2015年4月5日説教(使徒言行録1:3-11、キリストの復活と昇天の意味)
1.イエスの復活と昇天を聖書はどう描くか
・今日はイースター礼拝です。イースターはイエスが復活されたことを記念する特別の時です。聖書は「イエスが復活され、そして昇天された」と伝えます。それが現在の私たちにどのように関わってくるのか、初代教会の経験を学ぶことによって考えたいと思います。具体的には使徒言行録1章から、イエスの復活、昇天とその後の弟子たちの活動について学びます。使徒言行録はルカ福音書の続編として書かれていますが、ルカ福音書はイエスの昇天でその記述が閉じられています。ルカは、地上のイエスの生涯が死への勝利で終わった事を、「イエスが昇天され、天におられる神のところに帰られた」ことで示します。
・それを継承する使徒言行録は、イエス昇天から物語が始まります。使徒言行録は記します「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(1:3)。イエスが十字架で死なれた時、弟子たちは散らされましたが、やがて復活のイエスに出会い、再び集められました。そしてイエスは40日間弟子たちとともにおられ、神の国について教えられと使徒言行録は記します。イエスは生前何度も、神の国について弟子たちに話されました。神の国は、この世の国のように力ある者が弱い者を支配する国ではなく、お互いに仕えあう場であることを説明されました。しかし、弟子たちは理解できません。仲間同士で争い合ったり、互いに非難したりしていました。だからこそイエスは、復活後も弟子たちに繰り返し教えられました。それでも弟子たちは理解しなかったことを使徒言行録は示しています。イエスが「あなた方はまもなく聖霊を受ける」と弟子たちに言われた時、弟子たちは聞き直します「主よ、イスラエルのために国を立て直して下さるのはこの時ですか」(1:6)。
・彼らは依然としてこの世の国、地上のイスラエルの再興を求めていました。死を超えて復活されたイエスを見て、彼らは今こそイスラエルの再興が可能になると期待しました。しかし、イエスは答えられます「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」(1:7-8)。「今、あなた方がなすべきことは、あなた方が見たこと聞いたことを、ユダヤはもちろん、サマリアや異邦の人々に伝えていくことだ」とイエスは言われたのです。その活動こそが神の国を形成していくのだと。
・イエスの昇天後、弟子たちは不安に包まれました。これまでは全てイエスの指示に従ってきたからです。これからは自分たちでどうするかを決めねばならない。彼らはイエスの姿が雲のかなたに隠れてしまった後も、天を見つめ続けていました。しかし、イエスの昇天は弟子たちの自立を促すためのものでした。だから、いつまでも天を見つめ続ける弟子たちに、天からの声があります「あなた方は何故天を見上げて立っているのか。イエスはまたおいでになる」(1:11)。「天に帰られたイエスは再びおいでになる、そのことを準備するために、あなたがたはなすべきことをしなさい」と天からの声は促します。この声に促されて、弟子たちはエルサレムに戻ります。なすべきことをするとは、現実を見つめ、今何をなすべきかを知ることです。自分たちはまだサマリア人や異邦人に伝道する準備は出来ていない。弟子たちが始めたことは、エルサレムに戻り、仲間と心を合わせて祈ることでした。弟子たちは、集まって祈り、イエスが約束された聖霊の降臨を待ったのです。
2.この記事を私たちはどう読むか
・イエスは天に上り、弟子たちは地に残されました。使徒信条は語ります「(主は)三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます」。ここにあるのはキリストの復活、昇天、臨在、再臨です。復活のイエスに出会った使徒たちは「世の終わり、終末が既に来たと受け止め、イエスはいなくなられたが、今なお天におられ、私たちを見守っていて下さる」と理解しました。キリストは天にあり、私たちは地にある。この天と地の隔たりの大きさを理解することが人間を人間ならしめます。それに対して、日本人においては天と地、神と人との距離が限りなく近いと思えます。ですから人間である天皇を神格化して日本は神の国であるとしたり、戦死者を英霊として靖国神社に祭ったりします。しかし聖書はあくまでも「神は神であり、人は人に過ぎない」と明記します。天の高さに比べれば、地にある人間は区別がつかないほどの低さになります。それ故、人間を絶対者として崇める信仰は聖書からは生まれません。
