1.神殿崩壊の預言
・マルコ福音書を読み進めています。今日与えられた聖書箇所はマルコ13章前半です。マルコ13章は「小黙示録」と呼ばれ、ユダヤ教の黙示思想の背景の中で、イエスが神殿崩壊とそれに続く終末を預言される内容になっています。「終末」、世の終わり、私たちの日常生活の中ではほとんど語られることがない言葉です。しかしマルコは13章全体を用いて、この終末を詳しく語ります。この「終末」という事柄が現代の私たちにどのような意味を持つかを今日は学びたいと思います。
・物語はイエスの神殿崩壊の預言から始まります。弟子たちは神殿の壮大さに感嘆して言います「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(13:1)。その弟子たちにイエスは言われます「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13:2)。これはエルサレム神殿が信仰の中心であった当時のユダヤ人には許せない言葉でした。後にイエスはこの神殿崩壊預言が冒涜罪に当たるとして告発されています(14:57-58)。イエスは「形式的な神殿祭儀はもう役割を終えた」とここで言われているのです。
・神殿崩壊の預言はユダヤ教徒である弟子たちにとっても大きな衝撃を与える言葉でした。あり得ないことが起ころうとしていると弟子たちは受け止めました。だから弟子たちは「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(13:4)とイエスに尋ねます。それに対してイエスが答えられたとする内容が13章5節以下の長い説教です。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、私がそれだと言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」(13:5-8)。
・ここに語られているのはイエスの神殿崩壊預言を基礎にしたマルコの体験です。マルコ福音書が書かれたのは紀元70年頃ですが、その頃のパレスチナはユダヤ戦争の戦場となっており、ローマ軍がエルサレムを包囲し、エルサレム陥落は時間の問題だと考えられていました。イエスの生前からローマに対する反乱の動きはありましたが、イエスの死後それが加速し、「ガリラヤのユダ」や「チウダ」等メシアを自称する多くの扇動者が現れてローマに対する武装蜂起を呼びかけ、また世界的な飢饉や大規模地震が多発し、世情は不安定化していました。そのような中でユダヤ人たちの不満が対ローマ戦争という形で燃え上がりました。紀元66年に始まった戦争では当初はユダヤ側が優勢に立ちましたが、ローマ軍の反撃により次第にユダヤ側は追い詰められ、紀元70年にはエルサレム城内にローマ軍が侵攻し、街は破壊され、神殿も燃やされてしまいます。14節以下の言葉「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら・・・そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない」(13:14-16)は当時の状況を反映している表現です。
・「憎むべき破壊者」、ダニエル書9:27からの引用です。紀元前167年シリア王エピファーネスはエルサレム神殿にゼウス像を持ち込んで拝むことを強制し、これが契機となってシリアからの解放戦争(マカベア戦争)が起きました。今、同じようにローマ軍がエルサレムを包囲し、神殿に侵入してこれを汚そうとしている。その中でエルサレムにいるキリスト者たちは動揺していました。マルコは信徒たちに「エルサレムから逃げよ、無用な混乱に巻き込まれるな」と叫んでいるのです。並行箇所のルカはもっと直接的に紀元70年の出来事を語っています「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい」(ルカ21:20-21)。別の箇所でもルカは当時の状況を記述しています「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」(ルカ19:43-44)。マルコ13章は戦争のただ中で書かれているのです。
2.歴史の中でイエスの言葉を聞く
・13:21節以下の言葉「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい」(13:21-23)も同じ文脈で理解する必要があります。「エルサレムに留まって共に戦えという熱狂主義者たちの誘いに乗るな、彼らは神殿には神がおられ、神が救ってくださると叫んでいる。しかし、今はまだ終末の時ではない、惑わされるな、死ぬな」とマルコは動揺する信徒たちに語ります。マルコは国家存亡の危機にある信徒たちに、自分の編集したイエスの言葉を伝え、「道を誤るな」と伝えているのです。エルサレムにいたキリスト者たちはこの勧めに従い、戦乱の都を逃れて、ヨルダン川東岸のペラに逃れ、滅亡をまぬかれました。「神殿は崩壊する」、このイエスの預言を聞き、民族滅亡の迫る中で、卑怯者、裏切り者と同胞に罵られながらエルサレムを去ったキリスト者たちによって、福音は守られ、保持されたのです。イエスの言葉が彼らを救ったのです。福音書は単なるイエスの伝記ではなく、福音書記者がイエスの言葉を、「今、どのように聞くか」を示した釈義、信仰告白の書なのです。
