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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年4月12日説教(使徒言行録9:1-19、パウロの回心)

投稿日:2015年4月12日 更新日:

2015年4月12日説教(使徒言行録9:1-19、パウロの回心)

 

1.パウロの回心体験

 

・先週私たちは使徒1章から教会の始まりを学びました。エルサレムに始まった教会はペテロやヨハネ等ガリラヤ人の弟子たちを中心にした集まりでした。彼らは復活のイエスに出会ってその存在を変えられた人々ですが、信仰的には「律法を守り、神殿を尊ぶ」ユダヤ教徒でした。ユダヤ教中核の人々も彼らの存在を容認し、彼らはユダヤ教イエス派として活動しています。しかし、ギリシア語を話すユダヤ人たち(ヘレニスタイ)と呼ばれる人々が教会に入ってくると、少しずつ教会が変わり始めます。彼らは「人はイエスの十字架を通して救われる、律法や割礼は不要だ」と説き、「神は人が造った神殿には住まわれない」と公言します(7:49-50)。これはユダヤ教徒たちには我慢がならない異端であり、首謀者のステパノは殺され、ギリシア語系キリスト教徒たちはエルサレムを追われて、サマリアやシリアに逃れていきます。

・紀元32年ごろ、イエスの十字架死から2年後のことです。その模様を使徒言行録は次のように記します「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った・・・一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」(8:1-3)。「使徒たちのほかは皆・・・散って行った」、迫害の対象がギリシア語系キリスト教徒たちだけであったことを注目すべきです。体制の枠内でイエスの言葉を聞き続ける限り、迫害はありません。しかしイエスの言葉はこの世の体制を突き破る激しさを持っています。それに従い始めた時、迫害が始まります。しかしその迫害を通して良きものが生まれてきます。後のキリスト教会を形成したのはエルサレム教会等の体制派の人々ではなく、迫害されて追われていった反体制のヘレニスタイたちです。

・もう一つの注目点は、ここで初めて、サウロ、後のパウロが登場することです(サウロはヘブライ語読み、ギリシア語読みではパウロになる)。サウロはステパノ殺害に関わり、キリスト教会の迫害者として登場します。そのサウロがやがてパウロとなり、教会の大黒柱になっていく契機が、「サウロの回心」と呼ばれる出来事です。使徒言行録は記します「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(9:1-2)。サウロは弾圧を避けてダマスコに逃れたキリスト者を追って、ダマスコ(現在のダマスカス)まで行ったのです。そのダマスコに向かうサウロに突然天からの光が臨んだとルカは記します「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた」(9:3-4)。サウロが「あなたはどなたなのですか」と尋ねると、その声は「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(9:5-6)と答えます。サウロはこの出来事で目が見えなくなり、人々に手を引かれてダマスコに入ります。

・他方、ダマスコでは、教会のアナニアに神からの啓示があったとルカは記します「ダマスコにアナニアという弟子がいた・・・主は言われた。『立って、直線通りと呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ』」。(9:10-12)。アナニアは、「迫害者サウロを助けるために行け」という命令に反発します「主よ、私は、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」(9:13-14)。神はそのアナニアに言われます「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」(9:15-16)。アナニアはやむなく命じられた所に出かけ、サウロに食事を与え、介抱します。こうして「サウロは洗礼を受け、キリスト教徒になった」とルカは記します(9:17-19)。アナニアはパウロを「兄弟」と呼びます。神が召してくださったのであれば、迫害者も「兄弟」となります。教会は神の前に砕かれた人であれば、どのような前歴の人でも受け入れる場所です。

 

2.パウロの体験は私たちの体験でもある

 

・サウロ、後のパウロはこの出来事についてほとんど語りません。唯一ガラテヤ書の中で、「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた時、私は・・・アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(ガラテヤ1:13-17)と語るのみです。彼が出会ったのは復活のキリストです。パウロは証言します「(キリストは)三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました・・・次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(1コリント15:4-8)。聖書学者の多くは、使徒9章はルカがダマスコ教会で伝えられていた伝承を物語化したもので、史実性は少ないと見ます。多分そうでしょう。しかし何かが起きたのです。その何かはパウロの人生を変えた。そしてこのような何かは、私たちにも起こりうる出来事です。

