1.パウロの回心体験
・使徒言行録を読んでおります。使徒言行録前半の主役はイエスの直弟子ペテロです。彼はエルサレム教会の指導者として活躍しますが、エルサレム教会にユダヤ教当局からの迫害が起こり、ユダヤ教を受け入れない人々がエルサレムを追われますと様相が変わってきます(8:1)。迫害を契機に、福音がエルサレムの外に広がり始め、異邦人教会が伝道の主役になっていきます。福音がエルサレムから異邦の地に広がる、その時に中心的役割を担った人がパウロで、使徒言行録後半のほとんどがパウロの記事になります。パウロこそ教会を成長させた大使徒だったのです。ところがそのパウロは当初は教会の迫害者でした。迫害者が伝道者に変えられていく。その回心の出来事を記したものが今日読みます使徒言行録9章です。
・ルカは記します「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(9:1-2)。サウロとはパウロのヘブライ語読みの名前です。ところが、パウロがダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らします。パウロは地に倒れ「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞きます(9: 4)。使徒言行録はパウロの回心を3回にわたって記述しますが(22:4-16、26:9-18)、共通しているのは「天から光があった」、「地に倒された」、「声が聞こえた」という記述です。何らかの劇的な出来事がそこにあったのは確かでしょう。ルカは続けます「『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる』。同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った」(9:5-9)。
・パウロは異端のキリスト教徒たちを捕縛するためにダマスコに向かっていました。その彼に突然に天からの光と言葉が襲います。そのことを通してパウロは「信仰の熱心によって神に仕えていると考えていたが、実は神の敵になっていた」事実を示されます。この事件はパウロにとっては全く予期しない事でしたが、同時に教会にとっても予期しない出来事でした。パウロはその後、ダマスコのアナニアからバプテスマを受けますが、アナニアに主が「パウロの元へ行け」と指示された時、彼は驚いて言います「主よ、私は、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」(9:13-14)。アナニアは「教会の迫害者パウロを迎え入れ、彼にバプテスマを授けることなど出来ません」と異議申立てをしているのです。しかし主はアナニアに再度命じられます「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」(9:15-16)。
・私たちがこの箇所から学びますのは、「神は必要とあればどのような人をも福音宣教の器として用いられる」という驚きです。神の選びは人の予断を超える、過去は関係がないのです。こうしてパウロは迫害者から伝道者に変えられ、やがて多くの教会の指導者となります。新約聖書の三分の一はパウロが諸教会に出した手紙で構成されています。パウロの手紙、特に「ローマの信徒への手紙」はキリスト教信仰の基本として読まれてきました。マルティン・ルターの宗教改革はパウロの「ローマ人への手紙」を読んだ結果起こったものです。内村鑑三の最大著作も「ロマ書の研究」です。そして私も高校時代に内村の「ロマ書の研究」(角川文庫版)を読んで、教会に行き始めました。まさにパウロは「神が選んだ器」だったのです。
2.パウロの体験は私たちの体験でもある
・パウロはキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人で、パリサイ派に属していました。裕福な家庭の出身で、著名な教師ガマリエルに律法を学び、ラビ(律法の教師)として立ちます。彼は「人は律法を守ることによって神に仕える」と信じ、その律法への熱心が、律法を軽んじているキリスト教徒の迫害に走らせました。熱心なユダヤ教徒の彼にとって、十字架で殺されたイエスをメシアとして仰ぎ、復活のイエスを信じれば救われるという信仰は邪教としか思えなかったのです。だから彼は、異端撲滅のために、「家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に送って、教会を荒らし回った」(8:3)のです。その彼が突然の回心を経験します。
・彼は天から突然の呼びかけによって、それまでの生き方全体が問われました。パウロはガラテヤ人への手紙の中で告白します「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました・・・しかし、私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」のです(ガラテヤ1:13-16)。
