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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年10月18日説教(創世記2:4-25、人間の創造)

投稿日:2015年10月18日 更新日:

2015年10月18日説教(創世記2:4-25、人間の創造)

 

1.人間の創造

 

・私たちは今、創世記を読み始めています。先週私たちは創世記1章を読み、それがイスラエル国の滅亡とバビロン捕囚という苦しみの中で生まれてきたものであることを学びました。私たちが今生きているこの世界、この現実の中に「混沌」があり、「闇」があり、救いようのない「絶望」があります。「地は混沌であって闇が全地を覆っていた」、しかし神の「光あれ」という言葉が響くとそこに光が生まれ、混沌が秩序あるものに変わっていった、そこに異国に捕らわれていた人々は希望を見出していった、それが創世記1章であることを知りました。

・今日私たちは創世記2章を読みますが、そこには1章と異なる別の創造物語が記載されています。創世記1章では光の創造から始まり、天地が創造され、そこに植物や動物が造られ、最後に人間が創造されて物語が締めくくられます。他方、今日読みます創世記2章では、まず人が土の塵から創造され、神の命の息が吹きこまれて生きる者になり、その人のために植物や動物が創造されたと描かれています。なぜ二つの創造物語があるのか、著者が異なるからです。文献学的には、創世記2章は紀元前10世紀ソロモン王国時代に書かれたと言われています。国土が拡張され、産業が興り、国は豊かになった、しかし同時に人々は驕り高ぶり、自分たちだけで何でもできるように思い、人間の力を過信するようになっていた。その同時代の人々に著者は、「人間は土の塵から造られ、神が命の息を吹き入れて下さって初めて生きる者となった」と語ります。創世記は最初に紀元前10世紀のヤーウェストと呼ばれる人々が基本を構築し、紀元前6世紀の捕囚時代の祭司たちがそれに加筆補正してできた書物と考えられています。

・創世記は2章4節から新しい物語を語り始めます。「主なる神が地と天を造られた時、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった」(2:4-5)。創造前の世界は水がなく、また土を耕す者もいないため荒涼たる世界であったと著者は記します。大地は水が与えられ、耕す者がいて、初めて収穫をもたらします。その大地に主は水を与えてくださった、それが2:6「しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した」に表現されています。あと必要なものは耕す人です。それ故に神は人間を創造されたと創世記は語ります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)。ここに二つのことが語られています。一つは神が「土の塵」で人を創造されたこと、二つ目は神が「命の息(霊)」を吹き込まれて人は生きる者となったということです。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような、はかない存在に過ぎないことを示します。人は死ねば土に返って行く、はかない存在です。しかし、その無価値な存在に、神は「命の息」を吹き込まれた。そして人は生きるようになった。肉体は土でできていても精神は神の霊で構成されている、人間はそのような存在だと創世記2章は語ります。
・そのような人間に、神は園を耕し、管理する業を委ねられます。「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」(2:8)、そして「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)。「耕す=ヘブル語アーバド」は「働く、仕える」という意味も持ちます。仕える人がいなかった時、大地は何も生まなかったが、人が地に働きかけ、耕して行く時、地は収穫をもたらします。耕す(cultivate)時に、そこに文化(culture)が生まれていく、ここに聖書の労働観があります。人は働くために創造され、使命感をもって働く時こそ、本当に生きる存在となるとの主張です。

 

2.向き合う存在としての他者の創造

 

・人を創造された神は、園の中央に「善悪の知識の木」を置かれたと著者は書きます。そして、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16-17)と言われました。3章ではアダムとエバが戒めを破って知識の木の実を食べることが記述されます。教会ではこの物語を「堕罪物語」、あるいは「原罪の起源を説明するもの」と理解してきました。しかし、創世記の文脈からはそう読むべきではないと思います。この物語ははるか昔に起こった何かについて語るのではなく、現在の人間の在り方について語っているのです。なぜこの世に罪があるのか、なぜ人は憎みあい、殺しあうのか、それは人が「神のために働き、仕えることに幸福と自由を見出す」生き方ではなく、「神のようにすべてを知り、自分の力で生きることにより、幸福と自由を勝ち取る」という生き方を選択したからではないかと理解し、そのことを物語として提示しているのです。神を中心に他者と共存して生きる道か、自己を中心に他者を支配する道かが人間に与えられ、人は他者を支配する道を選んだ、だからこの世には罪が満ち溢れていると創世記著者は考えています。

