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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年2月15日説教(第二コリント10:1-17、私たちは何のために教会に集められたのか)

投稿日:2015年2月15日 更新日:

2015年2月15日説教(第二コリント10:1-17、私たちは何のために教会に集められたのか)

 

1.コリント教会からの批判に対するパウロの反論

 

・第二コリント書を読み続けています。パウロはコリント教会を設立した後、エペソに移り、その地の開拓伝道に従事していましたが、パウロ不在の間に、エルサレムから伝道者たちが来て、パウロ批判を行い、その結果、コリント教会が反パウロになっているとの報告を帰国したテモテから受けます。驚いたパウロは急遽コリント教会を訪問しますが(12:14,13:1)、事態は改善せず、逆に教会から中傷、誹謗を受け、パウロはエペソに戻り、コリント教会に宛てた「涙の手紙」と言われる激しい叱責の手紙を送ります(2:4)。その手紙が第二コリント10-13章に編集されていると言われています。1-9章とは語調の変わった激しい手紙です。今日はパウロの書いた「涙の手紙」を読みながら、私たちが教会に集められている意味について学びたいと思います。

・10章でパウロは自分に加えられている批判に反論しています。パウロの反対者たちは、パウロを「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」(10:1)とか、パウロは「肉に従って歩んでいる」(10:2)と批判していたようです。「面と向かっては弱腰」とはパウロは卑屈だとの批判であり、「肉に従って歩んでいる」とは、パウロは人間的な打算で行動している」との批判です。新約聖書外典「パウロ行伝」によれば、「パウロは小柄で頭が禿げ、足が曲がり、しかめ面をし、鼻が高く、しかし慈愛に満ちていた」とあります。パウロの外見は見栄えがしなかったようです。また説教もうまくなかったようです(10:10「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」)。さらにパウロにはどもり癖があり、興奮するとどもりが一層強くなったと伝えられています。批判者たちはパウロの外観を見て、パウロ批判をしていたのです。

・その批判にパウロは反論します「私たちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません」(10:3)。人はだれも肉の体を持って生きます。しかし、「肉に従って生きてはいない」とパウロは強調しています。「肉において生きても、肉に従っては生きない」と彼は言うのです。だから彼は肉の武器ではなく、神の武器を用いて戦います。「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。私たちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています」(10:4-6)。パウロはコリント教会の混乱の背後に教会を乱すサタンの働きを見て、「神の武器を取ってサタンと戦う」と言います。彼の考えている神の武器とは何か、パウロは別の所で次のように述べています「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいます」(第一テサロニケ5:8)。信仰、希望、愛、その三つの神によって与えられた武器を持って「理屈、高慢、思惑、不従順等の人間が造った要塞を破壊し、教会を再建する」とパウロは宣言しています。

 

2.使徒の権威と誇り

 

・反対者たちはパウロが使徒であることを否定していました。何故ならばパウロはエルサレム教会からの推薦状を持っていないし、生前のイエスから直接の委託を受けたわけでもないからです。現代でも牧会者の資格が問われます。「彼は教団が認定した神学校を出ているのか」、「彼は資格のある牧師からの按手礼を受けているのか」等々です。しかしパウロはそのような外形的なものは何の意味もないと語ります「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じく私たちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主が私たちに授けてくださった権威について、私がいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう」(10:7-8)。外形的な資格よりも、その人が「教会を打ち倒すためではなく、造り上げるために」働いているかがより重要ではないかと。

・パウロは語ります「私はコリント教会を開拓伝道した。そのことが私の使徒であることを証する。コリントは神が私に委ねてくださった伝道の場なのだ。自己推薦する者ではなく、神から推薦されている者こそ真の牧会者ではないか」と。それが12-14節の言葉の意味でしょう。パウロの反対者たちはパウロが立てた土台の上に立っている教会を混乱させ、壊そうとしています。今日でも教会でも争いが絶えません。信徒と牧師、あるいは信徒同志で反目し、争うことが起こります。しかし、教会の目的は争うことではなく、成長して伝道拠点になることです。パウロは語ります「私たちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間で私たちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、私たちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです」(10:15-16)。最後にパウロは訴えます「誇る者は主を誇れ。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(10:17-18)。「私は自分のためではなく、主のために働いている。そのことだけは理解して欲しい」とパウロは訴えます。私たちの教会でも様々な不協和音が生じるでしょう。それをどう解決していくのか。「何が教会を建て、何が教会を壊すのか」、それが問題解決のための基準になります。

