2015年11月22日説教(創世記9:1-17、洪水の後で)
1.血を流すな
・創世記から御言葉を聞いています。創世記は6章から9章が洪水物語です。洪水物語は世界各地にあります。過去の大洪水の記憶が伝説となったものでしょう。イスラエルは紀元前587年にバビロニア帝国に国を滅ぼされ、住民はバビロンの地に捕囚となりました。イスラエルが幽閉されたメソポタミアには、有名なギルガメシュ叙事詩(洪水物語)が残されており、捕囚の民はその叙事詩に題材を得て、創世記の洪水物語を編集していったと言われています。創世記の洪水物語は歴史上の出来事の報告ではありません。国を滅ぼされ、破局を経験した民族が、洪水伝承を用いて、自分たちへの罪の裁き=国の滅亡という出来事の中に、神の救いを見出していった信仰の記録です。今日学びますのは、創世記9章、「洪水の後の祝福」です。神は洪水の後、ノアと契約を結ばれました。今日の説教はその契約の物語です。
・洪水によって地上のすべての生き物は、箱舟に逃れたノアとその一族、動物たちを除いて滅ぼされました(7:23)。やがて水が引き、ノアと家族は箱舟から出て、救われた感謝を込めて礼拝を行います。その礼拝に対して神は応答されます「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私は、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8:21)。
・神の赦しの中で新しい世界が始まり、神はノアと息子たちを祝福して言われます「産めよ、増えよ、地に満てよ」(9:1)。そこにある言葉は最初の創造物語と同じ祝福であり、世界は洪水という徹底的な審きを経て、再創造されたと創世記記者は伝えます。洪水を通じてそれまでの悪に満ちた世界は滅ぼされ、新しい世界が生まれました。しかし洪水は悪そのものを水に流したわけではありません。箱舟を出たノアの心にも悪があります。神はその悪を許容した上で人を祝福されます。「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える』」(9:2-3)。創造されたばかりの人間に与えられた食物は穀物と果実でした「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(1:29)。今回は肉食が許されています。肉食を許されたのは、他の動物を殺してその肉を食して生きる人間の罪を、神は受け入れて下さったとの創世記記者の理解でしょう。
・肉食とは、「動物の命」を奪う行為です。すべての動物はいつ殺されるかわからないゆえに、人の前に「恐れおののき」ます。神はその動物の肉を食べることを許されますが、「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(9:4)と命じられます。人間に与えられたのは肉であって血ではない。血は神のもの、それを確認するために動物を殺す時は必ず血抜きをして、血を神に(大地に)戻せと命じられています。この9章4節を根拠に「エホバの証人」の信仰者たちは輸血を拒否します。注射器で血を血管に入れることは血を食べることと同じだとの理解です。しかし、創世記はそうは語りません。創世記が語るのは「肉を食する時は、他の命を食するという感謝と恐れを持って食べよ」ということです。
・そして血は命であるから、「人の血を流すな」と命じられます。「また、あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(9:5-6)。「人を殺すな、人は神にかたどって造られた、人を殺すことは神に敵対することだ」と語られます。「人の血を流す者は人によって自分の血を流される」、イエスはこのことを「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言い換えられました。「殺すな」、聖書に一貫して流れる命令です。ですから聖書は本筋ではどのような戦争も肯定しません。聖戦や正しい戦争などないのです。
2.契約のしるしとしての虹
・神はノアとその家族、そしてすべての生き物と、新しい契約を結ばれました。「あなたたち、ならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。すなわち、私は雲の中に私の虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。私が地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、私は、私とあなたとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」(9:12-15)。神は「二度と人と生き物を滅ぼすことはしない」と約束され、そのしるしとして虹を置かれたと創世記記者は語ります。虹はヘブル語「ケシエス」、弓を意味します。英語のrainbowも「雨の弓」の意味です。虹を雲の中に置くとは、武器である弓を置いて、もう使わない、もう人を滅ぼさないと約束することです。これが洪水後の世界の始まりでした。