・代々木上原教会の牧師だった村上伸は自分に起こった出来事を語ります「洗礼を受けた翌年、私は東京の神学校で勉強して牧師になりたいと秘かに決心した。だが、家の経済状態を考えると、そんなことはとても無理である。だから、この決心を中々言い出せずに悩んでいた。ところがある晩、教会での祈祷会から一人で帰宅する途中、突然、天から『死ねばいいではないか』という声が聞こえて来たのである。本当に聞こえたのかどうかは分からない。そのような気がしただけかもしれない。しかし、突然聞こえて来たこの声は、私の心を揺り動かした。パウロのように地に倒れたりはしなかったが、私は『我を忘れた』ようになった。あるいは、急な『めまい』に襲われた人のように暫く立ち尽くしていた。そして、これは『死ぬ気になって進めば、道は開ける』という神の声に違いと信じた。私は直ちに教会に引き返し、牧師に決心を打ち明けた。その時、今日までの道が決まったのである」(村上伸「突然、天からの光が」、代々木上原教会、2010年8月22日説教)。

・聖書学者の佐藤研は「現代における聖書の読み方」で語ります「聖書の中には、読んでいて、事柄として問題を感じる箇所、あるいは非常に気になる句、あるいは忘れられない事件とかいうものがあります。それらを、問題を覚えた時に問題のまま自分の心の深部で受け止めて、それを咀嚼する・・・このような言葉との出会いがあることは皆さんも経験があるかと思います・・・そしてある時、新しい世界を開いてくれる主体に聖書の言葉自体が変化するという出来事を経験します。一生に一度か二度、そのような危機の状態で、何かに出会った瞬間、全身全霊で自分が飲み込まれるような、そして今まで全く思ってもいなかった何かが、ポカッと開くという、そのような体験です」(佐藤研、イエスの父はいつ死んだか、聖公会出版)。私たちもこのような出来事を経験しています。ある時、神との突然の出会いが起こり、自分が変えられる体験です。パウロの体験は特別なものではありません。

 

3.感動が信仰を生む

 

・今日の招詞に使徒7:60を選びました。次のような言葉です「それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」。ステパノの殉教時の言葉です。ステパノはイエスが十字架上で自分を殺そうとする者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られたことを知っています。もしかしたらステパノが信仰に入ったきっかけはイエスのとりなしの祈りを聞いたからかもしれません。そのため、自分が同じように殺されようとしたその時に、この祈りが自然と出てきたのでしょう。その場にはサウロ(パウロ)がいました。使徒言行録は記します「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、私の霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」(7:57-60)。

・その場にいたサウロは思ったことでしょう。何故彼らキリスト教徒たちは自分を殺す者のために祈ることが出来のだろうか。パウロはキリスト教徒たちを捕らえて尋問しながら、「何故彼らは敵を憎まないのか」、「何故彼らは敵のために祈ることが出来るのか」、「もしかしたら彼らの方が神に近いのではないだろうか」と思い続けたのかもしれません。それがある時、「サウル、サウル、何故、私を迫害するのか」という声としてパウロに響いたのだと思います。私たちもそれぞれの人生の物語の中で復活のキリストに出会います。聖書を読んでいる時、説教を聞いている時、あるいは苦難の中で泣いている時に、神の言葉が心の中に響く体験をします。それは現代でも繰り返し起こっている、だからこそ、人は洗礼を受けて、自分の信仰を表明するのです。

・パウロはかつて自分の信じる正義を人に押し付ける傲慢な人でした。その彼は復活のイエスに出会った後に告白します「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。パウロは自らの熱心を人に押し付ける者から、他者(すなわちキリスト)のために苦しむ者に変えられたのです。同じ経験をした私たちも唱和します「私たちの古い自分はキリストと共に十字架につけられた」(ローマ6:6)、だから私たちは「キリストとともに生きる」(同6:8)。

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