1.イエスにつまずく郷里の人々
・今日私たちはマルコ6:1-13を読みます。前半はイエスが故郷ナザレの会堂で伝道されましたが、郷里の人々はそれを受け入れることを拒絶した話です。後半はそれにもかかわらず、イエスは宣教活動を活発化され、弟子たちを各地に派遣されるという物語です。イエスはガリラヤのカペナウムを中心に宣教活動をされていましたが、巡回伝道の一環として、故郷ナザレにも行かれました。それは「故郷に錦を飾る」という華やかなものではなかったと思われます。マルコは前に、イエスがカペナウムで宣教活動をされていた時、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。あの男は気が変になっていると言われていたからである」(3:21)と書いています。イエスの家族や親戚は、イエスが家業を捨てて村を出奔し、巡回伝道者になって、ユダヤ教指導者たちと衝突を繰り返していることを、好意的には見ていなかったのです。イエスの家族や親戚はナザレに住んでいますので、村の人々も同じ見方をしていたことでしょう。しかしイエスの行われた数々の不思議な業の評判は聞いていましたので、興味はあり、とりあえず安息日に会堂で説教させてみようということになりました。
・安息日にイエスは会堂で人々を前に語られました。人々はイエスの話を聞いて驚いたとあります(6:2)。この驚きという言葉は「エクパレゾー」ですが、「仰天した」とか「唖然とした」と言う意味で、好意的な驚きではありません。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」、イエスはラビ(教師)になるための特別の学びや訓練を受けていません。イエスがカペナウムで律法学者と論争して彼らを打ち負かしたこと、数々の癒しの奇跡をなされたことはナザレにも伝わっていました。その力はどこから来るのかと人々は不思議がったのです。
・イエスがここで何を語られたのか、マルコは記しませんが、並行箇所のルカでは、イエスはイザヤ61章を引用して次のように言われたと記します「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである」(ルカ4:18)。「主が私に油を注がれた」、自分こそメシア(油注がれた者)であるとイエスは宣言されているのです。人々は唖然としました。人々はメシアを待望していましたが、そのメシアがまさかイエスとは思わなかったのです。人々の驚きは次第に反感に変わっていきます。人々は口々に言い始めます「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(6:3)。
・「この人は大工ではないか」、この間まで私たちと一緒に仕事をしていた村仲間ではないか、その大工がメシアなどというたわけた話をどうして信じることが出来ようか。「この人はマリアの息子ではないか」、ユダヤでは通常父親の名前を用いて人を呼びます。しかし村人は「ヨセフの息子」というべきところを、あえて「マリアの息子」と呼んでいます。当時ヨセフは既に亡くなっていたという事情もあるのでしょうが、それ以上にイエスの出生についての不信が人々の間にあったようです。
・人々はイエスにつまずきました。イエスはその人々に言われます「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(6:4)。郷里の人々は、イエスの人間と言う側面をよく知っているため、イエスが神の子として立てられたという真実が見えなくなっていたのです。家族はなおさらです。先に見ましたように、イエスの兄弟たちはもちろん母マリアでさえ、生前のイエスに批判的でした。「イエスでさえ家族伝道に失敗された」、この事実は家族伝道の難しさに悩む私たちを慰めます。しかし同時に、その家族が後に教会の柱となっていくという事実(使徒言行録1:14)は、また私たちに希望を与えます。
・イエスはナザレでは「何も奇跡を行うことができなかった」とマルコは記します(6:6)。この正直な告白の中に大事な真理があります。イエスはカペナウムで12年間も出血に悩む女性を癒し、また会堂長の娘を死の床からよみがえらせました。そのイエスがナザレでは何の奇跡も行えなかった。福音書を注意深く読めば、イエスが奇跡を起こされる時には、いつも誰かを助けるため、誰かを悲しみから立ち上がらせるため、誰かの必要を満たすためでした。人々に対する愛、憐れみのゆえに、神の力(デュミナス)が働いて、そこに力ある業が起きるのです。逆に言えば、救いを求める人がいなければ奇跡は起こらないし、起こせないのです。郷里の人たちは「カペナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と思っていたようです(ルカ4:23)。しかし、求めのない所においては神の業は働く余地はないのです。
2.12人を派遣する
・後半の話を聞いていきましょう。マルコは記します「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」(6:7)。「十二人を派遣された」、この十二人は明らかにイスラエル十二人部族を象徴しています。並行箇所のマタイ福音書でイエスは言われます「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10:6)。イエスは失われたイスラエル民族を再建することをご自分の使命と考えておられたようです。