 

3.良き力にわれ囲まれ

 

・今日の招詞にローマ6:4を選びました。今日行われたバプテスマ式を記念するためにです。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」。洗礼とは一旦死ぬ行為です。そして死んだ体が神により起こされます。起こされた後、私たちはどのような存在になるのか。コリント教会のように争いばかりをしている体になるのか。そうではないでしょう。私たちは新しい命に生まれ変わるのです。その新しい命を象徴する歌が、今日聖歌隊が歌ってくれた「善き力にわれ守られ」という讃美歌の中にあります。

・新生讃美歌73番「善き力にわれ守られ」(教団讃美歌21・469番)は、1944年12月28日に獄中のD.ボンヘッファーが婚約者のマリヤに送ったクリスマス挨拶の中に書かれた詩です。ボンヘッファーは牧師でした。彼はドイツを救うにはヒトラーを倒すしかないと決意し、1944年7月に暗殺計画に加わりましたが失敗、投獄されていました。獄中でボンヘッファーは1944年のクリスマスを迎えます。彼は手紙の中で語ります「私があなたにクリスマスにこの手紙を書くことができ、あなたを通じて両親や兄弟たちに挨拶を送り感謝できるのを喜んでいます。 きっと私たちの家は静かな時を迎えていることでしょう。私の周りが静かになればなるほど、あなた方との結びつきがより深まることを実感できるのです。それは、あたかも孤独の中で、魂が日常生活ではほとんど感ずることが出来ないような感覚を育てていくようなものです。それで私は一瞬たりとも、独りぼっちであったり、取り残されていると感ずることはありません。あなた、両親、友人たちはいつも現実として私の前にいるのです。あなたがたの祈りと良き心使い、聖書の言葉、昔行った語らい、音楽、本は前にもまして命と現実性を持ってくるのです。そして、その大きな見ることの出来ない世界に私は住み、その世界の存在を何の疑いもなく認めるのです」。

・讃美歌の1番は次のような詩です。「善き力にわれ囲まれ、守り慰められて、世の悩み共に分かち、新しい日を望もう。過ぎた日々の悩み重く、なおのしかかる時も、さわぎ立つ心しずめ、御旨に従い行く」。半年間も彼は投獄されています。その中で、彼は家族や友人が彼のために祈りを続けてくれる事を感謝し、それを与えてくれた神の守りを「善き力に囲まれ」と歌います。ナチスに対する反逆罪で捕らえられた彼は死刑になることを予感しています。また牧師として、暗殺行為に関ったことが良かったのか、迷いはあります。その迷いの中で「御旨に従い行く」と歌います。

・2番が続きます「たとい主から差し出される杯は苦くとも、恐れず感謝をこめて、愛する手から受けよう。輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来るべき朝を待とう」。主から差し出される杯は「苦いもの=死」かも知れません。死ぬのは怖い。人としては、釈放されてまた家族や友人と楽しい日々を過ごしたいと願います。しかし、それは適わないかもしれない。その時は主から差し出される杯をいただこう。このよこしまな、曲がった時代の中にも、神の光は輝いている。「神がわれらと共にいませば」、それでいいではないかと彼は歌いました。

・いつ処刑されるかわからない不安の中にありながら、主にある平安を彼は喜びます。4ヵ月後の1945年4月に処刑されて、彼は死にます。39歳でした。キリストを信じる者にも死は恐怖です。しかし、その恐怖は神が取り去って下さいます。信仰のある者と無い者の違いは、いざという時に絶望に押しひさがれるか、それとも神による救いを見出すかです。バプテスマにより与えられる信仰とは、たとえ死を前にするという苦難の中にあっても、「善き力に私は囲まれている」という世界を見つつ生きる力です。私たちはこの信仰を与えられ、この福音を伝える存在になるために召されているのです。最後にパウロの言葉を聞きましょう「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(第二コリント13:4)。

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