江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年10月12日説教(1コリント9:1-18、伝道者の心)

投稿日:2014年10月12日 更新日:

1.伝道者の報酬とはなにか

・コリント書を読み続けています。パウロはコリント8章で、「偶像に供えられた肉を食べても良いのか」の議論の結論として、「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」(8:13)と語ります。キリスト者は全ての食物を食べることが許されています、「地とそこに満ちているものは全て主のもの」(10:26)だからです。しかしそれが人々をつまずかせるならば食べない、それがパウロの決意です。人々につまずきを与えるような行為はしない、しかし当時コリントの人がつまずいていたもう一つの問題がありました。それは「伝道者は報酬を受けるべきかどうか」という問題です。その問題について語られた箇所が今日読みますコリント9章です。
・コリント9章から推察されますことは、教会の中にパウロが伝道者としての報酬を受け取らないことに違和感を抱く人々がいた事です。エルサレムから派遣された伝道者たちは派遣費用や滞在費を教会から受け取っていたようですが(9:4-6)、パウロはそれを求めなかったため、教会内のある人々は「パウロは金儲けのために活動しているのではないか。彼がエルサレム教会に捧げるとして集めている献金は実は自分のためではないか」とか、パウロがお金を受け取らないのは自分がペテロやヤコブのような使徒ではないことを知っているからだ」とか、批判していたようです。そこでパウロは反論します「私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のために私が働いて得た成果ではないか。他の人たちにとって私は使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、私が使徒であることの生きた証拠だからです」(9:1-2)。使徒とは「派遣された者」の意味です。ペテロやヤコブはエルサレム教会から派遣されて伝道の任にあたっていましたが、パウロは自給伝道を行ってコリントに開拓伝道し、教会を立てました。「私はキリストから直接派遣されたのだ」と彼は語ります。
・また報酬の問題についてもパウロは「伝道者がその働きのために報酬を受けるのは当然であるが、私はその権利を用いない」と語ります。「私たちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、私たちはなおさらそうではありませんか」(9:11-12a)。しかし、パウロは報酬を受ける権利を放棄します。彼は語ります「私たちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」(9:12b)。それは何故か、「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、私の報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝える私が当然持っている権利を用いないということです」(9:17-18)。伝道者が報酬を受けることによって多くの誤解が生じる、だから私は報酬を受けないで働いた、その私の真意をわかってほしいと彼は語るのです。

2.教会の現実の中でこの問題を考える

・このパウロの問題提起「伝道者が報酬を受けることによって多くの誤解が生じる」という事柄は、現代の教会にとっても大事な議論です。教会には牧師と信徒がいます。牧師は信徒が捧げた献金の中から生活に必要な報酬を受けます。伝道のために働く者が報酬を受け取るのは当然です。パウロが指摘していますように「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(9:14)。しかし信徒もまた伝道のために働いています。信徒は無報酬で働き、牧師は報酬をいただいて働く、その違いはどこから来るのか、難しい問題をはらんでいます。牧師と信徒はどこが異なるのか、牧師は伝道のために必要な専門教育を受け、専門職として説教や礼典の執行を行います。では牧師は教会に雇われた職業人なのでしょうか。
・職業人であれば相応の給与を受けるのは当然であり、そのためバプテスト連盟では標準牧師給を定めています。その金額は地方公務員の給与体系を基準にしたもので、平均700万円前後となります。しかしキリスト者が少数の日本では献金額も少なく、連盟加盟326教会の献金平均は同じく700万円です。仮に平均的な教会が牧師に標準牧師給を支払えば献金額全てを充てる必要があり、教会活動ができなくなります。そのため、多くの教会では献金の6~7割を牧師給とし、不足分を牧師が教会の外で働いて獲得することを期待しています。統計によりますと牧師の51%は牧師以外の働きを行って経済的必要を満たしています。パウロは報酬を全て断りましたが、日本の牧師の多くも報酬が不足しても教会のために働いています。パウロが手紙の中で語るように「私はこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない・・・だれも、私のこの誇りを無意味なものにしてはならない。私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」(9:15-16)。
・パウロは「私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです」と語りました。日本の牧師も同じように、「福音を伝えたい、何とかして何人かでも救いたい」(9:22)と思うからこそ、牧師の仕事に携わっているのであり、報酬目当てに働いている人は少ないと思われます。しかし、経済成長の鈍化に伴い、国民所得は伸び悩み、今では牧師給が相対的に高給になり、教会の中でつまずく人も出ています。このつまずきを無くすために、伝道者は自立すべきであるとして無教会では報酬制度を否定しました。無教会の伝道者の多くは学校の教師等をしながら伝道して来ました。しかし今日無教会は消滅の危機を迎えています。教会に集う人たちが経済的負担をしない時、教会員は傍観者に留まり、教会が成長しないからだと思えます。宣教師が開拓した教会が伸び悩むのも同じ理由だと思われます。どうすれば良いのか、各教会が知恵をしぼり、牧師もまた一層の精進が求められています。