・パウロは信仰の熱心によって教会を迫害していました。信仰の熱心は往々にして自分の行為や信仰に対して、他からの批判を許さない態度となり、やがて考えの合わないものを容赦無く裁くようになります。正しさを求める信仰は人々を攻撃し、苦しめる信仰なのです。それに対して復活のキリストはパウロに啓示します「私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを彼に示そう」(9:16)。自らの熱心を他者に押し付けるのではなく、他者のために苦しむことを通して他者を生かす者に変えられていく、それが回心なのです。そして回心させられた者には一つの使命が与えられます。主は言われます「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である」(9:15)。私たちは回心のしるしとしてバプテスマを受けますが、それは私たちが新しい使命を持って人生を歩むためのものです。
・パウロの回心は劇的であり、ある意味で特別です。多くの場合、回心はもっと静かな、あるいは目立たない形で起こります。回心とは心の向きが180度変えられることです。そのために、まず私たちが無力にされます。多くの場合、それは事業の行き詰まりや破綻、家庭の不和や離婚、あるいは近親者の死等の、喪失や挫折の形で準備されます。例えば事業の盛んな時には大勢の人が集まってきますが、行き詰まり始めると、銀行は手を引き、得意先も冷たくなり、友人でさえ寄り付かなくなります。そして破産すれば、債権者は目をむいて借金の返済を迫り、親戚や兄弟でさえ声もかけなくなります。その中で、やさしい言葉をかけ、再建のために力を貸す人が出てきます。今まで友だと思っていた人がそうではなく、今まで無縁だと思っていた人が友であることがわかります。その時、今まで心に響かなかった聖書の言葉が、突然にその人を変える言葉として迫ってきます。人生が変えられる出来事を経験する、それが回心であり、パウロの体験はまた私たちの体験でもあるのです。
3.新しき者とされて
・パウロの回心の背景には、彼が律法による救済に限界を感じていたことが指摘されています。パウロが復活のキリストに出会う以前の状況を暗示するのがローマ書7章です。パウロは律法に熱心な者として、戒めの一点一画までも守ろうとしましたが、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分」、「神の前に罪を指摘される自分」でした。ですからパウロは言います「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。律法を守ろうとしても守りきれない自分をパウロは見出していたのです。
・「律法によって人は救われない」、今日の言葉で言えば「善行を積み重ねても救いはない」ということです。律法は「隣人を愛しなさい」と命じます。しかし人は隣人=他者に対して、純粋な愛を持つことはできません。愛の中にもエゴが生まれてくるからです。私たちの愛は相手の中に価値を見出す愛です。例えば夫婦関係において、夫が失業して生活の糧を稼げないとか、妻が病気になって家事ができなくなる等の問題が生じた時、結婚生活の維持は難しくなります。二組に一組が離婚するという社会の現実は、結婚生活に「価値の取引」の要素が大きいことを示しています。しかし律法は無条件に相手を愛することを求めます。パウロは嘆きます「私は・・・善をなそうという意志はありますが、それを実行できない。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:18-20)。
・自分の力によって救いを得ようとした時、パウロが出会ったのは裁きの神でした。だからパウロはうめき声を上げました「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。キリストに出会って平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていたのです。この神の怒りの下にあることの恐れが、パウロを、「律法を守ろうとしない」キリスト教徒への迫害に走らせたのです。しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られました。パウロは死を覚悟しました。ところがパウロを待っていたのはキリストの赦しでした。恐ろしい神との敵対は一瞬のうちに終結し、反逆者パウロに神との平和が与えられました。キリストは「神への反逆者」であった私のために死んでくださった。そのことを知った時、パウロの人生は根底から変わらざるを得なかったのです。
・今日の招詞にローマ8:2を選びました。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。パウロは「正しさを追求する信仰=罪と死との法則」から解放され、「罪を赦されたことを感謝する信仰=命をもたらす霊の法則」を与えられました。これこそがパウロがキリストとの出会いを通して与えられた真理です。マザーテレサは語りました「今日最も重い病気は、人々が互いに求めあわず、愛しあわず、互いに心配しないという病です。この病を治すことができるのは、ただ一つ、愛だけです」。私たちの罪が私たちの愛を妨げている、だから人は憎しみ合い、罵り合いながら生きているとマザーは言います。ではどうすれば人を本当に愛せるのか、マザーは言います「神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、あなたははじめて、愛を周りに放つことができます」。神との出会い、神がいかに私たちを愛しているかを知る、それが回心の出来事です。その回心を通じて、私たちは「正しさを追求する信仰」から、「赦されたことを感謝する信仰」に変えられていきます。その時、私たちもイエスの弟子として歩むようになるのです。