江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年3月9日説教(マルコ7:31-37、奇跡物語をどのように聞くか)

投稿日:2014年3月9日 更新日:

1.エッファタ(開け)

・今日与えられました聖書箇所は、マルコ7章「耳が聞こえず、舌の回らない人の癒し」です。福音書には多くの病気治癒の物語が記録されていますが、現代の私たちがこのような奇跡物語をどのように理解するかは難しい問題です。何故ならば病気や障害の奇跡的な回復は通常は生じないからです。奇跡に関する理解も人により様々です。ある人は「病気癒しの奇跡などあるはずがない」と一笑に付します。別の人は「イエスは神の子であるから奇跡を起こされる力をお持ちだ」と理解します。他の人は「歴史的に何が起こったのかは別にして、対象となった本人と周囲の人々にとっては、癒されたとしか表現できない体験をしたのだ」と考えます。多くの奇跡の中でも印象的なものは、当時の話し言葉であるアラム語で伝えられた奇跡物語です。今日読みますマルコ7章の物語もそうです。
・マルコ福音書にはアラム語をそのまま残したいくつかの記事があります。今日の聖書箇所では「エッファタ=開け」という言葉が用いられ、マルコ5章の少女の癒しでは「タリタ・クム=少女よ、起きなさい」という言葉が用いられています。イエスは呼吸の停止した少女に向かって、「タリタ・クム」と言われ、少女を死の床から起されました。その場所には、三人の弟子たちが居合わせ、「タリタ・クム」というイエスの言葉が弟子たちの心に強く刻まれ、忘れることができなかった故に出来事はアラム語を伴う伝承として残り、それをマルコがアラム語と共に福音書に書き込んでいったとされています。今日の聖書箇所「エッファタ=開け」という言葉も同様で、イエスの肉声がここに記録されており、核になる何らかの癒しの出来事があったことは事実でしょう。
・7章では、イエスがデカポリス地方を通ってガリラヤ湖に来られた時、「耳が聞こえず舌の回らない人」が連れて来られ、イエスが癒されたことが報告されています。イエスはこの人と出会うと、「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」とマルコは記します(7:33)。この人と一対一で向き合われたのです。そして病んでいる患部、耳と舌に触れられました。しかしそれだけでは十分ではありません。だからイエスは「天を仰いで、深く息をつかれた」(7:34)。「天を仰ぐ」、神の力を与えてくれるよう請い願う動作です。「深く息をつき」、ギリシア語「ステナゾー」、本来の意味は「うめく、もだえる」です。イエスは人間自身の力では変えることの出来ない嘆きや苦しみを負うこの人を前に、もだえ、うめき、そのうめきの中から、「エッファタ」という言葉を吐かれています。すると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」とマルコは記します(7:35)。イエスの祈りに応えて、イエスを通して神の力が働き、癒しの出来事が起ったとマルコは伝えます。

2.癒しが起こる時

・マルコは、イエスが「共にうめかれた」と記します。それはイエスが、この人と「出会った」からです。その出会いを導いたのは村人でした。マルコは記します「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」(7:32)。村に「耳が聞こえず、舌の回らない人」がいた。そのために彼は他者とコミュニケーションが取れず、疎外されていた。村人たちはそのことに心を痛め、何とか治らないものかと願っていたが何も出来なかった。そこに病気治しで評判のイエスが来られた。村人たちは評判を聞き、その人ならば癒してくださるかもしれないと思って、障害のある人をイエスの前に連れてきたのです。イエスはそこに、村人の信仰を見られました。村人たちの信仰が障害の人をイエスに「出会わせ」、イエスの「うめき」をもたらしたのです。
・マルコは物語を人々の賛美で締めくくります「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」(7:37)。この言葉はイザヤ書35章からの引用です。イザヤは預言します「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。その時、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」(イザヤ35:5-6)。イザヤは終末の時、神の国が完成した時には、すべての障害や病は神に癒していただけると希望を持ちました。そのイザヤの預言がここに成就したとマルコは語っています。
・しかし現在においてはこのような癒しの出来事は通常は起こりません。治らない多くの方もおられるのです。私たちは癒しの問題をどう考えるべきなのでしょうか。西南学院神学部で長く新約聖書を教えて来られた青野太潮氏は論文「苦難と救済」の中で、「治癒奇跡は古代においても現代においても起こりうる」と述べます。「絶対的に帰依した対象である教祖なり指導者なりの一言一句が、血となり肉となる形で、信徒の内に本来備わっている能力(自然治癒力)を引き出し、想像もしなかったような病気の治癒がそこで為されたりする」。そしてイエスが郷里のナザレでは何の奇跡も出来なかったこと(マルコ6:5-6)を引き、「イエスといえども、相手が彼を全く信用しなければ、そこから何かを引き出すことは全く出来なかった」と述べます。福音書の奇跡物語では、多くの場合、癒しを受ける人の信仰が求められています。長血を患う女性の癒しでは「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5:34)と言われ、盲人バルテマイの癒やしでも同じ言葉が用いられています(マルコ10:52)。この信仰(ピステェス)の本来の意味は「信頼」です。「あなたの必死の信頼を神は見られた」、その時癒しの出来事が起こると聖書は語ります。
・イエスはかつてヨハネの弟子たちに答えられました「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである」(マタイ11:5-6)。イエスは罪人を断罪するのではなく彼らを招かれました。イエスは人々に罪の悔い改めを求めるよりも、天の父が彼らを愛し、養い、導いて下さることを告げ知らせました。その喜ばしい知らせのしるしとして、病や悪霊に苦しんでいる者を癒されました。病の癒しは神の国が来たと言う喜ばしい知らせのしるしだったのです。だから村人たちは「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と賛美したのです。

