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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年5月24日説教(使徒言行録20:17-38、聖霊に導かれて)

投稿日:2015年5月24日 更新日:

2015年5月24日説教(使徒言行録20:17-38、聖霊に導かれて

 

1.エペソからエルサレムへ

 

・使徒言行録を読んでおります。パウロはコリント伝道を終えた後、一旦アンティオキアに戻りますが、しばらくしてから再度伝道旅行に出かけます。そしてエペソに3年間滞在してそこに教会を設立し、その後異邦人教会からの献金を携えて、エルサレムに戻ることにしました(19:21-22)。パウロたちの設立した異邦人教会は伝道方針をめぐって母教会のエルサレム教会(ユダヤ人教会)と対立しており、和解のためにパウロは異邦人教会からの献金をエルサレムに捧げる計画を進めていました。彼は諸教会に別れを告げるために、エペソを離れ、ピリピ、テサロニケ、コリントを訪問し、ミレトスから船でエルサレムに帰る計画を立てます。ミレトスはエペソ近郊の港町です。そのミレトスにパウロはエペソ教会の長老たちを呼び、別れの時を持ちます。使徒言行録20章は、そのミレトスで為されたパウロの告別説教です。

・ルカは記します「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した『アジア州に来た最初の日以来、私があなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです』」(20:17-18)。パウロはエペソに3年間滞在しました。エペソでは異邦人たちの暴動に巻き込まれ(使徒19:23-40)、命の危険にさらされた事もありました(1コリント15:32「エペソで野獣と戦った」、2コリント1:8「アジア州で被った苦難」)。彼は続けます「自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」(20:19)。

・彼はエペソの人々に語ります。「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」(20:20-21)。しかし今やエルサレムに戻るべき時が来ました。パウロはエルサレムに戻れば、投獄や迫害が起こることを予期しています。ユダヤ教徒は、キリスト教会の伝道者になったパウロを裏切り者として、その命を狙っていました。それでも彼は霊に促されてエルサレムに戻る決意をしたとルカは記します「私は霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(20:22-23)。

・「霊に促されて」、バブテスマを受けたイエスが荒野に向かわれたのも、「霊に促されて」でした(マタイ4:1)。神は、必要な時には、私たちに試練を与えられます。それは試練なしに、私たちは神に従う者となることは出来ないからです。エルサレムはユダヤ教の中心の地です。パウロはかっては熱心なユダヤ教徒であり、キリストの迫害者でしたが、その彼がキリストと出会い、キリストの宣教者に変えられました。エルサレムのユダヤ教徒たちは、パウロを裏切り者としてその命を狙っています。また、エルサレム教会の指導者たちも、律法に囚われないパウロの異邦人伝道を快く思っていません。彼がエルサレムで危険に出会っても、教会の保護は期待できません。その中に、パウロは死を覚悟して帰って行きます。彼は語ります「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(20:24)。

・「たとえ死の危険があろうとも主が行けと言われるのであれば私は行く」とパウロは語ります。キリシタンが禁止され、迫害された江戸時代初期、多くの宣教師たちが見つかれば殺されるという状況の中で日本に潜入し、殺されていきました。人々には牧会者が必要だとの信念に突き動かされてです。遠藤周作の描く「沈黙」(1966年)はそれを題材としています。パウロはその後エルサレムで捕縛され、カイザリアで投獄され、ローマに移送され、そこで処刑されて死にます。ルカはそのことを知っており、その殉教の生涯をここに反映させています。

 

2.残される者たちへの決別の言葉

 

・パウロは、牧会者なしに残されるエペソ教会の人々のことが気がかりです。彼は長老たちに群れを委託します「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(20:28)。パウロは「残忍な狼どもが入り込んで来て群れを荒らす」ことを懸念しています(20:29-30)。パウロの心配は杞憂ではありません。テモテ書はパウロの懸念通りのことがエペソ教会で起きたことを伝えています。「マケドニア州に出発する時に頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。私のこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました」(1テモテ1:3-6)。

