江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年7月28日説教(エゼキエル37:1-14、枯れた骨の復活)

投稿日:2013年7月28日 更新日:

1.枯れた骨の復活

・エゼキエル書を読んでおります。エゼキエルは25歳の時に、祖国の敗戦により、多くの人々と共に、捕囚民としてバビロニアに連れて来られました。30歳の時に預言者として召されますが、5年後の紀元前587年、エルサレムは反乱を起こし、このたびは完全に破壊され、民は帰るべき場所を失いました。捕囚から10年、人々は「いつの日にか、エルサレムに戻ることができる」という希望の中で、辛い生活を耐えて来ました。しかし、エルサレムは滅び、彼らは帰るべき場所を失いました。彼らは言いました「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」(37:11)。旧約の人々は絶望した時、その気持を「骨が枯れる」と表現しました(箴言17:22「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる」)。エゼキエルは預言者として人々を励ます職務を与えられていますが、どう慰めてよいのかわかりません。彼自身が前途に希望を失くしていたからです。そのエゼキエルに一つの幻が示されます。それが今日読みますエゼキエル書37章「枯れた骨の復活」の幻です。
・エゼキエルは幻の中である谷に案内されます。そこには多くの枯れた骨がありました。エゼキエルはその時の衝撃を描きます「主の手が私の上に臨んだ。私は主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主は私に、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」(37:1-2)。おそらくはエルサレム攻防戦で殺され、あるいは餓死した人々の遺体を葬った谷に案内されたのでしょう。エルサレム攻防戦では多くの命が奪われて行きました。当時の人々の嘆きを記した哀歌からその状況が窺い知れます。「街では老人も子供も地に倒れ伏し、おとめも若者も剣にかかって死にました」(哀歌2:21)、「剣に貫かれて死んだ者は、飢えに貫かれた者より幸いだ。刺し貫かれて血を流す方が、畑の実りを失うよりも幸いだ。憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした」(哀歌4:9-10)。そのような悲惨は歴史上繰り返されています。東京大空襲では10万人以上の人が焼き殺されて遺体は放置され、アウシュビッツでは殺された数十万人の遺骨が広場に野ざらしにされました。バビロニア軍侵攻時のエルサレムでも同じような地獄絵が再現されたのです。
・そのエゼキエルに主が尋ねられます「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」(37:3a)。エゼキエルは何と答えて良いかわかりません。人間の智恵や常識では「骨が生き返る」ことは信じることができません。しかしエゼキエルは命を創造された方は、命を死からも起こすことができると信じていました。だから彼は答えます「主なる神よ、あなたのみがご存じです」(37:3b)。エゼキエルは単に「わかりません」と言っているのではなく、「もしあなたが生き返らせたいと思うならば、それは可能です」と言っています。その信仰告白をしたエゼキエルに主が命じられます「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け・・・見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。私は、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちは私が主であることを知るようになる」(37:5-6)。エゼキエルが言われた通りに預言すると、骨は音を立てて結合し、筋と肉が生じ、皮膚が覆われ、人となったと彼は証言します「私は命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。私が見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」(37:7-8)。
・生き返った体には霊がありませんでした。エゼキエルは再び預言を命じられます「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」(37:9)。エゼキエルが命じられたように預言すると霊が彼らの中に吹きこまれました「私は命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(37:10)。これは幻の中にエゼキエルが示されたことであり、希望を失っている捕囚民に回復の希望を語ることができるように示された出来事です。捕囚民は言っていました「我々の骨は枯れた、望みは失せ、滅びる」と。その絶望の中にある人々に主の言葉が働いた時、何かが起きるかをこの物語は象徴的に語っています。

