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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年11月1日説教(創世記4:1-16、カインの末裔)

投稿日:2015年11月1日 更新日:

2015年11月1日説教(創世記4:1-16、カインの末裔)

 

1.弟を殺したカインの罪

 

・11月の第一日曜日を教会は「聖徒の日」(Solemnity of All Saints、All Hallows)として覚えます。亡くなった聖人(信徒の方々)を記念する日で、紀元4世紀から続く古い慣習です。またこの日は私たちの教会の創立記念礼拝の時でもあります。篠崎キリスト教会は1969年11月6日に第一回目の礼拝をおこない、4年後の1973年11月3日に教会組織を行いました。今日は当教会の伝道開始46年、教会組織42年の記念の日であります。

・この二つの記念の日に私たちは創世記4章を通してみ言葉をいただきます。今日読みます創世記4章は「カインとアベルの物語」として有名です。アダムとエバは罪を犯して楽園を追放されますが、神は二人に子を持つことを通して命を継承することを赦され、カインとアベルが生まれます。兄のカインは土を耕す者(農耕者)に、弟アベルは羊を飼う者(牧羊者)となります。収穫の時が来て、カインは土の実りを、アベルは羊の初子を献げ物として持ってきました。ところが、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」(4:4-5)と創世記は記します。後代の教会はアベルがカインよりも勝った生贄を捧げたと理解しますが(ヘブル11:4 「信仰によって、アベルはカインよりもまさった生贄を神にささげ、信仰によって義なる者と認められた」)、創世記には主が何故そうされたかについての記述はありません。創世記記者がここで語っているのは、「主が何故カインの捧げ物を拒否され、何故アベルの捧げ物を受け入れられたか」について、それは神の判断であって人にはわからないということです。人の世には理由のつかない不条理や不公平があります。ある人は生まれながらに貧しく学校にも行けないのに、別の人は裕福な家に生まれ、十分な教育を受けることができます。不公平です。ある人は健康に生まれ、別の人は病弱に生まれ、病弱故に人生の選択肢が制限されます。不条理です。人生は不公平で不条理なのです。では私たちが、この不公平、不条理に直面した時、どうするのか。カインのように怒って相手を殺すのか、あるいはあきらめるのか、さらには神に異議申し立てをするのか、創世記は「あなたはどうするのか」と問いかけます。

・創世記は書きます「カインは激しく怒って顔を伏せた」(4:5)。カインは不当としか思えない神の不条理に怒り、顔を伏せました。彼の怒りは神の選びの不公平に対する怒りです。カインは顔を伏せて神の顔を見ようともしません。そのカインに神は問われます「どうして怒るのか、どうして顔を伏せるのか」(4:6)。神はカインの応答を待たれます。神への怒りであれば神に問えばよいのに、カインは何も言わず「顔を伏せた」。そのことによって、神に向くべき憤慨が弟アベルに向かい、カインは弟を野に誘い、殺しました。

・神はカインに問われます「お前の弟アベルはどこにいるのか」(4:9)。カインの両親アダムとエバは罪を犯した後、神から身を隠し「あなたはどこにいるのか」と問われました(3:9)。今、子のカインが神から問われます「あなたの兄弟はどこにいるのか」。あなたは誰を隣人とするのか、誰に責任を持つのか。神は私たちの罪に対して責任を追求されます。罪が罪として明らかにならなければ、罪の赦し=救いはないからです。神は赦すために私たちを裁かれます。

・神の問いにカインは答えます「知りません。私は弟の番人でしょうか」(3:9)。神はそのカインに問われます「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」(3:10)。アベルの血が大地に流れ、その血はカインを告発します。カインは自分がないがしろにされたと怒りました。この怒り、自分は不当に扱われたとの怒りは、私たちも経験する怒りです。そして、怒りは神の前に持ち出さない時、人を殺人にさえ追い込みます。2001年9月11日同時多発テロがアメリカで起こり、アメリカ人3千人が殺されました。アメリカ国民は怒り、アフガンやイラクを報復のために攻撃し、その結果数十万人の現地の人々が死に、アメリカ軍死者も6,500人を超えました。3,000人の報復のために6,000人が死ぬ。それが戦争であり、それがカインの怒りの結果です。私たちもカインと同じ罪、殺人者になりかねない怒りという暗黒を内に秘めているのです。私たちもまたカインの末裔なのです。

 

2.罪を犯したものを捨てられない神

 

・カインの罪によりアベルの血が流れ、それが地を不毛にし、人の生存を脅かすようになります。主はカインに言われました「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(4:11-12)。カインは罪の宣告を通して、自分の犯した罪の重さを知り、恐れおののきます「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでしょう」(4:13-14)。自分も殺されるかもしれない、カインは神に助けを懇願します。神はカインのような殺人者の叫びさえ聞かれ、カインに言われます「カインを殺す者は七倍の復讐を受ける」(4:15)。誰かがあなたを傷つけようとしても私が許さない、私があなたを保護し、あなたを守る。そして神はカインにしるしをつけられました。神は殺人者さえも生きることを許されることがここに記されています。後代の人間は「人を殺した者は殺されなければならない」として、死刑制度を作りました。しかし、報復のために人の命を奪う死刑制度は、人間を創造された神の御心ではないことを創世記は語ります。