・神は人が罪を犯し続けることを承知の上で、「もう滅ぼさない」という和解の契約を立てられ、しるしとして虹を立てられました。それは人が洪水に洗われて清くなったためではなく、人が滅びるのを見ることは悲しいからだと言われています。神が自己の正しさを放棄され、被造物がどのように罪を犯し続けても、これを受け入れると約束されたのです。洪水物語の焦点は洪水そのものにあるのではなく、洪水の後、「もう人を滅ぼすことはしない」と言われた神の言葉に、国を滅ぼされたイスラエルの民が民族の再生の希望を見出していった点にあるのです。
・創世記は「神は人間に肉食を赦されたが、流血は固く禁じられた」と語ります。「人を殺すな、人の命は神にかたどって造られた、人を殺すことは神に敵対することだ」と創世記は語ります。しかし現実の社会では、洪水による再創造後も人は殺し合いを続けています。人間の歴史は戦争(殺し合い)の歴史です。神が武器である弓を置いて、もう使わない、もう人を滅ぼさないと約束されたにも関わらず、人は神の約束を信じることができず、自分を守るために、武器で隣人を殺し続けています。この現実の中で神の言葉をどのように考えるべきなのでしょうか。
3.絶望の中に希望を見ていく
・今日の招詞にイザヤ11:6-8を選びました。次のような言葉です「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」。狼が隣にいる羊を殺して食べない、蝮は幼子の手に噛みつかない、神の国の平和を歌った言葉です。前700年頃に生きたイザヤの時代、ユダヤは戦争に明け暮れていました。アッシリアが世界帝国の道を歩み、シリアを占領し、北イスラエルを滅ぼし、今はユダ王国に迫っています。このような危機の中で、王たちはある時はバビロニアに、別な時にはエジプトに頼ります。イザヤは王たちに「人ではなく、主に頼れ」と勧告しますが、王たちは聞こうとせず、絶望した預言者は、「神の平和」を祈り求め、与えられた幻が招詞の言葉です。
・カール・バルトは、第一次世界大戦が始まった時、人間に絶望しました。2千年の伝統を誇る「キリスト教ヨーロッパ」が、科学技術を尽くして開発した兵器を投入して、血で血を洗う大戦争を繰り広げたからです。戦車や機関銃や毒ガス等の大量破壊兵器がこの時、初めて使われました。「殺すな」と語る聖書を信じるキリスト者同士が殺し合いに狂奔しました。当時バルトはスイスで牧師をしていましたが、この状況の中で説教ができなくなりました。彼は光を求めて、ひたすら聖書、特にローマ書を読み続けました。その彼が見出した真理は「神は神であり、人は人である」と言うことです。人の目から見て絶望しかなくとも、神を信じていくことにより道は開けてくる。彼はそう信じて「ローマ書」(1922年、第二版)を書き上げ、多くの人々に絶望に負けない勇気を与えました。その後ドイツがナチスによって支配され、戦争の道を歩み始めると、彼は「キリスト者は屈しない」としてバルメン宣言をまとめ、反戦運動の支柱になりました。ここに「地の塩」としてのキリスト者の存在意味があります。
・しかし今でも暴力と報復の連鎖は止まりません。この11月14日にフランスで爆弾テロが起こり、129人が亡くなりました。オランド仏大統領は「フランスは戦争をしている」と語り、バルス首相は「同じだけの報いを与える」として、イスラム国(IS)の本拠地シリア北部の空爆に踏み切りました。フランスは「私たちはテロには屈しない。断固とした処置をとる」と言っていますが、これは「目には目を、歯には歯を」という報復の思想です。心ある人々は述べました「パリで起きたような殺戮はシリアで日々起きていて、その中にはフランスの攻撃による死もある」。しかし誰も聞こうとはしません。
・創世記は「人を殺すことは神に敵対することだ」と語り、イエスは「目には目を、歯には歯をと命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない」(マタイ5:38-39)と言われました。今回のテロを起こしたISの中核はフセイン時代の軍人や秘密警察の幹部たちと言われています。2001.9.11同時多発テロ事件が起こり、アメリカは報復としてアフガニスタン、次にイラクを攻撃してフセイン政権を倒しました。そのフセイン政権の残党がISを形成し、そのISがフランスでテロを行い、今回その報復としてシリア空爆が為されています。暴力の連鎖が続いています。武力でこの問題を解決することはできません。「空爆はやむを得ない」とする人々の大合唱の中で、教会は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と語り続けます。カール・バルトは1968年死の直前に60年来親交を結んできた友人エドゥアルト・トゥルナイゼンに電話し、こう語ったと伝えられています「意気消沈しちゃだめだ。主が支配したもうのだから」(エーバハルト・ブッシュ著「バルト神学入門」から)。これが私たちの信仰です。