3.癒しの意味を考えていく

・今日の招詞にマルコ2:5を選びました。次のような言葉です「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」。イエスは多くの癒しをされました。らい病人が癒され、歩けない人の足が治されました。人々は不思議な業を見て、この人には神が特別な力を与えておられると思い、イエスの所に押しかけて来ました。イエスがシモンの家で人々に話をされていた時も、たくさんの人々が押し寄せ、家の外まで人があふれていました。そこに、四人の男に担がれて、中風の人が床に乗せられて運ばれてきました。イエスの評判を聞き、この人なら病を治して下さるかもしれないと思った村人が、床に病人を乗せて運んで来たのです。ところが、家は戸口まで人があふれて中に入ることは出来ません。村人たちは諦めず、床を担いだまま、屋根に上り、屋根に穴を開け、この病人をつり下ろしました。中にいた人たちは、驚きました。イエスも驚かれたでしょう。しかし、驚きと同時に、村人たちの熱心さに、感動されました。その感動が招詞の中にあります。
・マルコ7章と同じ物語がここに語られています。障害のある人をイエスの前に連れてきた信仰が、イエスの感動を呼び、イエスは「共にうめき」、「天に祈られ」たのです。私たちには癒しの権能は与えられていませんが、「共にうめき」、「共に天に祈る」、ことは出来ます。カトリック司祭の本田哲郎氏は聖書の個人訳をしている時に、福音書に繰り返し出てくる「癒し」のギリシア語の意味が、普及している新共同訳と異なることに気づきました。彼は語ります「文字通り“癒す”という言葉“イオーマイ” が出るのは、マタイとマルコ両福音書について言えば、合わせて五回しかない。それもすべて、結果として“癒し”が行われたことの報告という形、もしくは“癒されたい”側の期待の言葉として出るだけで、あとはすべて“奉仕する”という意味のまったく別の言葉“セラペオー”だ。マタイとマルコ合わせて二十一回も出てくる。英語 Therapy の語源となった言葉で、これを病人に対して当てはめると、“看病する”、“手当てする”となる・・・イエスにとって、神の国を実現するために本当に大事なことは、“癒し”を行うことではなくて、“手当て”に献身すること、しんどい思いをしている仲間のしんどさを共有する関わりであったことは明らかだ」(本田哲郎『小さくされた人々のための福音』から)。
・村人たちは、「耳が聞こえず舌の回らない人」の課題を自分の問題としてとらえ、その人をイエスの下に連れて来ました。その信仰がイエスに「共にうめく」ことを可能にさせ、病者の癒しを導きました。私たちも自分に出来る癒しの業に取り組む必要があります。私たちは足の不自由な人に、「起きて歩け」と言うことは出来ません。しかし、足の不自由な人が、教会に来ることが出来るように、玄関の段差をなくし、車椅子のままトイレを使えるように改造することは出来ます。私たちは、病気で寝ている人の病気を治すことは出来ません。しかし、寝ている人を訪ね、その枕元に説教テープをおいて帰る事は出来ます。私たちは癒しを行うことは出来なくとも、イエスの前に中風の人を運んだ四人の男や、聾唖の人を連れてきた村人にはなりうるのです。イエスの前に人を運ぶ、その先は、赦しと癒しの権能を持たれるイエスにお委ねすることは出来るのです。神の国は、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人は福音を伝えられている」国です。人はみな祝福されて生まれてきました。しかしその祝福が取り去られ、苦しみの中に置かれている人がいます。私たちはそのために何が出来るかを考えるために、多くの奇跡物語が福音書に記されているのではないでしょうか。癒しの奇跡が本当に起こったかどうかを探求するよりも、その奇跡の指し示す意味を考えていくために、奇跡物語が存在するのです。

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