1.ヨハネが見た獣はローマ帝国だった
・ヨハネ黙示録を読んでおります。ヨハネ黙示録は紀元95年頃のローマ帝国によるキリスト信徒迫害の中で苦しむ諸教会に宛てて書かれた書簡です。当時のローマ皇帝ドミティアヌスは自分の像を帝国内のあちらこちらに立てさせ、それを神として拝むように求めました。その中でキリスト者たちは、「神以外のものを神としない」として、皇帝礼拝を拒否し、迫害を受けました。その迫害の中にある信仰者たちに、ヨハネは、「ローマ帝国はサタンの化身であり、神はしばらくサタンが暴れるのを赦しておられるが、時が来ればサタンを滅ぼされるだろう」と預言します。この手紙は、サタン、つまり時の支配者ローマ帝国の滅亡を預言していますので、かなり政治的危険を伴う内容です。そのため、象徴的に、黙示的に記述されています。そのローマのサタン性を告発する箇所が今日読みます黙示録13章です。
・預言はヨハネが見た幻の形で展開されます。その幻は12章から続いています。12章にはメシアを産むために苦しむ女性と、そのメシアが生まれたらこれを食べようと待ち構えるサタンが登場します。女は旧約の教会、イスラエル12部族を指し(12:1「頭には12の星の冠をかぶり」)、その旧約の長い歴史の中から救い主(メシア)が生まれてきたことを示すとされています。女(教会)は苦難の末にキリストを産み(12:5)、キリストは神の保護の下に、天の玉座に引き上げられます。地上には女(教会)が残され、サタンはこの教会を滅ぼすために手下である獣を海の中から呼び出します(13:1)。ヨハネは記します「私はまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。私が見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた」(13:1-2)。この獣こそローマ帝国です。ローマは世界を征服して10人の王を立てて支配させ、7つの丘を持つローマ市を帝国の中心と定めました。そして、ローマ皇帝は、自分を「主」(キュリエ)、「救い主」(メシア)と呼ばせ、あたかも神であるかのように振舞っています。このローマに地上の権力を与えたのは竜(サタン)であるとヨハネは告発します。
・ヨハネは書きます「この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した」(13:3)。「獣の頭の一つは傷ついて死んだと思われた」という記事の背景には、68年に死んだ皇帝ネロの復活伝説があります。ネロは最初にキリスト教徒を迫害した皇帝で、彼の時代にパウロやペテロが殉教したと伝えられています。そのネロは失政の責任を取る形で自決しますが、やがて復活したとの伝承が生れ、現皇帝ドミティアヌスがその生まれ変わりだとヨハネは考えています。ヨハネは書きます「竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った『だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか』」(13:4)。当時のローマは世界に敵なしの王者でした。
・この獣(ローマ)は42ヶ月(三年半)の間地上を支配する力が与えられたとヨハネは記します。聖書では7が完全数、永遠を意味しますから、三年半とは、不完全数、「しばらくの間」の意味です。ちなみに太平洋戦争は昭和16年12月に始まり、同20年8月に終わりました。3年半です。悪はやがて滅びる、ヨハネは、今はネロの生まれ変わりのドミティアヌスが地上を支配し、地上の人々は獣である皇帝を神として拝み(13:5-6)、獣は「聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられ」(13:7)、「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝む」(13:8)という現実があっても、それはいつまでも続かないと言っています。この地上には理解できない不条理があってもやがて糺される、神が糺してくださる、だから今を忍べと。
・ヨハネは教会の群れに呼びかけます。「耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である」(13:9-10)。厳しい言葉です。江戸時代、キリスト教は禁止され、信徒かどうかを調べるために踏み絵が用いられ、少数のキリスト者は踏むことを拒否し、捕らえられ、処刑されていきました。榎本保郎氏は次のようにコメントします「そういうことはある人たちから見れば、馬鹿なことだと思うであろう。何も災いを自分の方に引き寄せる必要はないと思うかもしれない。しかし彼らはどんなに困難や苦しみがあってもイエスをキリストと告白した以上、踏み絵を踏まず、殺されていったのである」(榎本保郎、新約聖書1日1章)。ヨハネは同じ信仰を教会の信徒たちに求めています。古代教父のテルトリアヌスは言います「殉教者の血は教会の種子である」。死を恐れずに皇帝礼拝を拒否していった故に、それを見た多くの人々がその信仰に入り、やがてはローマ帝国中に教えは広まり、380年にはキリスト教はローマの国教となって行きました。ヨハネの預言は実現したのです。ただし、そのためには300年の年月が必要でした。その間、多くの人々の血が流されていきました。