・さて、人は創造されましたが、共に生きる者が居ませんでした。そこで神は言われます「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(2:18)。人は一人でいるべき存在ではなく、他者との出会いと交わりの中に生きる存在であると聖書は語ります。「人に合う助ける者」として最初に動物が創造されますが、動物はその役割を果たさなかった、なぜなら動物は人との人格的関係を持てなかったからだと創世記は語ります。そして最初の向き合う存在=他者として女が造られます。21-22節「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた」(2:21-22)。人と共に生きる者として女性が創造されました。そして「男=イシャーから取られたものだから女=イシュと呼ぼう」と名づけられます(2:23)。一つの体から造られた故に、男と女は本能的に相手を求め合い、その結果として二人は一つになり、それが子という新しい命を生み出していくという理解です。「こういうわけで男は父母を離れ、女と結ばれ、二人は一体となる」(2:24)。結婚によって家族が形成され、それが社会の基本単位を構成していきます。

・先に創世記2章は紀元前10世紀のソロモン時代に書かれたと申しました。当時の支配階級は一夫多妻で、ダビデもソロモンも多くの妻を持っていました。そのような中で創世記2章の著者は、人はその妻と向き合って家族を形成するのであり、一夫多妻は人間本来のあり方ではないと批判しています。また当時の家父長制社会では女性は子を生むための道具と考えられ、子が生まれなければ別の女を娶って子をなしてもよいとされていました。そのような風潮に対し、彼は夫婦関係こそ社会の基本単位であって、人はそのように創造されたと主張しています。今から3000年前に夫婦関係こそ家族の基本であるとの主張があったことは驚くべきことであります。

 

3.他者と向き合うことが出来ない存在が変えられる

 

・女が造られることによって、人は一人ではなく、共に生きるものとなりました。しかし、この関係が罪を犯すことによって変化していきます。今日の招詞に創世記3:11-12を選びました。次のような言葉です「神は言われた『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか』。アダムは答えた『あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』」。エデンの園で、神は「園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられ」(2:9)、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(2:17)と命じられました。しかし、人は、禁じられたその実を食べ、神から譴責されます。人は禁断の実を食べたことにより罪人となり、楽園を追い出されたと通常は理解されていますが、創世記を注意深く読むとそうではないことが明らかになります。人の犯した最大の罪は、神の命じた戒めを守らなかったこと以上に、神が与えて下さった恵みを捨てたことです。人は一人では生きることが出来ない故に向き合う存在を与えられましたが、いざとなるとそのともに生きるべき妻を捨ててしまったのです。

・人は妻が与えられた時、妻を「私の骨の骨、肉の肉」と呼び、これをいとしみました。ところが自分の責任を問われるようになると人は「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と責任を妻に転嫁します。彼は自分の犯した罪の責任を取ろうとしないばかりか、その責任を神につき返します「あなたが妻を与えなければこのような罪を犯さなかった」。女も言います「蛇が悪いのです。あなたが蛇さえ創らなければ罪を犯さなかった」。神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれ、人は楽園から追放されます。人は罪のゆえに楽園から追放されて、荒れ野のような世を生きなければならなくなった。その荒れ野をますます生きにくいものとしているのは、私たち一人一人が持っている罪だと創世記2章を書いた著者は語ります。

・しかし、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。神は人間を裸のままに追放されたのではなく、着物を人間のために用意し、彼らを保護した上で追放されます。人は楽園を追放され、額に汗して地を耕す者になりました。人は地を耕して初めて、太陽と雨がなければ収穫はなく、それは人の力では支配できないもの、ただ神の恵みにより与えられる事を知ります。「食べれば死ぬ」と言われた罪を犯したのに、神は生きるための糧を神が与えてくださる事を知ります。女は苦しんで子を産むことを通して「お前たちは死ぬ」と呪われた存在であるのに、生命の継承を許してくださる神の恵みを知りました。人は楽園追放を通して、初めて神の愛を知ったのです。

・私たちがこの創世記2章の物語を、単なる神話と受け止めたとき、それは私たちと無関係の文書になります。そうではなく、創世記を私たちに語られた神の言葉として受け入れた時、人は何故他者を愛することが出来ないのか、人は何故最愛の人さえも平気で裏切るのかという私たちの本質が問われ、自分の本当の姿、罪が明らかになります。そして「神との関係が断たれた時、他者との関係も断たれてしまう」ことを知り、関係の正常化、罪からの赦しと解放を求めるようになります。私たちは自分たちが今楽園の外(エデンの東)にいることを知るからこそ、教会に集まり、創世記を共に読みます。そして「他者と向き合う」ことができる存在に変えられるように、主なる神に祈るのです。

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