江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年12月9日説教(マタイ28:16−20、インマヌエルの神に出会う)

投稿日:2012年12月9日 更新日:

1.マタイにおける復活顕現

・アドベント第2週を迎えました。今日、聖書教育によって与えられた聖書箇所はマタイ28:16-20、復活されたイエスが弟子たちに世界伝道をお命じになるところです。何故、クリスマスを前に、復活のイエスの言葉を聞くのか、それはマタイの最後の言葉「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)が「インマヌエル」を意味するからです。「インマヌエル」はヘブライ語で「神は共におられる」という意味です。マタイはこの言葉をイエス生誕時の受胎告知の中で用います「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(1:23)。「インマヌエルと呼ばれる方がお生まれになる」という約束がイエス生誕時に為され、その方が「いつまでもあなたがたと共にいる」と約束して天に昇られた。マタイ福音書は「インマヌエル」という言葉で始まり、「インマヌエル」という言葉で閉じられています。インマヌエルの神とはどのような方であるのかを、クリスマスを前にした今,聞いていきます。
・28章を読んでみましょう。マタイは書きます「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(28:16)。弟子たちはイエスの十字架刑の時にその場から逃げ出し、やがて失望して故郷ガリラヤに戻ります。そのガリラヤで弟子たちは復活のイエスと出会います。その時の記事が今日のマタイ28章です。マタイは記します「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(28:17)。「弟子たちはイエスに出会っても、まだ復活を信じることが出来なかった」ことをマタイは隠しません。死んだ人間が生き返る、そんなに簡単に信じることは出来ないのです。弟子たちの中に,これは「幻覚」であり、自分たちは「亡霊を見ている」と思う者が居ても当然です(ルカ福音書24:37では復活のイエスに出会った弟子たちが「恐れおののき,亡霊を見ているのだと思った」とあります)。
・同時にこの箇所を、マタイは自分の教会の信徒に宛てて書いています。マタイ福音書が書かれたのは紀元80年頃、イエスの復活を直接に体験した第一世代の弟子たちは既に死に,今教会にいる第二世代、第三世代の弟子たちは復活顕現の直接体験をしていません。「見て信じる」ことさえ難しいのに,「見ないで信じる」ことはさらに困難です。初代教会の中にも「イエスの復活を信じることの出来ない」信徒たちがいたのです。その人々にマタイは「イエスは本当に復活された。11人の弟子たちは本当に復活のイエスに出会い、イエスから言葉を受けた。その言葉を私は使徒たちから聞いてあなた方に伝えるのだ」と語っています。その言葉とは18節以下の言葉です。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:18b-20a)。イエスの宣教命令と呼ばれる言葉ですが,今日はこれらの言葉の解釈はしないで、20節後半の言葉、「インマヌエル」に集中しましょう。
・マタイは記します「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)。この「いつもあなたがたと共にいる」という言葉こそ,インマヌエルの意味です。インマヌ=われらと共に、エル=神、「神はわれらと共におられる」が元来の意味です。「十字架で死なれたイエスは,復活されて今も生きておられ、私たちと共におられる」とマタイは証しします。イエスは死なれたが,宣教の言葉の中に臨在しておられる、それがマタイの信仰です。マタイは「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(18:20)とのイエスの言葉を伝えています。人が祈りを合わせる時、イエスはそこにおられると彼は証しします。また聖餐式における言葉「取って食べなさい。これは私の体である・・・この杯から飲みなさい。これは私の血・・・である」(26:26-28)も、主の晩餐の時にイエスがそこに臨在されているという信仰を示しています。