2.獣の手先となっていった偽予言者たち
・ヨハネは11節以降で、「海から出た獣の後を追って、第二の獣が地中から出てきた」と記します。この獣はしるしを行い、第一の獣を拝ませるように、人々を扇動して行きます。皇帝礼拝の手先となって活動した神殿の祭司や預言者たちを指すのでしょう。また、第二の獣は第一の獣の像(ローマ皇帝像)を造り、これを拝ませ、拝まない者を殺していきます(13:15)。戦前の日本で、天皇のご真影(写真)を拝むことを強要し、教育勅語への敬礼を求め、各地に護国神社を造営して拝ませたのと酷似しています。内村鑑三が教育勅語に礼をしなかったと批判されて一高教師を辞めさせられた不敬事件(明治24年)は有名です。ヨハネ黙示録は2000年前に終わった物語ではなく、現代の私たちの物語なのです。
・最後にこの獣の名前が刻印として人々の手や額に押されたとあります(13:16)。皇帝への忠誠を誓った者への印です。その刻印は「666」として表されます。アラビア数字が発明される前は、アルファベットがそれぞれ数字の代用として用いられており、ヘブル語のアルファベットで皇帝ネロ(NERON QESAR)と書き、その数字を合わせると666になるそうです。ネロとその後継であるローマ皇帝こそ、獣(サタン)の正体であるとヨハネは言います「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である」(13:18)。
・私たちがヨハネの描く世界を文字通りに理解することは危険です。それは紀元95年頃の小アジアの教会の抱えていた課題に対して牧会者ヨハネの思い描く世界で、神話や幻に満ちた世界です。それを現代に適用するには慎重である必要があります。しかし同時にサタンに象徴される悪の力を過小評価してもいけません。サタンがいるかどうかは別にして、人間を苦しめる悪の力は間違いなく存在します。その悪の力がアウシュビッツの殺戮を引き起こし、原爆を投下させ、今日の経済格差を生み出しているのです。悪の力は個人の罪より重い。そしてある時には国家が悪魔化する時があります。戦前の軍国日本がそうでしたし、ナチス・ドイツや共産主義の絶対支配も国家の悪魔化かも知れません。その時、どうするのか、それが今日考えたい主題です。
3.国家と信仰
・今日の招詞にマルコ12:17を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』。彼らは、イエスの答えに驚き入った」。キリスト者は良心の故に世の秩序に服従します。税や尊敬も世に支払います。しかし、神のものは神に納めます。ヨハネ黙示録の時代背景の中で考えれば、「仮に、ローマ皇帝が信仰を捨てよと命令してもそれを拒否しなさい。しかし報復として死刑にするということであればそれは受容しなさい」となりましょう。このように見てくると、「キリスト者も政府の命じる戦争には市民として参加しなければならない」とする教会の唱えてきた聖戦思想は聖書の語るところではありません。それはキリスト教がローマ帝国の国教になり体制側になった時に生まれた便法です。聖書は例え、戦争にあっても人を殺すことが正当であるとはせず、戦争を含めた悪の力には関わるなと教えます。同時に平和のためには積極的に関わるように勧めます。
・黙示録13章はローマ13章と並んで、国家と教会を考える手がかりにされて来ました。私たちの国家に対する考え方の基本は、「国家は神の秩序であり、信仰者はこれに従う」ことです。パウロはローマ人への手紙の中で述べます「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ13:1-2)。しかし、ヨハネ黙示録が描くように国家が悪魔化する時もあります。その時は国家のあり方を問いただすべきだと聖書は語ります。ユダヤ教当局者から「今後はイエスの名前を語ってはいけない」と命じられた時、ペテロは答えました「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5:29)。私たちは今がどういう時代か、見極める力が必要です。
・パウロは言います「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:20-21)。今日の文脈の中で考えれば、「戦争に参加せよとの政府の命令があってもこれに従わない。そのことによって、罰則が与えられればこれに従う。しかし、平和実現のためにはできることをする」という生き方です。イエスは「十字架を負って従え」と言われました。それはキリスト者として、世と違う方法で、世と人々に仕えることです。現在の日本を統治する安倍政権は国家中心主義の傾向が強いと懸念されています。集団的自衛権の拡大解釈を通して、武力を強化し、国を軍備の充実で守る時代が来つつあり、その先には中国やその他の国との軍事対立が起こるかもしれません。日本がまたいつか戦争に向かうのではないか、その懸念が消えない現在、私たちは注意して国家の動向を見守る必要があります。イエスは言われました「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ」ために何をすれば良いのかを考える時です。