江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年11月10日説教(マルコ15:16-32,自分を救わないメシア)

投稿日:2013年11月10日 更新日:

1.ゴルゴダへの道のり

・マルコ福音書を読んでおります。イエスは大祭司による審問で死刑が言い渡され、ローマ総督ピラトにより死刑の執行が命令されます。ローマの処刑方法は十字架死です。それはローマに反抗した者に与えられる残酷な刑罰です。十字架刑につけられる囚人は、先ず数十回の鞭打ち刑を受けます。鞭の先端に金属片が組み込まれ、40回以上打てば死に至るほどの刑です。この鞭打ちにより囚人は体力を大きく消耗します。その後、十字架の支柱を囚人自らが背負って刑場まで歩きます。この支柱はかなり重く、イエスはその重さに耐え切れずに支柱を落とし、クレネ人シモンが代わりに担いだとマルコは記します。刑場に着くと、囚人の両手首と足首は釘で支柱に打ち付けられ、支柱が立てられると、体の重みで囚人は息をするのも苦しくなります。そして、出血と呼吸困難で時間をかけて死に至ります。十字架刑は奴隷や反逆者にだけ適用される拷問刑であり、イエスはその拷問刑を受けて死なれました。
・マルコ15章はイエスのゴルゴダへの道行きを記述します。イエスは鞭打ち刑を受けた後、兵士たちの嘲笑を浴びます。マルコは記します「(兵士たちは)イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした」(15:17-19)。イエスはこれらの侮辱行為に対して、沈黙して、なすがままに任せられます。沈黙のキリスト、嘲笑され、つばを吐きかけられるメシア、この方こそ、私たちの救い主だとマルコは主張します。この荊冠(荊の冠)を自分たちの旗印にしたのが、部落解放運動を推し進めた水平社です。被差別部落の問題や水平社についてはベストセラーになった住井すえ「橋のない川」で、ご存知の方も多いと思います。イエスは当時の社会から疎外されていた徴税人や罪人の解放のために働かれた。そのイエスは今この日本では私たち非差別部落の人間の苦しみに共にいて下さるとの願いがそこにあります。ここでは「荊冠」が解放の象徴となっています。
・イエスは夜中に捕らえられ、裁判を受け、鞭打たれ、その体力は極度に衰弱していました。そのため、十字架を運ぶ途中で倒れられ、ローマ兵はクレネ人シモンという男にその十字架を無理矢理に担がせます(15:21)。シモンはディアスポラのユダヤ人で、過越祭りをエルサレムで祝うために、一時帰国していたのでしょう。運悪く、イエスの道行きに遭遇し、十字架を担ぐ羽目になりました。彼は、重い十字架を担がされ、ゴルゴダまで歩かされ、見知らぬ罪人の処刑を見させられました。早く忘れてしまいたいような、いやな出来事であったでしょう。しかし、この出来事がシモンの生涯を変えて行きます。
・マルコは、シモンを「アレキサンデルとルポスの父」と紹介しています。アレキサンデルとルポスは、マルコの教会では名前の知られた信徒だったことを示します。またルポスはパウロ「ローマ人への手紙」にも出てきます。パウロはローマ教会への手紙の中で「主に結ばれている選ばれた者ルポス及びその母にもよろしく。彼女は私にとっても母なのです」と言っています(ローマ16:13)。ルポスの母、シモンの妻はかってパウロの伝道を助け、今はローマに居を構えて、教会の一員となっていることを推察させます。シモンの妻もまた信徒になっています。クレネ人シモンはイエスの十字架を負わされ、イエスの死を目撃しました。その彼に何かが起こり、彼はイエスを神の子と信じる者にさせられました。そして妻と子供たちも信徒になりました。マルコ8:34に次のような言葉があります「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」。初代教会の人々は十字架を背負って歩むクレネ人シモンの姿に、自分たちの歩むべき規範を見出したのでしょう。
・クレネ人シモンはいやいやながら十字架を背負いました。その結果、彼は命を見出しました。人はそれぞれの十字架を負わされます。その重荷を私たちが神から与えられた賜物として受け入れる時、重荷の意味が変ってきます。私は18年前、さまざまの事情を抱えて、東京バプテスト神学校(夜間)に入学しましたが、最初の授業で各人が何故この学校に来たのかを自己紹介する場があり、ある人は妻が自殺した、ある人は息子が若くして死んだ、ある人は事業に失敗した、各人がそれぞれの苦しみのなかで人生の意味を考え込まされ、神学校に導かれたと告白していました。挫折、失敗、十字架こそ、命に到る道なのではないかとシモンの物語は気づかせます。