3.福音の下にある自由

・今日の招詞にピリピ4:11-12を選びました。次のような言葉です「物欲しさにこう言っているのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。この言葉はピリピ教会からの経済支援に対するパウロの感謝の言葉です。コリント教会から報酬を受け取らなかったパウロが、ここではピリピ教会からの経済支援に感謝しています。伝道者が報酬を受け取るのは当然であり、そのことにつまずく人がいなければ感謝してそれを受けます。しかしつまずく人がいれば受けない。ここにパウロの自由さ、柔軟さがあります。
・前にバプテスト連盟の標準牧師給は平均700万円であり、また各教会の平均献金額も700万円であると述べました。平均ですから格差があるのは当然です。仮に献金が1000万円を超えている教会であれば恥じることなく標準牧師給を支払うべきであり、献金額が500万円に満たない教会であれば標準牧師給の半額程度に抑えるべきでしょう。パウロのいう柔軟性、「私は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」が必要です。
・この柔軟性を獲得するためには節制が必要です。パウロはコリント9章で牧師にも信徒にも節制を求めます。彼は語ります「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」(9:25)。ギリシアはオリンピック発祥の地です。若者たちは競技に勝利するために体を鍛え、訓練を積んでいました。しかし彼らが目指すのは「朽ちる冠」、一時の栄光です。それに対してキリスト者は「朽ちない冠」、永遠の命を求めて訓練を積むとパウロは語ります。次にパウロが例示するのはボクシングの喩えです「だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」(9:26)。ボクシングで勝とうとする者は狙いの定まった打撃を敵に与えようとします。同じようにキリスト者は「自分の体を打ちたたいて服従させます」(9:27)。「置かれた場所で最善を尽くせ」とパウロは言います。「物が有り余っていても不足していても」、献金がたくさんある時は十分な牧師給を払い、足らない場合は牧師給を減らして牧師は副業をする、それで良いのではないかと思います。
・この世の人々は自己完成のために節制を、あるいは禁欲を行います。運動選手がその良い例です。キリスト者は他の人々に仕えるために、愛のために禁欲します。伝道者が報酬を受け取ることにつまずく人がいれば、報酬の全部または一部を放棄します。パウロは語ります「私は、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(9:19-22)。
・ここにキリスト者の自由があります。「私は、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」。この言葉を宗教改革者ルターは次のように言い換えました「キリスト者は全ての者の上に立つ自由な君主であって何人にも従属しない。キリスト者は全ての者に奉仕する僕であって何人にも従属する」、有名なルターの「キリスト者の自由」の一節です。「富んでいる時にはその富を福音のために用い、貧しい時はその貧しさを福音のために忍ぶ」、その柔軟性を教会が持った時、教会の中で「私はパウロに、私はアポロに」という分裂は起きないし、「肉を食べるのは私の自由だ、なぜ干渉するのか」という言い争いも起きません。最後にパウロの至極の言葉を読みましょう「福音のためなら、私はどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです」(9:23)。

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