2.イスラエルのよみがえり

・主の預言は続きます「私はお前たちの墓を開く。わが民よ、私はお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く」(37:12)。「前たちの墓を開く」、お前たちは今バビロニアに捕囚されているがその墓から出ることができる、お前たちの神である私がお前たちを「墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く」と幻を通して示されたのです。捕囚民はこの言葉を頼りに50年間の捕囚を耐え忍び、やがてエルサレムに帰還し、そこに新しい国を再建することができました(紀元前537年)。その時の喜びの歌が詩篇に残されています。「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった・・・主よ、私たちのために、大きな業を成し遂げてください。私たちは喜び祝うでしょう。主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように私たちの捕われ人を連れ帰ってください。涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(詩篇126:1-6)。
・仙台南光沢教会の佐藤信人牧師は2011年3月の東北大震災を経験した1か月後、このエゼキエルの体験を説教で語りました「イスラエルの民がバビロンによって滅ぼされ、70年に及ぶ捕囚の苦しみに遭っていた時、主は預言者エゼキエルに一つの幻を見せられました。それは人間の枯れた骨が谷一面を覆っている、異様な光景でした。その幻で示されたように、その時のイスラエルは絶望的な状態にあったのです。主はエゼキエルに尋ねられました『これらの骨は、生き返ることができるのか』。イスラエルの回復可能性を問うものでした。これに対してエゼキエルは『あなたはご存じです』と答えました。彼はこのとき『はい、生き返ります』、『あなたなら出来ます』とはとても言えませんでした。彼が言えたのは『あなたはご存じです』。これが精一杯の答えでした。今回の震災で私たちが目にしたものは、あたり一面瓦礫の山、何百という遺体が並んでいるという光景でした。それを実際にこの目で見た時、軽々と復興を口にすることなどできませんでした」。
・佐藤牧師は続けます「答えられないでいるエゼキエルに対して、主ご自身が答えられました『私が生かす』。人間の望みが絶えた時、ただ一人、なおも望みを語ることができる方がおられるのです。主に命じられた通りにエゼキエルが預言すると、枯れた骨が人の姿となりました。そして、主の息が吹き入れられた時、それらが生き返りました。この幻は、主イエスの復活の日に現実のものとなりました。主イエスの復活が信じられずに戸を閉じて集まっていた弟子たちの真ん中に主イエスは立たれ、『聖霊を受けよ』と命の息を吹き入れて下さいました。それによって、彼らは新しく命が与えられました。大きな震災によって疲れ果て、神に対する信仰さえ失われそうな私たちに、主はご自分の霊を、甦りの命を今朝、注いで下さいます『あなたも甦ることができる。私の霊を受けよ』と」(2011年4月24日説教から)。エゼキエルの見た「枯れた骨の復活」の幻は、希望を失くした捕囚民を慰めると共に、今回の大震災で家族を失くし、家も仕事も失った人々を立ち上がらせる力を与えたのです。

3.復活を考える

・今日の招詞にヨハネ11:25-26を選びました。次のような言葉です。「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。ラザロの復活の物語です。イエスと親しかったベタニア村のマルタ、マリアの姉妹から「兄弟ラザロが重い病気で死にそうだからすぐに来て下さい」との連絡がありました。イエスはベタニア村に急がれましたが、村に着かれた時、ラザロは既に死んで4日が経っていました。マルタはイエスに言います「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21)。そのマリアにイエスが言われたのが招詞の言葉です。当時のユダヤ教では、「終りの日の復活」を教えていました。私たちも、親しい人が亡くなった時、その人は天に行き、自分が死ねば、天国で再び会えると漠然と信じています。この未来の終末論はどの宗教にもあり、その意味で、復活や死後の命を信じることはそう難しくありません。しかし、イエスが言われたのは、今、現在のよみがえりです。イエスが言われたのは「死もまた神の支配下にあることを信じるか」との問いです。この後、ラザロの復活が描かれますが、この物語が史実であるのか、私たちにはわかりません。おそらくは復活後のイエスに出会った弟子たちの信仰を反映しているのでしょう。
・今日の招詞は、ドストエフスキーの「罪と罰」に用いられていることでも有名です。主人公ラスコリニコフは才能のある自分が極貧にあえぎ、将来性もない金貸しの老婆が沢山の金を持っているのは不合理であるという気持ちから、その老婆を殺して金を奪いますが、良心の呵責に責められ、煩悶します。その彼が娼婦ソーニャと出会います。彼女の部屋で、ヨハネ11章「ラザロの復活」の箇所をソーニャに読んで貰う場面は印象的です。これが転機となって、彼はソーニャに犯行を打ち明け、勧められて自首し、シベリヤの流刑地に送られます。ソーニャはシベリヤまで彼について行きました。地の果てのような所で数年を過ごした後、復活祭過ぎのある朝、蒼白くやせた二人は、川のほとりでものも言わずに腰を下ろしていました。突然、彼は泣いてソーニャの膝を抱きしめます。彼女の無私の愛が、遂に彼を深く揺り動かしたのです。ドストエフスキーは書きます「二人の目には涙が浮かんでいた・・・愛が彼らを復活させたのである」。
・「愛が彼らを復活させた」。イエスの愛は、ラザロのよみがえりを通して、悲しみに沈むマルタとマリアの姉妹を復活させました。「枯れた骨の復活」の幻は、希望を失くした捕囚民を立ち上がらせました。イエスの愛は、十字架で逃げ去った弟子たちの前に再び現れることを通して、弟子たちの信仰を復活させました。イエスの愛は、ソーニャの信仰を通して殺人者ラスコリニコフを復活させました。人々は罪の赦しを確信したときに、生き返ります。もう一度人生をやり直すことができることを信じます。イエスは言われました「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。…このことを信じるか」。復活の信仰とは、どのような状況に置かれても、私たちはやり直すことが出来るという「再生を信じる信仰」です。「このことを信じるか」、復活を愚かなこと、信じるに値しないこととして捨てることは簡単ですが、捨てても何も生まれません。この復活の出来事の中に真理があるのではないかと求め始めた時、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と告白した時、そこに何事かが起こります。これまで大勢の人々がこの復活信仰により、希望を取り戻し、私たちもまたこの復活信仰に生かされて、今日のこの礼拝に臨んでいるのです。

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