・この「カインのしるし」をめぐって物語が展開するのが、ジョン・スタインベック「エデンの東」です。創世記では弟を殺して追放されたカインは、「主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ」(4:16)とあります。「エデンの東」という小説タイトルはここから来ています。この小説は、ある家族の「愛と憎しみの葛藤」を描いた物語です。父アダムは農園を経営していますが事業に失敗し、全財産を失います。母ケイトは家庭を棄てて出奔し、今は娼婦宿の主人になっています。兄息子アロンは真面目で、恋人もおり、父に信頼されています。弟息子キャルは難しい性格で、家族の中で孤立しています。キャルは父親が兄だけを愛し、自分に冷たいことに怒り、兄アロンを傷つけるように仕向け、傷心の兄は戦争に行き、そこで死にます。親子関係の破綻が兄弟を死に追いやる、現代のカインとアベルの物語がそこにあります。この小説はエリア・カザンによって映画化され(1955年)、ジェームス・ディーンがキャロルを演じて大評判になりました。小説が描くように、人は罪を背負って、エデンの東に住む存在なのです。私たちもまた「カインの末裔」なのです。しかし神はカインに「しるし」を与え守ってくださった。現代の私たちにとってこの「カインのしるし」とは何なのか、それが今日知りたい事柄です。

 

3.しるしとしての十字架

 

・今日の招詞に創世記4:26を選びました。次のような言葉です「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」。神はカインを追放されましたが、彼にしるしをつけて保護されました。カインは妻を娶り、彼女は子を産みます。カインの子孫からレメクが生まれ、レメクは言います「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」(4:23-24)。七倍の復讐はカインを保護するためのものでしたが、レメクが主張する七十七倍の復讐は自己の力を誇示するためのものです。カインは自分の罪を自覚して生きましたが、レメクには罪の自覚はありません。神の赦しを知らない者は、孤独と不安から自己の力に頼り、その結果、他者に対して敵対的になります。今年多くの議論を呼んだ安保法制(防衛力整備システ)はレメクの威嚇と同じです。他者を威嚇することによって自分の安全を図ろうとする、この人間中心主義の流れが現代にも継続されています。
・アダムとエバは次男を殺され、長男は追放されます。その二人に、主は新しい子、セトを与えられます。セトのヘブル名シャトは「授かる」という意味です。主によって子を授かったとの感謝の気持ちが込められています。前にカインを生んだ時にはエバは「私は主によって男子を得た」(4:1)とあります。直訳では「私は主のように人を創った」となります。つまりカインを生んだ時、エバは自分の力で子供を産んだと理解していた。しかしその傲慢の罪の結果、弟息子は殺され、兄息子は遠い所に追放された。その罪の悔い改めがセト(シャト)を「授かった」いう言葉に反映しているという理解です。子供は産む(造る)のか、それとも授けられるのか、この理解が子供に対する親の意識を大きく変えるのは現代でも同じです。そして、セトの子の時代に「主の名を呼び始めた」(4:26)と創世記は記します。「主の名を呼ぶ」、神を礼拝するという意味です。人間の弱さを知り、それ故に主の名を呼び求める人々の群れがここに生まれたのです。

・そしてイエスは「七の七十倍赦しなさい」と私たちに教えられました(マタイ18:22)。この流れの中で、「七十七倍の復讐をやめ、七の七十倍の赦しを」との願いが生れていきます。神に赦されたから人を赦していく、神中心主義の流れです。人間の歴史はこのカインの系図とセトの系図の二つの流れの中で形成されてきました。カインの子孫たちは「人間に不可能はない。劣った者は滅びよ」という考えを形成して来ました。現代社会ではこの流れが多数派でしょう。しかし少数であれ、「人間は弱い者であり、神の赦しの下でしか生きることが出来ない」ことを知るセトの流れを汲むものが存在し、教会は自分たちがセトの子孫であることを自覚します。
・私たちはカインの末裔です。私たちもまたエデンの東に住み、「殴られたら殴り返す」のが当然の社会の中で生きています。その中で、私たちは「七の七十倍までの赦し」を求めていきます。それはイエスの十字架を見つめる時にのみ可能になります。カインさえも赦しの中にあり、殺されたアベルもセトという形で新たに生かされたことを知る時、私たちもカインの末裔でありながら、「主の名を呼び求める者」に変えられていきます。そして十字架を仰ぐとき、イエスが死から蘇られたように、私たちも新しい命を与えられることを信じて行きます。かつてそう生きた人々を私たちは信仰の先達として覚え、記念します。それが私たちの創立記念の在り方です。

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