1.パウロのうめき
・今日、私たちはペンテコステ礼拝を捧げるために、教会に集められました。ペンテコステとはギリシャ語で50と言う意味です。イエスが復活されてから50日目の五旬祭の時に、聖霊降臨という出来事が起こります。弟子たちはイエスの教えに従い、聖霊を求めて祈り続け、祈りに答えて聖霊が下りました。その時の様子を使徒言行録2章が伝えますが、それによれば、イエスの十字架死の時、逃げ出した弟子たちが公衆の面前で雄弁に語り始め、聴いた人々に回心が起きました。ペンテコステはイエスの言葉を聞くだけだった弟子たちが、自ら語る者となり、その結果、信じる者が起こされ、教会が生まれた記念の日です。
・エルサレムに生まれた教会は福音を世界へと宣教し、やがて福音は当時の世界の中心地ローマにまで届きます。その中心になったのが使徒パウロです。パウロはキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人で、律法に熱心なパリサイ派に属していました。彼は「人は律法を守ることによって救われる」と信じ、その律法への熱心が、律法を軽視するキリスト教徒の迫害に走らせました。彼は、異端と思われたキリスト教徒を撲滅するために、「家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に送って、教会を荒らし回った」(使徒8:3)のです。その彼がキリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かう途中で、突然の回心を経験します。天からの光に打ちのめされ、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きます。彼は問います「主よ、あなたはどなたですか」。それに対して答えがありました「私は、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。
・具体的に何が起こったのかはわかりません。わかることは、パウロが復活のキリストに会い、キリストの迫害者から伝道者に変えられたという事実です。そのパウロがキリストに出会う前にどのような状況に置かれていたかを記すのが、このローマ7章です。律法に熱心な者として戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分、神の前に罪を指摘される自分」でした。だからパウロは言います「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(7:15)。キリストの光に照らしだされた時、以前の自分の状態があからさまに見えて来たのです。律法を守ろうとしても守りきれない自分がいたのです。
・「律法によって人は救われない」、これは律法を熱心に守ろうとした人だけがわかる真理です。律法は最終的には二つの言葉に要約されます。「神を愛しなさい」、「隣人を愛しなさい」。隣人を愛するゆえに、「殺すな」、「盗むな」等々の戒めが生まれて来ます。しかし人は隣人=他者に対して純粋な愛を持つことはできません。愛の中にどうしてもエゴイズムが生まれてくるからです。私たちの愛は相手の中に価値を見出すゆえに相手を愛する愛です。だから相手に価値が無くなればもう愛することはできない。結婚生活においても相手の価値が無くなれば、例えば夫が失業し、妻が病気になれば、もう結婚生活の維持は難しくなる。三組に一組が離婚するという現実は、結婚生活が「価値の取引」であることを示しています。ところが律法は相手に価値があろうとなかろうと愛することを求めます。その時、人は律法を守ることが出来ないことが明らかになってきます。だからパウロは嘆きます「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」(7:18-20)。
2.私の中に住むもう一人の私
・「私の中に住んでいる罪」、これが自我(エゴ)、自分さえ良ければ良いという人間の本質です。そしてそのエゴを見つめて行った時に、自分の中に「もう一人の自分」がいることが見えて来ます。理性では制御出来ない、心の中から突き上げてくる罪の衝動に動かされる自分です。パウロは言います「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(7:22-23)。自分の力によって、救いを得ようとした時、パウロが出会ったのは裁きの神でした。律法を守ろうとしたパウロが見出したものは、自分が罪人であり、その罪から解放されていない事実でした。だからパウロはうめきの声を上げました。そのうめきが24節の言葉です「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」。
・「私の中にもう一人の私がいる」、キリストを信じて平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。罪にとらえられているという意識、その結果神の怒りの下にあることの恐れが、パウロを苦しめました。しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られました。パウロを待っていたのはキリストの赦しでした。恐ろしい神との敵対は一瞬のうちに終結し、反逆者パウロに神との平和が与えられました。キリストが命を捨ててまで救おうとされたのは、善人でもなく義人でもない、キリストの迫害者として憎んでも余りある自分のためであった。ダマスコで復活の主イエスにまみえた時、パウロはこの驚くべき真理によって打ちのめされ、彼はキリストの迫害者からキリストの伝道者に変えられていきます。だから彼は言うのです「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:2-3)。
