1.迫害の中で見た新天新地の幻
・ヨハネ黙示録を読み続けていますが、今日が最終回です。ヨハネ黙示録は、紀元95年前後、ローマ皇帝ドミティアヌスの時代に書かれたと言われています。ドミティアヌスは帝国全土に自分の像を祀らせ、これを神として拝むことを強制し、従わない者は迫害しました。多くのキリスト教徒は、「皇帝は人であり、神として拝むことは出来ない」として拒否し、捕らえられ、殺されて行きました。著者ヨハネも不服従の罪でパトモス島に流されています。そのパトモス島でヨハネは幻を見ました。ヨハネの牧会していた7つの教会のあるものは多くの殉教者を出して壊滅状態にあり、別な教会は迫害を避けるために妥協して皇帝像を拝み始めています。他の教会は世の動きに目をつむり、ひたすら自分たちだけの救済を願っていました。「キリストが十字架で血を流され、今は復活して天におられるのに、この教会の無力さは何だ。世界はこれからどうなるのか、教会はこのまま滅びてしまうのか」、そのような煩悶の中にいるヨハネに幻が示されました。それがヨハネ黙示録であり、その中で21章「新しい天と新しい地」の幻は黙示録のハイライトとされています。
・ヨハネは証言します。「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(21:1)。「最初の天と最初の地」とは、古い世界、この現実世界のことです。ローマ皇帝が力で世界を支配し、従わない者を殺し、迫害の中で教会は消え去ろうとしている世界です。しかし、神が創り給うた世界はいつまでも堕落した状態でいるわけではない、古い世界は「去って行く」、そこから獣が出てきた混沌の象徴である海も消えていくとヨハネは知らされました。そして「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来た」(21:2)のをヨハネは見ます。エルサレムは、エル(神)・サレム(平安)と呼ばれました。神の平安の都が、現実の歴史の中では、争いや流血の場となっていました。エルサレムはアッシリヤ、バビロニヤ、ギリシャといった諸帝国に占領され、破壊の歴史を経験してきました。ヨハネ時代のエルサレムも、ユダヤ戦争の結果、ローマに占領され、神殿も破壊されています。その流血の町エルサレムが清められ、天から降りて来る様をヨハネは見ています。
・その時、ヨハネは天の玉座から語りかける大きな声を聞きました。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21:3-4)。このような新しい天と地が来ると神は示された、あなたがたの苦難を神は知り給う、そしてあなた方の目から涙を拭い去って下さる、だから今は忍耐して暫くの間待てとヨハネは諸教会に告げています。
・5節以下では、その「新天新地」の宣言が為されています「見よ、私は万物を新しくする」(21:5)。新しい創造が宣言されます。「事は成就した。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(21:6)。世を創造された方が、今新しい世を再創造される、そして「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」と約束されています。ここに終末の約束がありますが、現代の私たちはどのように聞くのでしょうか。余りにも神話的な表現が為されています。しかし将来の出来事は神話的にしか表現できないのです。私たちの住むこの世界は「力ある者が勝ち、敗者は捨てられ、不義がまかり通り、平和が脅かされている」世界です。多くの人が改革を志してきましたが、ことごとく失敗してきました。平和は人間の力では来ない、それを知る故にキリスト者は、「御国を来たらせ給え、御心が天になる如く地にもならせ給え」と祈ります。その祈りを幻の形で示したのが黙示録の「新天新地の幻」なのです。
・9節以降に新しいエルサレムの詳細が描かれています。天使がヨハネを高い山の上に連れて行き、「聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来る」(21:10)様を見せます。黙示録のこの部分はエゼキエル書の影響を受けています。紀元前587年、ユダヤはバビロニヤによって占領され、人々はバビロンへ強制連行され、その中に祭司エゼキエルもいました。そのエゼキエルが捕囚25年目に「主の手」によってイスラエルに連れて行かれ、「非常に高い山の上に下ろされて」、都エルサレムの幻を見せられます(エゼキエル40:1-2)。捕囚の民は、エルサレム神殿の破壊と自分たちの捕囚という悲しい出来事を経験し、そのために、「自分たちの神はバビロニヤの神々に負けたのではないか」という疑いと動揺が広がっていました。信仰の土台が揺らぐ人々に、エゼキエルは「新しいエルサレムの幻」を語り、時が来れば再びエルサレムに帰ることが出来ると励ましました。
2.幻を信じる
・エゼキエルの置かれた状況は黙示録のヨハネと同じです。迫害の中にある信徒たちは、「神は何故助けてくれないのか」、「私たちの神は無力なのか」と疑い始めており、その人々にヨハネは新しい「新しい天と地の幻」を語ります。目に見える現実は、ローマ帝国が力で世を支配し、従わぬ者は殺していく世界です。しかし、新しいバビロンであるローマもまた滅びるとの預言を聞いたヨハネは、エゼキエルと同じように、古い世界は消え去り、新しいエルサレムが来ると信じました。