・最後にパウロは「あなた方は監督者として、あなた方自身と群れ全体に気を配り、私が教えたことを守りなさい」と語り(20:31)、そして「今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」と語ります(20:32)。イエスが来たのは新しい哲学を教えるためではありませんでした。イエスは弟子たちに「新しい生き方」を教えたのです。だからパウロも語ります「私はいつも身を持って示してきました」(20:35)。イエスの教えの真実性は彼に従って行った人々の真実性によって証明されます。パウロは「(私は)自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と語りました。パウロの後に従うのは、マザー・テレサであり、マルティン・ルーサー・キングであり、そして私たちです。私たちはその決心を示すために洗礼を受けたのです。

 

3.教会に集められて

 

・今日の招詞に1コリント1:1-2を選びました。次のような言葉です「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちと私たちの主であります」。パウロはコリントに教会を設立し、エペソにも教会を設立しました。エペソ教会にはその後「異なる福音を伝える者たち」が侵入し、教会は分裂してしまいます。コリント教会は派閥争いが起こり、不品行を働く人や、異言を語れない者を軽蔑する人々、聖餐式から貧しい人を排除するような人たちも生まれています。しかし、そのような教会をパウロは「神の教会」と呼び、そこに集う人々を「聖なる者」と呼んでいます。どこに聖なる者たちがいるのでしょうか。ある説教者は語りました「コリント教会を見なさい。コリントに比べればあなた方の教会の方がましだ」。

・教会の原語はギリシア語エクレシア、ヘブル語カーハール、いずれも「神が選び出し、召し集めた群れ」という意味を担っています。そこに集う人が「聖」なのではなく、神によって集められたから「聖」となります。現実の教会の中では、会員同士の鞘当や揉め事があり、牧師と役員会が対立して牧師が辞任したりします。それでも、そこは教会なのです。W・リュティーという説教者は語ります「聖書においてはコリントの人々もローマの人々もテサロニケの人々も聖徒である。何故ならばイエスの血がすべての罪から清めるのであり、その清めの必要性を認識する者、救い主なしには破滅した者である貧しい罪人こそが聖徒なのである」(W・リュティー「この日言葉をかの日に伝え」)。教会は「神が御子の血によって購った」故に、聖なる場所なのです。

・パウロは今からエルサレムに向かいます。そのエルサレムでは、投獄と苦難が待っています。それでも彼は聖霊に導かれてエルサレムに向かいます。イエスもエレサレムで十字架の死が待っていることを承知されながら、聖霊の導くままにエルサレムに行かれ、十字架にかかって死なれました。最後の時、イエスは神に叫ばれました「わが神、わが神、何故私を捨てられたのか」。イエスは絶望の内に死なれました。その絶望を通じて、復活が与えられ、十字架の死が無駄ではなかったことが示されます。パウロもまたエレサレムで危険が待っていることを知りながら、エルサレムに向かい、予期していたようにユダヤ教徒に襲われ、投獄されます。獄中からローマ皇帝に上訴したため、ローマへ回送され、その地で処刑されます。しかし、この逮捕・監禁を通して、福音がローマに届けられるようになり、殉教を通して信じる者が生まれてきました。これが神の御業、人間には知ることの出来ない摂理です。

・私たちは聖霊の加護を祈りますが、その聖霊は私たちを世の危険や苦難から救出するのではなく、危険や苦難を通して、神の業を実現させます。パウロはかつて語りました「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)。私たちがそれに従った時、私たちの悲しみが御心に適ったものになります。パウロは聖霊に促されてエルサレムに行き、エルサレムに行くことを通してローマへの道が開けました。そのローマで2年間の宣教を許され、最後には殉教します。私たちは使徒言行録や手紙を通して、パウロの生き様や信仰を知り、パウロと出会い、その出会いが人生を変える出来事になっていきます。

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