1.空の墓
・マルコ福音書から受難物語を読んできました。今日が最終回で、イエスの埋葬と復活をマルコから聞いていきます。マルコはイエス復活の出来事を、「空の墓」として私たちに提示します。マルコ16章には「イエスが十字架につかれて三日目に婦人たちが墓に行ったが、墓は空であった」という短い記述があるだけです。他の福音書では、婦人たちが復活のイエスと出会い、弟子たちも復活者に顕現したという記事がありますが、マルコは「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)で唐突に福音書が終わります。このマルコの記事は何を物語るのでしょうか。
・イエスは金曜日の午後3時に亡くなられたとマルコは記します。弟子たちは逃げていなくなっており、婦人たちだけが十字架を遠くから見ていました。金曜日の日没と共に、安息日が始まり、安息日を汚さないために、遺体はあわただしく葬られました。イエスの遺体を引き取ったのは、アリマタヤのヨセフで、彼は「身分の高い議員であった」とマルコは記します(15:43)。有力者だから死刑に処せられたイエスの遺体を引き取ることができたのでしょう。マルコは「この人も神の国を待ち望んでいた」と記します(15:43)。生前にイエスと何らかの関わりを持ち、イエスに好意を持っていたのかもしれません。ヨセフはイエスの遺体を十字架から降ろして、亜麻布で巻き、岩を掘って作った自分の墓の中に納めます(15:46)。婦人たちは何も出来ず、ただ遺体が納められた墓を見つめていました(15:47)。
・安息日が終わった日曜日の夜明けと共に、婦人たちはイエスの遺体に塗るための香料を買い整え、墓に向かいます。あわただしく葬られたイエスの体に香油を塗って、ふさわしく葬りたいと願ったからです。婦人たちは墓に急ぎますが、墓の入り口には大きな石のふたが置かれており、どうすれば石を取り除くことが出来るか、婦人たちにはわかりません。ところが、墓に着くと、石は既に転がしてありました。マルコは「どのようにしてそうなったのか」を記しません。ユダヤの墓は岩をくりぬいて作る横穴式の墓です。婦人たちが中に入りますと、右側に天使が座っているのを見て、婦人たちは驚き、怖れたとマルコは伝えます。婦人たちは天使の声を聞きます「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(16:6-7)。
・マルコの記す復活の根拠は「イエスの墓は空であった」ということです。今日の聖書学者の多くも「イエスの墓が空であった」ことを史実と考えています。イエスの遺体消失に驚いた婦人たちは「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)とマルコは記します。マルコ福音書の終わり方はあまりにも唐突です。そのため、後代の人々はマルコ福音書の付録として、9−20節の顕現物語を付け加えました。マルコは何故このような終わり方をしたのでしょうか。聖書学者の佐藤研氏は述べます「マルコにとって、復活の本質は事実上、十字架の只中で顕現されてしまっている。イエスはいわば十字架につけられたまま、復活しているのである。十字架をわざわざ補填する復活顕現物語がなくとも、著者の描きたいことは頂点に達したのである」。
2.ガリラヤへ
・マルコの物語では、天使が現れ、婦人たちに語ります「あの方は復活なさって、ここにはおられない・・・さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16:6-7)。天使が現れたどうかは別にして、このマルコの記事は二つの事実を私たちに知らせます。一つはイエスの遺体を納めた墓が空になっていたという伝承があり、二つ目は弟子たちがガリラヤで復活のイエスと出会ったという伝承があることです。
・最初に「空の墓の伝承」を見てみましょう。マルコでは「婦人たちは墓を出て逃げ去った・・・そして、だれにも何も言わなかった」とありますが、その後の消息を伝えると思われる記事がルカ福音書24章にあります。ルカは述べます「婦人たちは・・・墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた・・・使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ 24:8-12)。婦人たちは「イエスの遺体がなくなっている」と弟子たちに伝え、弟子たちは墓が空であることは確認しましたが、「まさかイエスが復活されたとは考えもしなかった」とルカは報告しています。ユダヤ教には世の終わりに、神が死者たちを復活させて下さるとの思想がありました。しかしそれは世の終わりであり、今ではありません。ですから、イエスの復活の報告を聞いても弟子たちは信じることができなかったし、弟子の一人トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ私は信じない」と言い放ちました(ヨハネ20:25)。また反対派の人々は「イエスは復活したのではなく、弟子たちが夜中に来て死体を盗んでいったのだ」と言いふらしていました(マタイ28:13-15)。イエスの墓が空であったことは反対派の人々も認めています。