・エゼキエルやヨハネが見た幻を、古代人の幻想と笑うべきではありません。幻はビジョンであり、絶望の中にある人に希望を与えるものです。そのような幻を見た人の一人が、マルテイン・ルーサー・キングです。彼は「私には夢がある」という有名な説教をしました。1963年に黒人差別の撤廃を求めて為されたワシントン大行進の最後に語られた言葉です。キングは語ります「私は同胞達に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。将来、この国が立ち上がり、『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢が。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。今、差別と抑圧の熱がうずまくミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わり得る日が来るという夢が。私には夢がある。私の四人の小さい子ども達が、肌の色ではなく、内なる人格で評価される国に住める日がいつか来るという夢が」。50年後の今、キングの夢は実現し、アメリカは黒人をその大統領に選んでいます。幻は必要なのです
3.見えないものを見る信仰
・今日の招詞にローマ書8:24-25を選びました。次のような言葉です。「私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。ヨハネ黙示録はキリスト再臨のビジョンで閉じられています。22章10節以下を読んでみます「また、私にこう言った。『この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる』」(22:10-12)。最後の言葉も再臨が待望されています「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、私はすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来てください」(22:20)。
・ヨハネの教会を迫害した皇帝ドミティアヌスは手紙が書かれた1年後の紀元96年に暗殺され、迫害は終りました。その意味でヨハネの預言は成就したのです。しかしその後も迫害は繰り返し起こり、最終的に迫害が終わったのは紀元313年のキリスト教公認以降でした。ヨハネ時代から200年間も信徒は忍耐を余儀なくされたのです。彼らはキリストの再臨を待望しましたが、キリストは来ませんでした。そして終末の時も始まらず、それから2000年の時が流れました。私たちはこの終末とキリストの再臨をどのように考えるべきなのでしょうか。
・いろいろな意見があり、再臨運動を熱心に行う教派もあります。個人的には「終末は既に始まり、キリストは来られて私たちと共におられる」と理解しています。その考えが再確認されたのは、「死の谷を過ぎて~クワイ河収容所」を読んだ時です。「死の谷を過ぎて」という本の原題は「Through the valley of the Kwai」です。第二次大戦下、インドシナ半島を占領した日本軍は、連合軍捕虜と現地人労務者を使って泰緬鉄道を建設します。一日も早く完成させるために過酷な工事が強いられ、7万人を超える生命が犠牲となり、後にこの鉄道は「死の鉄道」と呼ばれます。著者アーネスト・ゴードンはイギリス軍の将校で、日本軍の捕虜となり、鉄道工事に従事しました。その時の経験を彼は書きます「飢餓、疲労、病気、隣人に対する無関心、私たちは家族から捨てられ、友人から捨てられ、自国の政府から捨てられ、そして今、神すら私たちを捨てて離れていった」(122P)、著者はまさに「死の谷」の収容所生活を送ったのです。
・著者は収容所で、マラリヤ、ジフテリヤ、熱帯性潰瘍等の病気に次々に罹り、「死の家」に運び入れられます。死体置き場の横に設置された病舎の粗末な竹のベッドに横たわり、人生を呪いながら命が終わる日を待っていた著者のもとに、キリスト者の友人たちが訪れ、食べずにとっておいた食物を食べさせ、膿を出して腐っている足の包帯を替え、体を拭く奉仕をします。彼らの献身的な看護によって、著者は次第に体力を回復し、彼らを動かしている信仰に触れて、無神論者だった彼が聖書を読み始めます。そこで彼が見出したのは「生きて働いておられる神」でした。彼は書きます「神は私たちを捨てていなかった。ここに愛がある。神は私たちと共におられた・・・私はクワイ河の死の収容所の中に神が生きて、自ら働いて奇跡を起こしつつあるのをこの身に感じていた」(176P)。
・彼自身も仲間たちと共に奉仕団を結成して病人の介護を行い、竹やぶの中で聖書を共に読み、広場で礼拝を始めます。死にゆく仲間の枕元で聖書を読み、祈り、励まし、死を看取ります。やがて無気力だった収容所の仲間たちから笑い声が聞こえ、祈祷会が開かれようになり、賛美の歌声が聞こえてくるようになります。彼はその時、思います「エルサレムとは、神の国とは結局、ここの収容所のことではないか」(202P)。「エルサレムとは、神の国とは結局、ここの収容所のことではないか」、彼もヨハネと同じ「新しいエルサレム」の幻を見たのです。彼は最後に書きます「人間にとって良きおとずれとは、人がその苦悩を神に背負ってもらえるということである。人間が最も悲惨な、最も残酷な苦痛の体験をしている時、神は私たちと共におられた。神は苦痛を分け持って下さった。神は私たちを外へ導くために死の家の中に入ってこられた」(383P)。他の収容所でもこのような奇跡が起こったわけではありません。同じイギリス人レオ・ローリングスの描いた「クワイ河捕虜収容所」の副題は「地獄を見たイギリス兵の記録」です。他方、ゴードンはそこに「神の国」を見ました。ゴードンとローリングスを分けたものは何でしょうか。信仰による希望です。他者を赦し、迎え入れる時、死の谷の収容所で起きたような奇跡が起こります。ヨハネのような、ゴードンのような希望あるいは幻を持つ時、神の国は来ることを私たちは知り、アーメンと賛美します。