2015年10月4日説教(コヘレト12:1-8、青春の日にこそ創造者を覚えよ)
1.青春の日にあなたの創造者を覚えよ
・コヘレト書を読んでおります。今日が最終回です。先週読みました11章で、コヘレトは「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け」(11:9a)と語ります。しかし同時に、「知っておくがよい、神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい」(11:9b)とも語ります。12章も同じ文脈の中にあります「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」(12:1)。
・「お前の創造主に心を留めよ」、あなたは生きているのではなく、生かされているのだ。神がなぜあなたを生かしておられるのか、それを求めよとコヘレトは語ります。今日多くの人が「人生の意味を見いだせない」として自殺しています。WHOは世界の年間自殺者数が推定100万人に上っているとの報告書を出しました(2012.9.7)。年間自殺者数は戦争犠牲者と殺人による死者を足した数より多く、さらに、自殺者数が多かっただけではなく、年間に自殺を図った人の数はさらにその20倍に上ったといいます。現代社会の最も深刻な問題は人々が「生きる意味を喪失している」ことです。だから私たちは「生きる意味を探求した」コヘレト書を学ぶ必要があります。
・コヘレトが神と出会うのは、日々のささやかな生活の場です。彼は語ります「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ」(3:12)。しかし老年になればそれも不可能になります。だからそれが出来なくなる前に、神の与えて下さった現在を喜んで生きよと彼は語ります。「太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光が失せないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに」(12:1-2)。人は必ず老います。老いの怖さは、身体能力の低下です。老年になれば、手が震え、足はたわみ、歯は抜け、目は霞んでいきます。コヘレトは語ります「その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる」(12:3)。日本社会では人口の高齢化が進んでいます。このままいけば、コヘレトの描くような、活気を失った社会になりかねません。そうならないためには何を為すべきでしょうか。
・京都ノートルダム女子大学・村田久行氏は老年期を三つの喪失としてとらえます。一つは時間存在の喪失、「もうじき死ぬのだから、何をしてもしょうがない」として、生きる気力も失う喪失です。二番目は関係存在の喪失、「現役を退いた、孤独だ、誰も気にかけてくれない」という、他者との人間関係喪失による自己存在の意味を失うことです。三つめは自律存在の喪失、「人の世話になって迷惑かけている、何の役にも立たず、生きている値打ちがない」といった喪失です。しかしコヘレトの時代と異なり、現代は高齢になっても元気な人が多くおられます。70代になっても、80代になっても、体は元気である人は、気力さえ失わなければ何かができます。パウロは語ります「私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(第二コリント4:16)。身体能力は徐々に低下するでしょう。しかし、精神的能力、あるいは霊的能力は向上させることは可能です。「内なる人は日々新たにされて行く」、それは人がどれだけの使命感を持って生きるかにかかっています。「生涯現役であれ」、そうすれば時間存在の喪失、関係存在の喪失、自律存在の喪失は私たちの前から消えていきます。
2.死を超えた命はあるのか
・老いの後に来るものは死です。コヘレトは老と死を生々しく描写します「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る」(12:5)。体力が衰えて坂を上るのも大儀になり、髪はアーモンドの花のように真っ白になり、いなごが重荷を負うように体は自由が利かなくなり、若返りの薬であるアビヨナ(ふうちょうぼく)の実も何の効き目もないとコヘレトは語ります。そして最後の時が来ます「白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(12:6-7)。この部分をある人は次のように訳します「銀のくさり(美しい命)が切れ、金の器(かけがいのない体)が砕かれ、水瓶が泉のほとりで割れ(心臓が止まり)、井戸車が井戸で砕かれ(循環機能が止まり)、塵は元の地に帰り、霊(息)はそれを下さった神に帰る」(高橋秀典「伝道の書、翻訳と解説」)。コヘレト書は「空」で始まり、最後も「空」で終わります「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と」(12:8)。
・しかし、コヘレトは最後の12章で、「死を覚えよ」ではなく、「創造主を覚えよ」と語ります。「(肉である体は)塵であり、それは元の大地に帰る」。しかし、神から与えられた「命(霊)は与え主である神に帰る」。創世記は「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)と語ります。肉は死ねば塵に帰りますが、霊は創造主のもとに帰るのです。マザーテレサは説明します「すべての宗教は、永遠なるもの、つまりもう一つの命を信じています。この地上の人生は終わりではありません。終わりだと信じている人たちは、死を恐れます。もしも、死は神の家に帰ることだと、正しく説明されれば、死を恐れることなどなくなるのです」。