3.罪からの解放の喜び
・罪とは何かを私たちに教えるイエスの譬えに、「ぶどう園の労働者の譬え」があります。今日の招詞にマタイ20:14-15を選びました。次のような言葉です「自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、私の気前のよさをねたむのか」。
・「ぶどう園の労働者」の譬えは、ぶどう園の主人が、収穫にために大勢の労働者を日雇いするところから物語が始まります。主人は夜明けと共に市場に行き、労働者を雇います。賃金は当時の日給の1デナリです。しかし収穫作業が忙しく労働者が足りないため、主人は9時頃にまた雇い、12時にも3時にも新たに労働者を雇います。最後に雇われた労働者は夕方の5時でした。日が落ちて、ぶどう園の主人は労働者に賃金を支払います。最初に賃金の支払いを受けたのは、最後に雇われた労働者たちでした。主人は1時間しか働いていない彼らに1デナリを払います。この主人の気前の良さが、最初に雇われた人々の期待を膨らませました。しかし彼らに支払われたのも同じ1デナリでしたので、不満が爆発します「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(マタイ20:12)。それに対する主人の答えが今日の招詞です。「私の気前のよさをねたむのか」、「ねたむ」、原語では「あなたの悪い目=オルタルモノス・スー・ポネロス」、自分の財産や権利を守るために、私たちが自分の周りに張り巡らしてしまう視線のことです。
あなたがたはそのような「悪い目」を持っていると主人は答えます。
・朝から働いた人たちが最初に1デナリの支払いを受けていれば、約束通りであり、彼らは満足して家に帰ったでしょう。しかし1時間しか働かなった人が1デナリを受け取った事実を知った今は、約束通りの1デナリでは満足出来ません。同じ1デナリが他者比較をした後では満足できないものに変わっていきます。「働いた成果に応じて報酬が与えられる」という世の常識から見れば、朝から働いた労働者の不満は理解できます。主人は何故1時間しか働かない人に、1デナリを支払ったのでしょうか。それは1デナリがないと労働者とその家族は今日のパンが買えないからです。それは生きるための最低賃金、人間の尊厳を守るための賃金なのです。
・この主人の慈しみが人間をつまずかせます。朝から働いた労働者はこの世的な公平を求め、1時間労働者の賃金が12分の1デナリであれば満足したことでしょう。その結果、1時間労働者が今日のパンを買うことが出来なくとも、それは彼等の関知するところではない。現代日本では労働者の3分の1は非正規雇用であり、彼らはいくら働いても家族を養うだけの収入を得ることは出来ません。また労働組合も非正規雇用の問題には関与しない。彼らは組合員ではないからです。私たちの社会は「悪い目」を内包しています。この悪い目、自分の満足のためであれば他人のことを考慮しない悪い目こそ、聖書の語る「罪」です。この「悪い目」が子供たちの世界では、「いじめを見ても見ないふり」という行為をさせます。いじめられている人に同情すれば今度は自分がいじめの対象になりかねないからです。この「悪い目」が大人の社会では、「食品偽装や談合等の悪に目をつむる」行為に招きます。内部告発して会社が倒産すれば、自分の生活を脅かされるからです。しかし、聖書は、この「悪い目」こそ、罪の本質だと告発します。
・2013年度の世界幸福度レポート(World Happiness Report、コロンビア大学地球研究所)によれば、世界で最も幸福度の高い国はデンマークで、次にノルウェー、スイス、オランダ、スウェーデンの順になっています。総合ランキングでアメリカは17位、イギリス22位、そして日本は43位です。「日本は経済的には豊かであるのに、日本人は幸福とは言えない」という結果が出ています。上位に来る北欧は高福祉・高負担の社会ですが、そのスェーデンでは、社会サービスを「オムソーリー(悲しみを分かち合う)」と呼ぶそうです。他者に優しくし、必要とされる存在になることが生きることだと考え、その概念によって社会が支えられているため、高い税金に不満が少ない、それは分かち合いの発想から来ていると言われます。いつかは自分も子供を持ち、高齢者、或いは失業者になる。充実した介護や育児サービス、教育や職業訓練があれば安心できる、聖書の隣人愛が社会制度化されています。
・それは人口9百万人のスウェーデンだから可能なのでしょうか。日本でも社会のあり方を変えることは可能だと信じます。隣人愛、分かち合いが社会化される時、そこに神の国が生まれていきます。日本は隣人愛の社会化が遅れています。その中で、教会はこの世における隣人愛、分かち合いの必要性を知る数少ない場所です。ここに来るようにみなさんも招かれています。最後にパウロの言葉を引用します「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:9-10)。「愛は隣人に悪を行わない」、ここに福音の本質があり、教会の目指す社会の縮図があります。