江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年6月29日説教(ローマ10:14-21、主の名を呼び求める者は救われる)

投稿日:2014年6月29日 更新日:

1.同胞の救いを熱望するパウロ

・ローマ書を読んでおります。9章まで読み進み、今日は10章です。パウロは異邦人伝道のために奔走していましたが、心の底ではいつも同胞の救いのことが気がかりになっておりました。同胞のユダヤ人は何故福音を拒絶するのか、彼らは救いから漏れてしまうのか。彼は手紙の中で語ります「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(9:2-3)。イスラエルは神に愛され、選ばれた民族であり、イエス・キリストさえも肉によればイスラエルの出身です。それなのにイスラエル(ユダヤ)はキリストを受入れず、それがパウロにとっては大きな悲しみになっていました。ですからパウロは繰り返し、ユダヤ人の救いについて語ります「兄弟たち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」(10:1)。
・何故彼らは救いから漏れてしまったのか、パウロはそこにユダヤ人の傲慢を見ています。「私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」(10:2-3)。ユダヤ人は熱心に神の戒めを守ろうとしましたが、熱心になればなるほど他者を裁くようになりました。人が行いのよる義を追い求める時、信仰は自己主張的になります。熱心に戒めを守ろうとする人たちは、戒めを守らない人を裁くようになります。それはパウロ自身の体験でした。彼はピリピ教会への手紙の中で語ります「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(ピリピ3:6)。神の律法に対する熱心さがパウロを教会の迫害者にしたのです。しかし彼はキリストとの出会いを通して変えられていきます「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(ピリピ3:7)。そして今、彼を含めたユダヤ人が追求していたのは、「神の義」ではなく、「自分の義」であったことを知りました。
・だから彼は言います「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」(10:4)。キリストが来られて律法が完成した、もう「律法による義」は不要になったとパウロは言います。律法に代わるものは何か、キリストに対する信仰です。ここに行為義認(善い行いが人を救う)から信仰義認(命の源である神を信じることにより救われる)への歴史的な転換があります。故にパウロは語ります「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(10:9-10)。現代の私たちはこの言葉を聞いて当然のことだと思いますが、当時においては、これはありふれた告白ではありませんでした。ローマに住むキリスト者が「イエスは主である」と告白するのは、「ローマ皇帝は主ではない」と告白するのと同じで、たちまち周囲から激しい敵意や圧迫を招く行為だったのです。この手紙から数年後、ローマのキリスト者たちは皇帝ネロの迫害の中で命を落として行きました。パウロもその時、殉教して死んだと言われています。日本でも戦時中にキリスト教信仰を公にすることは、敵性宗教を信じている非国民として糾弾されました。「口でイエスは主であると公に言い表す」ことは、命がけの行為だったのです。
・しかしその命がけの行為が救いをもたらします。パウロは語ります「主を信じる者は、だれも失望することがない・・・ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(10:11-13)。パウロの言葉は後世の人々に強い影響を及ぼし、そこから多くのキリスト教教理が生まれてきました。9:18「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」という言葉から生まれた教理が予定論です。ジョン・カルヴァンは語りました「神は万人を平等の状態に創造されたのではなく、ある者は永遠の命に、ある者は永遠の断罪にあらかじめ定められている」(カルヴァン「キリスト教綱要」邦訳191ページ)。しかしこれはパウロの言葉に対する誤解から生まれたものです。パウロはここで断言しています「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」。もしその人が「主の名を呼び求める」ならば、すべての人が救いの対象になるのです。

2.伝道することの意味

・「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」、では、その救いはどのようにして為されるのでしょうか。宣教する者の言葉を聞くことによってです。パウロは語ります「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」(10:14)。 伝道を通して福音の言葉が伝えられていきます。ある人はそれを聞いて信じ、そこに信仰が生れます。パウロは語ります「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(10:17)。
・では誰が伝えるのでしょうか。神から遣わされた人が伝えます。パウロは語ります「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてある通りです」(10:15)。神はイエスを死人の中から甦らせたのみならず、その証人として多くの使徒を各地に派遣されました。ペテロはペンテコステの時に会衆に語りました「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です」(2:32)。そしてペテロはユダヤ人の宣教へ、パウロは異邦人の宣教へと向かいました。パウロ自身「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」(ローマ1:1)との自覚を持って宣教し、その結果「私は、エルサレムからイリリコン州(イタリア半島)まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(15:19)と述べています。神の言葉は確かに伝えられたのです。しかしユダヤ人は受け入れませんでした。パウロは語ります「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません」(10:16)。しかし神は言われます「私は、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(10:21)。そして神の御手は「今も差し伸べられている」とパウロは確信しています。