・コヘレトはたびたび「神が見えない」と語りました「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(3:11)、「神は天にいまし、あなたは地におる」(5:1)。それにも関わらずコヘレトは神を求め続けました。その探求の末にコヘレトが見出した神は、日々のささやかな愉悦の中に見出される存在であり、共におられる方でした。「神は共にいてくださる」、この真理を見出した者は人生の意味を見出します。強制収容所での体験を「夜と霧」として著したフランクルは、一人の若い女性との出会いを記しています。収容所の中で医師の仕事を任されるようになったフランクルは、ある時、発疹チフスにかかった若い女性と出会います。フランクルは語ります「この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘かかわらず彼女は快活であった。彼女は語った『私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝しています。以前の生活で私は甘やかされていましたし、本当に精神的な望みを持ってはいなかったからです。あそこにある木はひとりぼっちの私の、ただ一つのお友達です。この木とよくお話します』。『木はあなたに何か返事をしましたか』。『あの木はこう申しました。私はここにいる、私はここにいる。私はいるのだ、永遠の命だ』」。彼女は一本の木を通して神と対話しています。「あなたの創造主を覚えよ、神は共にいてくださる」、その信仰が彼女を生かしています。人は強制収容所の中でも、死の間際に追い込まれても、なお生きる力が与えられているのです。
- コヘレト書と現代
・今日の招詞にヨハネ20:29を選びました。次のような言葉です「イエスはトマスに言われた『私を見たから信じなのか。見ないのに信じる人は、幸いである』」。復活のイエスが弟子たちに最初に現れられた時、トマスはそこにいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、トマスは信じません。(ヨハネ20:24-25)。その疑い深い彼のためにイエスが再び来られたとヨハネは伝えます「八日の後、弟子たちはまだ家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた『あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい』」(20:26-27)。イエスの前にトマスは跪きます「私の主、私の神よ」。そのトマスに言われた言葉が今日の招詞「私を見たから信じなのか。見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉です。伝承によれば、トマスはインドにまで伝道に行ったとされています。南インドに「聖トマス教会」があり、トマスが立てた教会だという伝説が残っています。疑い深い弟子でさえ、一度復活のイエスに出会うと、地の果てと思われたインドにまで出かけていきます。どのような不信仰者であっても、復活のイエスとの出会いにより、変えられます。復活は、出会った人に命と力を与える出来事なのです。
・パウロは、死とは「地上の住処を脱いで天の住処を与えられる」ことだと理解します「私たちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(2コリント5:1)。「塵である肉体は元の大地に帰り」ますが、「霊は与え主である神に帰る」、死ぬことを帰天と受け入れた時、私たちは死を恐れることなく、生かされている現在を、使命をもって生きることができるようになります。死という終わりを見つめるからこそ、「今この時を生きている、生かされている」ことが感謝となる。そこから、今この時を無駄にしない生き方が生まれてきます。
・コヘレト書の研究者である小友聡先生はある説教の中で次のように語られました「黒沢明監督の古い映画に『生きる』という映画があります。ある役所に勤める男が定年前に、ふとしたきっかけで自分が末期癌に冒されていることを知るのです。彼はまったく無気力な役人でした。住民が公園を造ってほしいと持ってきた嘆願書も、面倒くさいと握りつぶしていました。けれども、自分の命が短いことを知って、この役人は夢中になって公園建設に奔走するのです。そして、ついに完成した公園のブランコに乗って、彼は満面の笑顔で歌を歌いました。命短し、恋せよ乙女、ゴンドラの歌です。これはおなじみの映画のストーリーです。けれども、これが、実は、聖書が私たちに強く勧める生き方です」(2009年6月20日茅ヶ崎教会春の伝道集会説教から)。「青春の日にこそ、創造主を覚えよ」とは、こういう生き方を選び取っていくことです。青春の日とは若い時を指すのではありません。あなたの気力・体力が元気なうちに「創造主を覚え」、なすべき仕事をしなさいとの勧めなのです。宗教改革者マルチン・ルターは「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」と語りました。三浦綾子さんはパーキンソン病に苦しみながら、「私にはまだ死ぬという、神様から与えられた仕事がある」と言われました。このような生き方です。