・その後、弟子たちはどうしたのでしょうか。おそらく故郷のガリラヤに戻ったと思われます。その間の事情を伝えると思われる記事がヨハネ福音書21:2-7にあります。そこには、弟子たちはエルサレムを去ってガリラヤに戻り元の漁師として働いていた時に、復活のイエスと出会ったとあります。このヨハネ21章とほぼ同じ内容を持つ記事がルカ5:1-11にもあります。それに依りますと、漁をしたが何もとれずに網を洗っていたペテロたちにイエスが近づき、「もう一度沖に出て網を降ろしなさい」と言われ、ペテロたちがそうしたところ大漁になったので、ペテロがイエスの前に跪くという内容です。ルカの記事も復活顕現伝承と思われます。弟子たちがガリラヤで復活のイエスと出会ったという伝承を元に、マルコは「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と天使に語らせているのです。
3.私たちは復活をどう生きるのか
・今日の招詞に第一コリント15:3-5を選びました。次のような言葉です「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストは聖書に書いてある通り、私たちの罪の為に死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです」。近代聖書学の父と呼ばれるルドルフ・ブルトマンは復活についてその史実性を否定します。「キリストの甦りとしての復活の出来事は決して史的出来事ではない。史的出来事としては、初代の弟子たちの復活信仰だけが把捉しうるものである。歴史家にとっては復活の出来事は、弟子たちの幻影的体験にまで還元されてしまうであろう」。弟子たちが復活信仰を持ったことは歴史的に確認できるが、だからといってイエスが復活したとはいえないと彼は語ります。
・このような復活理解にカール・バルトは激しく反論しました「ブルトマンは、甦りの出来事を“復活者を信じる信仰の発生”として解釈している時、復活の出来事を“非神話化”している。復活者を信じる信仰の発生は、復活者が歴史的に出現することによって起こって来るのであり、復活者の歴史的出現それ自体が甦りの出来事である」。イエスご自身が甦って弟子たちに現れたから弟子たちの復活信仰が生じたのであり、イエスの復活を検証できないから事実ではないと言うのはおかしいとバルトは主張します。
・復活の史実性については学者の間での結論は出ていません。著名な聖書学者であり、また信仰者であったE.シュヴァイツァーは復活について次のように語ります「イエスの復活は、新約聖書の至る所に証言があるが、しかしどこにも描写はない。史的研究が可能な諸事実は以下の通りである。第一にイエスの弟子たちは、イエス受難の日にすっかり絶望してしまったが、早くもその七週後、聖霊降臨祭の出来事の時に、イエスは主であると告げ知らせること、そしてそのためには牢獄や必要とあれば処刑にも赴く心構えを持つようになったことである。彼らの生涯に、各人の存在全体を覆い、その深みにまで至る一大変化が起こった事、これは歴史的な事実である」。
・イエスの復活という出来事は歴史学の対象になるような事象ではありません。それは信仰の出来事であり、証言し、継承すべき出来事なのです。それはパウロが「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです」とコリント書に記した通りです。パウロはイエスの復活を疑いません。何故ならば彼自身が復活のイエスに出会ったからです。私たちは「イエスが復活され、今も私たちと共におられる」と信じます。しかしそれをどのように伝えていけば良いのでしょうか。現代人は言うでしょう「死者のよみがえりなど聞いたこともないし、信じられない。もし復活があるのならば、この死人を生かしてみよ」。私たちは何と答えましょうか。復活は証明すべき事柄ではなく、証言されるべき事柄なのです。
・脳性マヒで寝たきりの生涯を送り、唯一自由に動かせるまぶたで詩を書き続けた水野源三さんは、こういう詩を書きました「親しき友人がみな別れて行く時も、一人ではない。一人ではない。死んでよみがえられたイエス・キリストが話しかけたもう。その耳で聞けよ。頼りなき、自分に失望する時も、一人ではない。一人ではない。死んでよみがえられたイエス・キリストが励ましたもう。その口でたたえよ」。多くの学者の論文よりも水野さんの言葉の方が説得力を持っています。水野さんは復活の希望に生かされており、それ故彼の使信は力強いのです。教会の宣教は私たちが復活の希望に生かされており、だからこそ失意の時も、絶望の時も、希望を失わない、その生き方にかかっています。