・イエスは出発する弟子たちに命じられます「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならない」(6:8−9)。「杖一本で出かけよ」、「お金も食糧も持つな」とここで命じられています。必要なものは神が与えて下さる、伝道はそれを信じて行えと命令されています。物質的な豊かに保証された伝道は往々にして宣教をゆがめます。私たちバプテスト連盟の経験でも、教会堂を建て牧師給を保証する、拠点開拓伝道と呼ばれる方式は必ずしもうまくいっていません。たくさんのものを持つ伝道よりも、何も持たない伝道のほうが、人々に本質的なものを提供しうるのは事実です。
・イエスは言葉を続けられます「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(6:10-11)。一つ所への定着が勧められています。次の言葉「人々が受入れない場合は、足の裏のちりを払ってそこを出なさい」という言葉は強烈です。「足の裏のちりを払う」、ユダヤの伝統では「関係断絶の象徴的行為」です。イエスは「聞こうとしない人のことは神に委ねて、あなたは新しい人々の所に行きなさい」と命じられます。私たちには宣教の責任がありますが、その結果は神に委ねよと言われているのです。宣教は神の業であり、決断はそれを受ける人の問題であり、私たちが関与する事柄ではありません。宣教は結果を求めてはいけないのです。人間的な目標が必ずしも神の御心ではないことをわきまえるべきでしょう。
3.生活を通して伝道する
・今日の招詞としてマタイ10:16を選びました。マタイ福音書の弟子派遣の記事の一節です。「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。イエスは「私たちが派遣される場所には狼の群れがいる」と注意されます。どのような狼がこの日本にいるのでしょうか。野村喬という牧師が「福音と世界」2009年3月号に、「伝道する心」と題して、次のようなことを書いておられます「日本の社会は教会を問題にしていない。教会が何を主張し、どのような行為をしようと、社会に影響を与えることは出来ない。日本のクリスチャンは人口の1%、絶対的少数者である。しかし少数者の割には、キリスト教に関する本は読まれ、音楽は聞かれている。それはミッションスクールの影響だろう。多くのミッションスクールがあり、教育分野でのキリスト教の影響は大きい。しかしミッションスクールで学ぶ学生のほとんどはクリスチャンにならない。礼拝出席を義務付ける学校もあるが、成功していない。学生にとってキリスト教は社会的教養であって、自分の問題を切り開く宗教的な力ではない」。鋭い指摘だと思います。私たちの宣教の場である日本人社会には、「無関心」という狼がいるのです。
・何故人々は文化としてのキリスト教を受入れながら、宗教としてのキリスト教に関心を示さないのでしょうか。それは自分たちの直面する問題に対して、教会は無力だと考えているからです。最近の若い世代は希望が持ちにくいと言われています。三分の一は非正規雇用であり、将来家庭を形成するだけの経済力を期待できません。また正社員の若者は過剰労働の重みで神経をすり減らしてらしています。先の東北大震災では多くの人たちが家を失くし、同時に職業も失くしてしまい、被災地では今、雇用問題が最大の問題になっています。そのような人々に教会は語る言葉を持っているのでしょうか。そこが問題の核心です。
・マルコは書きます「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:13)。聖書学者たちはこの記事を後代の付加ではないかと想像しています。弟子たちがイエスの証人として人々を信仰に導くようになったのは、復活のイエスに出会って、「この方こそ神の子だった」と宣教を始めるようになってからです。しかし弟子たちの宣教はうまくいきませんでした。弟子たちは悪霊を追い出し、病人を癒すことは出来ませんでした。さらに支配者たちは彼らが邪教を伝えているとして、捕らえ、処刑していきました。その中で弟子たちは死を持って脅かされても信仰を捨てず、黙って殺されていきました。死を持って信仰を証した弟子たちを見て、多くの人々がイエスに出会いました。ここから「殉教」と言う言葉が、「証人」を意味する「マルテュース」という言葉で表現されるようになります。古代教父ティルトリアヌスはこの事実を次のように証言します「殉教者の流した血がキリスト教の種である」。
・初代教会の伝道が説教や証しという言葉によって為されたのではなく、キリスト者の生き様を通して為された事実は、私たちにも大きな示唆を与えます。私たちが弱肉強食というこの世の価値観から解放され、病気になってもそれもまた与えられた恵みとして喜んで受け取る、そのような生き方を示していくことこそ伝道なのです。言葉ではなく、生き方によって示される伝道は、「福音に無関心な人」をも動かしていきます。何故なら、それは彼や彼女の人生の問題を解決する一つの方向を示しているからです。そのような生き方が、キリストの弟子としての生き方です。そして、キリストは信徒ではなく、弟子を求めておられます。信徒は自分の救いを願い、弟子は他者の救いを願います。信仰の最初は信徒になることですが、そこに留まっていてはいけないのです。私たちは新しいイスラエル、神の国を形成するためにこの教会に集められました。毎週の礼拝に集まるのは、弟子としての確認の行為です。そして弟子として私たちは派遣されていきます。私たちが教会で捧げる全ての礼拝は、私たちをそれぞれの場に派遣する、派遣礼拝であることを今日は覚えたいと思います。