3.限界を超える事柄は神に委ねる

・今日の招詞に1ペテロ 5:7を選びました。次のような言葉です「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。ヘルムート・ティーリケというドイツの神学者がいます。世の現実と信仰の狭間にあって誠実に生きた人ですが、彼は著書の中で、第二次大戦中に体験したある出来ごとを語ります。戦争中にティーリケは「神はいずこにいますか」という小冊子を書いて兵士たちに配布しましたが、ある日、それを読んだ18 才の戦車兵から手紙を受け取ります。戦場で大急ぎで書いたらしい手紙には、「あなたがここに書いていることは全くの馬鹿話です。この私に対して出会う神はどこにもません。この目で見た全ての恐るべき事の中に、神なんか存在しないという反証を私は十分すぎるほど経験してきました、神がどこかにいるかと仮定するよりは、神は不在であると考える方がずっと良いことなのです」。戦場は殺し合いの現場です。「殺さなければ殺される」、そういう悪を放置しておられる神を信じることなどとても出来ないと青年は反駁します。
・この手紙の中に、必死で神を求める青年の心を感じた著者はすぐにペンを取り、戦場にいる青年との間に何度か手紙のやり取りがありました。そうこうするうち、戦場からの通信は途絶えました。そして何週間かの空白の後に、青年の母親から手紙が届いて、青年がティーリケに出そうとした書きかけの破れた手紙が同封されていました。青年は敵の砲弾に撃たれて、彼の体は四散し、その身体と共に、手紙の断片が残されていたのです。そこには「やはり神を信じることはできない」と書いてありました。母親の手紙はこう結ばれていました。「私は、永遠の御国において、どこで息子に会えるのでしょうか」。
・著者は何度もためらった後、亡くなった戦車兵の母親に手紙を送ります。「あなたの息子ハンスの運命は、お母さんとしてのあなたの心を痛ましめる心配事であります。私にもお気持ちがよくわかります。しかし、悲しいことに私は、『神は、この未完の若者、疾風怒涛の中を生きた彼を愛し、必ず天国に受け入れて下さったであろう』と、単純にはあなたに書くことができません。私は、真理の厳しさの故に、またあなたの愛の深さの故に、あなたを欺きたくないのです。しかし私は、あなたに、あの神の愛を指し示そうと思います」。
・ティーリケは続けます「あなたは、次のような聖書の言葉をご存じでしょう。『自分の思いわずらいを、いっさい神に委ねるがよい。神はあなたがたをかえりみて下さるのであるから』(1ペテロ 5:7)。ハンスの運命に関する疑問は、あなたにとって、切実な心配事であります。だからそれを、神に委ねなさい。私たちは、その行為が決して無駄ではなく、むしろ、私たちの心配事は主のみ心に必ず触れ、主がそれを感じて受けとめ、真剣に担ってくださるという約束を与えられているのです。主がそれをどのように処理され、そこから何を生み出すかは、私たちにはわかりません。しかしハンスのために祈りを捧げるとき、私たちの思いわずらいとは別な仕方であなたの心の悩みはいやされることでしょう。それが取り去られ、主のもとに預けられるということは、大きな慰めであります。私たちの心配事が大きければ大きいほど、ますます深く私たちは主を信頼することが出来るのです」(H.ティーリケ「アメリカ人との対話」、ヨルダン社、p178-183)。
・神に出会うことなく死んでいった人たちが、天の御国に受け入れていただけるのか、私たちは知りません。しかし神は、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と預言者を通して(ヨエル3:5)、約束されています。その約束をパウロが伝え、私たちも受け入れていきます。たとえ洗礼を受けずとも、信仰告白を公にせずとも、主はこの青年を見捨てることはない。それが私たちの希望であり、信仰であり、パウロの信仰です。それを信じて、私たちは福音を宣べ伝え続けるのです。

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