・天を見つめて立っていた弟子たちに天使は語ります「あなた方は何故天を見上げて立っているのか」。物理的な天空を見上げていた弟子たちに、信仰的な天を見つめよと語られます。信仰によってキリストと結ばれている者はたとえ地にあっても、神の国のキリストと結ばれています。私たちにとって、神の国こそが本国であり(ピリピ3:20),私たちの永遠の住処は天にあります(2コリント5:11)。私たちは天の国を目指して、この地上を旅する旅人です。従って、地上のいかなるものも、権力や地位や富、あるいはこの世的な成功や幸福でさえ、私たちの最終的な目標にはなりません。
・また「イエスはまたおいでになる」と約束されています。弟子たちにとって神の国とは「イスラエルのために国を立て直す」ことでした。しかしイエスは「そうではない」と言われます。神の国は地上の国ではないと。世の権力は力を誇示して、私たちの服従を要求するでしょう。アメリカとの同盟なしには日本の安全保障は保てない、そのために沖縄の基地は不可欠なのだと。しかし私たちは従いません。人間的な武力均衡による偽りの平和ではない平和を求めるべきだと。世の経済は富を持って私たちを誘うでしょう。年金や医療制度保持していくためには経済成長が不可欠であり、そのためには安定電力として原子力発電が不可避であると。しかし私たちは答えます「核廃棄物を出し続ける原発は将来の子どもたちの命を損なう」と。このように考えますと使徒言行録1章は、私たちに「この世における生き方の変革」を求めていると思えます。
3.復活・昇天は私たちにとって何なのか
・今日の招詞にヨハネ20:29を選びました。次のような言葉です。「イエスはトマスに言われた『私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』」。井上良雄という神学者は1973年4月に、信濃町教会で「復活後の時の中で」という説教をしています。彼は語ります「私たちは毎年、復活節礼拝で、『イエス・キリストが復活された』という御言葉を聴くのに、私たちの日常生活は何も変えられていない」。復活直後の弟子たちも、「イエスが復活された」との知らせを聞いたのに、戸を閉めて隠れていました。イエスの復活を聞いた弟子たちを支配していたのは喜びではなく、恐怖でした。それは「復活の知らせを聞いても引きこもっている私たちと同じではないか」と井上先生は語ります。「私たちは死の前に衝立を置いて、そのこちら側で営まれている生活を幸福な生活とよんでいる。本当の幸福はそのような貧弱な幸福ではないではないか」。
・十二使徒の一人、トマスは最初にイエスが現れたその場にいませんでした。彼はイエスが現れたと聞いても、「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れ、また、私の手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と言います。8日目に再び現れたイエスはトマスに言われます「見ずに信じる者は幸いである」。これは通常、復活の知らせを聞いても信じなかった、疑い深いトマスに対する批判の言葉と理解されていますが、「違うのではないか」と井上先生は語ります。「他の11人も見て信じた。見て信じることが非難されているのではない。ヨハネが書いている対象は紀元100年頃の教会の人々である。彼らはもはや生前のイエスも復活のキリストも見ることが出来ない。主の昇天以後の教会は、『見ずに信じる』ことが求められていたのである。それらの人々に対する祝福の言葉なのだ」。
・現在の私たちは、福音宣教という人間の業を通してしか、信じることは出来ない状況にあります。「何故神は十二弟子たちのように私たちに直接ご自身を示して下さらないのだろうか」と私たちは思います。そのことに関して、カルヴァンは語ります「確かに神は、ご自身によってその御業を行い給うのであるが、それにもかかわらず、人間を通じてこのことを為すことを善しとされた」(キリスト教綱要4:3)。一人の教師の口を通して一つの御言葉を聞く、そのことによって教師と聞く者の間に結合が生まれる。私たちの口を通して、隣人の耳に御言葉が語られる、そのことを通して私と隣人の間に結合が生まれる。そのことを神は欲したもうと。
・私たちは、かつては神から離れ、隣人から離れて生活していました。「神からの孤立、隣人からの孤立に対する悲惨を救うために、宣教という愚かな手段を通して、神は、私どもを神に結合し、また隣人に結合し、人間をあるべき姿に回復し給う」、「そのために、見ずして信じることを、善しとされたのではないか」と井上先生は語ります。使徒信条「(主は)三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます」は、現代の私たちには信じることが難しい内容を含んでいます。しかし「神は神であり、人は人にすぎない」、「神は天にいまし、私たちは地にいる」と読み直した時に、それは私たちをこの世の悪から自由にする力を持っていることを、今日、確認できればと願います。