1.パウロとコリント教会
・パウロがコリント教会に書いた第一の手紙を読んできました。今日が最終回です。今日の箇所はパウロが第一の手紙の締めくくりとして書いた所です。パウロの所にコリント教会からの使者が来て、教会の諸課題について質問した手紙を持って来ています(16:17-18「ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。私とあなたがたとを元気づけてくれたのです」)。パウロは手紙に書いてある質問や使者たちから聞いた教会の課題に答える形で、返事としてこの手紙を書いているのです。
・16章でパウロはこれからの計画について書いています。第一の手紙を書いた時点(紀元54年春)では、パウロは教会の先行きについてまだ楽観的でした。いろいろ問題はあっても教会員は一つ所に集まって礼拝を持っているし(11:18-20)、この手紙が教会に届き、また使者によってさらに詳しい説明が為されれば、教会の諸問題は解決するだろうと考えていました。教会からはパウロにコリントに来てほしいとの要望があったでしょうが、パウロは今エペソを動くことが出来ない事情がありました(16:8-9「しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。私の働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」)。パウロの代わりに弟子のテモテがコリント訪問を計画していました(16:10「テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。私と同様、彼は主の仕事をしているのです」)。
・その時のパウロの主要関心は異邦人教会からの募金を集めて、それをエルサレム教会に運ぶことでした。彼は手紙の中で書きます「聖なる者たちのための募金については、私がガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。私がそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。私も行く方がよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう」(16:1-4)。パウロは母教会のエルサレム教会と新しく設立された異邦人教会との不和に心を痛めていました。ユダヤ人キリスト者はあくまでもユダヤ教の土台の上にイエスの出来事を理解していますが、異邦人キリスト者はその土台がないのです。信仰理解の違いが、両教会の不和の原因になっていました。パウロは両者の和解のために、異邦人教会からの捧げ物を持ってエルサレム教会を訪れることを希望していました。コリントの手紙の後に書かれたローマ教会への手紙の中でパウロはその心情を述べています「今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15:25-27)。
2.献金問題をどのように考えるか
・パウロの計画ではマケドニア諸教会(ピリピ教会、テサロニケ教会等)を訪問した後、コリントに向かう予定でした(16:5-6「私は、マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから、たぶんあなたがたのところに滞在し、場合によっては、冬を越すことになるかもしれません」)。この計画はマケドニアやコリントで募金を集め、その後コリントから船便でエルサレムに向かう前提の下で立てられたものでした。しかし、このコリントでの募金計画が、やがて教会とパウロの間を引き裂くような深刻な問題を引き起こします。詳細はコリント第二の手紙にありますが、概略を述べますと、「エルサレムから巡回訪問してきたユダヤ人伝道者たちが、パウロの使徒資格をめぐって批判を行い、その中にはエルサレム教会への献金も実はパウロが私腹を肥やすために行っているのだとの中傷も含まれており、その影響でコリント教会の人々がパウロ不信になっている」というものでした。パウロは驚き、また悲しみます。
・教会ではお金の使い方をめぐって対立が起こることがあります。先日開かれました日本バプテスト連盟の総会で交わされた議論も、連盟に献金されたお金をどのように用いるかを巡ってのものでした。バプテスト連盟の活動は諸教会から捧げられた協力伝道献金で運営されていますが、連盟の中に国内重視派(国内の疲弊した教会再生に重点的にお金を使うべきだ)と、海外重視派(海外伝道もまた連盟の大事な働きである)の意見の相違があり、今年開かれました連盟総会では、協力献金が縮小する中で国内活動の一部を抑制して海外伝道活動を維持しようという理事会提案が総会で否決されるという出来事が起こりました。どちらが正しいという問題ではありません。国内教会の再建に力を注ぐべきとの意見と海外伝道を推進していこうとする意見がぶつかり、国内派の意見に多くの代議員が賛同したのです。コリントで起きた出来事もこれに通じる事柄です。確かにエルサレム教会はキリスト教発祥の地であり、パウロやペテロの母教会かもしれないが、見たこともない教会のために何故自分たちが献金するのか、自分たちもそんなに余裕があるわけではないという反発が教会内で拡大し、それがパウロに対する不信として表に出たものです。
3.パウロをこの問題をどのように解決していったのか
・今日の招詞に第二コリント7:10を選びました。次のような言葉です「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。パウロはコリント教会へ四通の手紙を書いたといわれていますが、残っている手紙は二通だけです。二番目の二コリント書を読みますと、前半1-9章と後半10-13章は大きく様相が異なります。おそらく第二コリント書の前半と後半は別の手紙で、後半10章以下は失われたといわれている「涙の手紙(第二コリント2:4「涙ながらに手紙を書きました」)」の一部ではないかとされています。その「涙の手紙」の中で、パウロは激しい言葉でコリントの人々を批判しています「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出ると思われている、この私パウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。私たちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです」(10:1-2)。「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」とはコリント教会の人々がパウロを批判した言葉でしょう。「肉に従って歩んでいる」とは、パウロは損得勘定で行動しているとの批判です。
・先に述べましたように、巡回伝道者たちがパウロ批判を繰り返し、教会の一部が反パウロになっていました。彼らは「パウロはイエスの直弟子ではないから使徒ではない。私たちはキリストの直弟子だった使徒たちから派遣された正当な使者たちだ」と誇ったようです。このような批判に対してパウロは激しく反論します。「確かに自分はエルサレム教会からの推薦状を持っていないし、イエスの直弟子でもないが、自分の使徒職はキリストから直接受けたものだ」と主張し(10:7-8)、さらには「教会を混乱させる者、壊そうとする者には徹底して戦う」とパウロは宣言します(10:15-16)。彼は反対者たちを「偽使徒、ずる賢い働き手、サタン」とさえ罵ります(11:13-14)。コリント教会の誤解の一つは、献金に関するものでした。パウロが教会からお金をかすめていると反対者たちは非難したのです。パウロは、自分で働いて生活の糧を得ていましたが、それを反対派の人々は胡散臭いと考えたのです。またパウロはエルサレム教会への献金運動を熱心に推し進めていました。ユダヤ人教会と異邦人教会の和解のために、経済的に逼迫していたエルサレム教会を支援しようとしたのですが、この募金活動について反対者たちは「パウロは私腹を肥やしている」と非難しました(12:16-18)。伝道者にとって金銭的な問題で誤解を受けることほど悲しいことはありません。
・コリント教会はかたくなでした。パウロは教会の人々の誤解を解くために手紙を書いたり、あるいは急遽訪問して説明したり、テトスを派遣したり、できる限りの努力をしました。その結果、人々の誤解は解け、パウロは教会に感謝の手紙を送ります。それが第二コリント書前半部分であり、その7章10節に招詞の言葉があります。その前段階で彼は次のように語ります「あの手紙(涙の手紙)によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、私たちからは何の害も受けずに済みました」(7:8-9)。
・コリント教会とパウロの対立が二つのコリント書を生み、素晴らしい信仰の言葉を生み出していったことを考えますと、私たちはコリント教会のかたくなさに感謝する必要さえあります。神は対立の中からでも素晴らしいものをお作りになるのです。連盟内の対立もやがて解決するでしょう。何故なら双方とも「神の御心に適った悲しみ」を体験しているからです。関連して第一コリント10:13を読みたいと思います「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。正にその通りだと思います。教会内の対立は真摯なものであれば必ず解決する、それを私たちは信じます。