・また当時の教会はユダヤ教からは「異端」と迫害され、ローマ帝国からは世を乱す「邪教」として迫害されていました。13:9以下の記事はそのことを反映しています「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、私のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」(13:9)。紀元64年にはローマの信徒たちがネロ帝により迫害され、教会の柱であったペテロやパウロも殺されました。エルサレム教会の指導者「主の兄弟ヤコブ」も同じ頃にエルサレムで殺されています。その困難の中でマルコは教会の信徒に語ります「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ・・・私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13:11-13)。マルコは迫害の中にある信徒に「恐れずに主を証しせよ」と教えます。イエスが迫害されたように、後に続く者が迫害されるのは当然ではないかと。やがて「証しする=マルチュリア」と言う言葉が「殉教する」に同意語化します。今、私たちが聞いている福音は、血を流して、守られ、継承されてきたものなのです。
3.天地は滅びてもイエスの言葉は滅びない
・マルコは国家存亡の危機にある信徒たちに、イエスの言葉を伝え、その言葉によってよって教会は生き延び、イエスの言葉は伝承されてきました。今日の招詞にマルコ13:30-31を選びました。次のような言葉です「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」。
・マルコは「世の終わり」としか思えない体験の中でイエスの言葉を聞きました。しかし、このマルコの体験は私たちも体験したことです。私たちの祖国はアメリカと太平洋戦争を戦い、当初は優勢でしたが、やがて劣勢に追い込まれ、1944年には日本本土への空襲が始まり、連日の空襲で日本本土は焼け野原になり、さらには1945年6月には沖縄も奪われ、敗色濃厚になります。しかしこの中で日本の指導者たちは本土決戦を唱え、1億玉砕を覚悟せよと国民に告げます。そして最終的な破滅、原爆投下により日本は降伏します。原爆投下を体験した人々は世が終わったと考えたことでしょう。太平洋戦争末期の日本の状況は、紀元70年当時のエルサレムとそっくりです。ローマ軍がエルサレムを包囲した時、多くのユダヤ人たちはエルサレムが陥落するはずがないと思っていました。エルサレムは三方が谷に囲まれた天然の要害となっており、一つだけ残された北側の入り口も三重の城壁に囲まれていました。また、それ以上にエルサレムは神の都であり、神が救ってくださると信じていました。ところがエルサレムをローマ軍が包囲して、長期の籠城戦になりますと、城内では食べ物はなくなり、自分の子を殺してその肉を食べるという悲劇さえ生まれ、エルサレムから脱出しようとする人たちは裏切り者として処刑されます。やがてエルサレムは陥落し、ローマ軍が押し寄せ、数万人を超えるユダヤ人が殺され、神殿は破壊され、エルサレムは廃墟とされました。終末としか思えない悲劇が起きたのです。
・その中でマルコは解釈されたイエスの言葉を伝えます「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない・・・これらは産みの苦しみの始まりである」(13:7)。そして最後にイエスの言葉を伝えます「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(13:31)。マルコが自分の置かれた状況の中でイエスの言葉を聞いたように、私たちも自分の置かれた状況の中で、イエスの言葉を聞いていく必要があります。癌末期を宣告され、残された命がいくばくもないことを知らされた人は、「まだ世の終わりではない」(13:7)という言葉を慰めの使信として聞きます。事業に失敗して破産し、債務者に責めたてられている人は、「これらは産みの苦しみの始まりである」(13:8)とのイエスの言葉を励ましとして聞きます。そして慰められ、励まされて立ち上がった人々は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13:13)との救済宣言を聞くのです。
・終末信仰とは、何年何月に「世の終わりが来る」と言うものではありません。「天地は滅びる」、この世の権威や地位や制度が滅びることはありうる、だから世の出来事を絶対化しない。事業の失敗や破産、失業、離婚による家族の崩壊、重篤な末期癌も、あるいは心の病さえも終末のしるしではなく、「産みの苦しみの始まり」なのです。そして私たちは、「私の言葉は決して滅びない」というイエスの宣言を聞きます。主により頼む者は主の憐れみを受けます。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(1コリント13:13)。イエスの愛に留まることの出来る者は、どのような状況下でも決して絶望せず、希望を持ち続けることが出来る、それを信じることこそが「終末の信仰」です。