律法により救われるのならキリストは何のために死んだのか」と。彼は手紙に書きます「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(2:16)。律法(善い行い)によっては誰も救われない。だからキリストの十字架を仰ぐ。それなのにまた律法に戻ろうとする。それは何だとパウロは語ります「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。
・パウロほど律法による救いを求めて苦闘した者はいません。その体験から、「律法は人を救わない。私は復活のキリストに出会ってそれを知った。だから私は律法に死に、キリストに生きるようになった」とパウロは語ります。「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(2:19-20)。
3.信仰はあなたを自由にする
・今日の招詞にガラテヤ3:27-28を選びました。次のような言葉です。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。律法主義(善い行いをすれば救われる)の下にある人間関係の基本は差別です。割礼を受ければ救われると信じるユダヤ人は、無割礼の異邦人を蔑みました。女性は聖書を学ぶ教育を受ける機会はありませんでした。そのため、「無知なる者」として蔑まれていました。奴隷も人権など認められていません。律法順守という人間的な功績を誇る考え方は、自己義認に繋がります。だからパウロは「律法から解放されよ」語ります。
・21世紀に住む私たちは、男女は同権であり、民族の上下もないと信じています。だから「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」というパウロの言葉を当然として聞きます。しかし、2000年前にはそれは当然ではありませんでした。当時のユダヤ教のラビの祈りが残されています「神は褒むべきかな、私を異邦人には造られなかった。神は褒むべきかな、私を女性には造られなかった。神は褒むべきかな、私を野蛮な者には造られなかった」。当時の人々は優劣があるのは当然だと思っていたのです。その中でのパウロの言葉は、正に今日の基本的人権のレベルにまで達しています。いや、今日以上かもしれません。
・何故なら、この差別の論理は今日の世界にも根強く残っているからです。世の人々は語ります「能力のある者はそれに見合った収入を得るべきであるし、多く努力した者はそれだけ多くの報いを得るべきである。もし全てが平等無差別であれば、人間は向上心を失い、怠け者の社会になってしまう」。一見もっともな論理ですが、それは強者の論理であり、聖書はそれを明確に否定します「もし能力によって差別がなされるのであれば、身体障害者や知的障害者は低い生活に甘んじるのが当然になる。もし働きによって差別がなされるのであれば、病人や老人は押しのけられる。神はそのような社会を望んでおられない」。マタイ20章「ぶどう園の労働者の喩え」では、1時間働いた者と12時間働いた者に同じ給与(1デナリ)が支払われます。この世の論理では1時間しか働かない者は日給の12分の一しか貰う権利がありませんが、その給与では彼とその家族は食べることができない、神はその人々が飢えることを喜ばれない故に彼にも食べることの出来る報酬を払われると聖書は主張します。これを現代に展開していけば、今日の派遣・契約社員の置かれた立場(年収200万円に抑えられ、家族形成することさえ難しい)にも、聖書的な解放が必要であることがわかります。
・「律法ではなく信仰こそ」を唱えるガラテヤ書は、ルターを通して宗教改革を生み出しましたが、現代においても本当の「平等と公平とは何か」を読者に迫ります。福音は、律法からの解放をもたらし、その結果、差別からの解放をもたらします。「キリストを着る」という意味においてすべての人は平等だからです。だから、キリストにあっては「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」のです。今日の世界において、依然、民族の差別があり、女性は男性と同権ではなく、貧乏人は卑しめられています。神学的に言えば、この世の人々はまだ「罪の縄目の中に縛られている」、相変わらず律法主義に囚われています。私たちの社会は、まだ解放されていない。だから、私たちは、キリストの福音を宣べ続けなければいけない、そのためにここに集められているのです。