2.嘲笑を受けるイエス

・イエスは刑場に連行されました。刑場はゴルゴダ(アラム語=頭蓋骨)と呼ばれていました。この名はやがてラテン語カルバリに転化し、英語でも受難の場所はカルバリと表記されます。エルサレム城外にあった処刑場であり、今日、聖墳墓教会が立つ場所です。兵士たちはイエスを十字架につけ、その服を分け合い、通りがかりの人々は頭を振って、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と罵りました(15:29-30)。マルコはイエスの受難を詩篇22編に即して描いています。詩篇は記します「私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう』・・・ 犬どもが私を取り囲み、さいなむ者が群がって私を囲み・・・骨が数えられる程になった私のからだを、彼らはさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」(詩篇22:8-19)。
・イエスはユダヤ人の王として処刑されました。ローマに反乱を起こした謀反人としての処刑です。彼と共に二人の強盗が十字架につけられました(15:27)。この二人も強盗と言うよりも、先のバラバと同じように、ゼロータイと呼ばれたローマへの反逆者だったのでしょう。祭司長たちはイエスを嘲笑して罵ります「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(15:31-32)。通りがかりの人も祭司長たちも同じ言葉でイエスを罵ります「他人は救ったのに自分は救えないのか」、「神の子なら十字架から降りて自分を救え」。この世においては「自分を救う」ことが人生の最終目標です。自力救済、自己実現、それがこの世の理想です。そこにおいては力の強い者、能力の高い者が勝者となり、そうでないものは敗者として卑しまれます。しかし、聖書はそのような価値観に真っ向から反対します。イエスが神の国にふさわしいと言われた人々は、「貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々」です(ルカ6:20-21)。

3.自分を救わないメシア

・今日の招詞にマタイ4:3-4を選びました。次のような言葉です「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』。イエスはお答えになった『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。イエスは、宣教の始めに「神の子として何をすれば良いのか」を聞くために、荒野に導かれました。最初の試練は、40日間の断食の後に来ました。断食して空腹になられたイエスの耳に、声が聞こえました「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」。声はささやきます「多くの人が、パンがなく飢えている。石をパンに変えれば、みんなが食べられるではないか。それが神の子の使命ではないのか」。「お前には石をパンに変える力が与えられているではないか」。しかし、イエスは答えられます「人はパンだけで生きるものではない」(4:4)。
・二番目の誘惑は、「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りたらどうだ」です。奇跡を起こして、神の子であるしるしを人々に見せよと言う誘惑です。三番目の誘惑は、「私を拝むならば、世の栄光をお前に上げよう」という誘いでした。当時の人々が求めていたのは、イスラエルをローマの支配から解放する栄光のメシアでした。「お前は人々を束ねる力を持っている、人々を結集してイスラエルをローマの支配から解放することこそ、メシアの為すべきことではないか」とサタンは誘います。
・イエスが体験された荒野の試練は、いずれも「神の子なら」という問いかけで始まります。「神の子なら」、救い主として何をすべきかをイエスが模索された物語です。八木誠一はこの物語について言います「荒野の誘惑の物語はイエスのイメージをよく表現している。それはイエスが栄光への道を選ばなかったという意味である。私たちは、神は全知全能の支配者であり、最高で完全な存在であると考える。そして私たちが神を信じるという時に、神によって生活を保障され、危険から守られ、幸福と栄光を与えられることを期待するのである。しかし、荒野での誘惑の物語は、このようなイエス・キリスト理解を、ひいては神理解を、断固として否定する」。彼は続けます「荒野の誘惑の物語は、人が何を願うのか、その内容を深く鋭く照明している。それは悪魔のいうところの『神の子』に姿に表現されている。衣食住を満たされたい、人から賞賛されたい、権力がほしいというのが私たちの願いだ。しかし、イエスは退けられた」。
・「石をパンに変えられる」ということ食べるものに事欠かないこと、つまり生存の基本条件が保証されていることです。「高い所から飛び降りて傷つかない」とは、どんな危ない橋を渡ってもいつも奇跡的に神に守られて安全であることに他なりません。更に「世界の国々とその栄華を手に入れる」とは、権力だけでなく名声・栄光を一身に集中させ、独占することです。イエスはこのような人間の願いに「否」を言われたのです。
・イエスが十字架で受けた誘惑と同じ誘惑がここにあります。「神の子なら十字架から降りてみよ」、「神の子なら自分を救え」、もしイエスが誘惑に負けて十字架から降りられたら何が起こったでしょうか。人々は感動し、イエスを神の子として拝み、イエスはユダヤの王になったかもしれません。しかし、それだけです。イエスはやがて死なれ、死後は別の王が過酷に支配したでしょう。力で世の中を変えようとした時何が起こるのか。フランス革命の結果起きたことは血で血を洗う殺し合いでした。ロシア革命もしかり、中国共産革命もそうです。人間の力を断念する所から神の働きが始まります。十字架の試練は、私たちの意識転換を求めています。「自分の命を救う」ことが人生の最大目標ではないのです。人生の最大目標は「神に生かされて生きる」、そのことにあるのではないでしょうか。

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