2.インマヌエルの主に出会う

・マタイの信仰は「十字架で死なれたイエスは,復活されて今も生きておられ、私たちと共におられる」というものです。私たちも同じ信仰を持ちますが、なかなか主の臨在を実感できないのが現実です。つまり,インマヌエルのキリストとの出会い体験がない故に、「疑いつつ信じる」という信仰生活になりがちです。2000年前にペテロやパウロが体験した復活のイエスとの出会いが、「私たち自身の体験」にならない限り、私たちの信仰は弱いままで終わり、やがて教会を離れるようになります。先週お話しましたように、「かつて信仰告白して洗礼を受けられた人の半数以上の方が教会から離れておられる」事実こそ,この出会いの必要性を訴えます。では私たちはどのようにして復活のイエスと出会うことが出来るのでしょうか。
・いろいろな出会い方があると思いますが,今日はドイツの神学者ユルゲン・モルトマンの出会い体験を聞いていきます。彼は1926年にドイツで生まれ、第二次大戦で国防軍兵士として出征し、祖国の敗戦を捕虜収容所で迎えます。彼は自分の体験をこのように書きます「私は1945年にベルギーの捕虜収容所にいた。ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ文化はアウシュヴィッツによって破壊され,私の故郷ハンブルクは廃墟となっていた・・・私は神と人間に見捨てられように感じ、私の青春の希望は消え失せてしまった。私の前には将来が見えてこなかった。その時、私は収容所でアメリカ人従軍牧師から聖書を一冊もらい、読み始めた・・・受難の物語が私の心を捕らえた。イエスの死の叫びの所にきた時(マルコ15:34「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」)、私はすべての人がイエスを見捨てる時にも、イエスを理解し,イエスの元に一人の方がいますことを知った。それは私の神への叫びでもあった」。モルトマンは続けます「私はイエスによって理解してもらっているように感じ、苦しみ試みられ神に見捨てられたイエスを理解し始めた・・・私は生きる勇気を奮い起こした。このかつての苦しみを共にした兄弟であり,罪責からの救済者であるイエスとの交わりは、それ以来もはや私を見捨てることはなかった。十字架にかけられたイエスこそ,私にとってのキリストである」(「今日キリストは私たちにとって何者か」前書きより)。
・聖書には三人称的な読み方と,二人称、一人称的な読み方があると言われています。通常は何も感じないで聖書を読みます。三人称的な読み方です。しかし、聖書の中の言葉が忘れられない印象を与える時があります。それが二人称的な読み方です。そして私たちが人生の危機の中にある時、聖書の言葉が私たちに直接語りかける、自分の人生を根底から変えてしまう、そういう出会いをする時があります。モルトマンが経験した出会いはこの一人称的な言葉との出会いで、この出会いを通して,モルトマンは復活のイエスと出会いました。私も同じような体験をしたことがあります。その体験が27年間勤めた会社を辞めて神学校に導く契機になりました。人はあるとき,パウロが言うように「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)というような体験をします。それがインマヌエルなる方との出会いです。

3.イエスの宣教命令を受けて

・今日の招詞にマタイ25:40を選びました。次のような言葉です「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。トルストイの描いた民話に「愛ある所に神あり」という物語があります。物語の主人公、靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、辛い出来事の中で生きる希望も失いかけています。彼は惰性で続ける仕事に支えられて毎日を送っています。ある日、教会の神父が傷んだ革の聖書を修理してほしいと聖書を置いていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父が置いていった聖書を読みはじめます。そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧」。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、親子を家に迎え、ショールをあげました。キリストがおいでになるのを待っていると、今度はおばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。一日が終りましたが、期待していたキリストは現れませんでした。がっかりしているマルチンに、キリストが現れます「マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。そして最後にマタイ福音書の言葉が述べられます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。モルトマンは聖書の言葉を通してインマヌエルな方と出会いましたが、マルチンは人々との出会いの中で「インマヌエル」なる方と出会います。そして、このインマヌエルこそマタイ福音書の最初の言葉であり,最後の言葉,マタイが最も伝えたかった言葉です。
・ゲルト・タイセンという聖書学者が「イエス運動の社会学」という本を書きました。彼は、イエスが来られて何が変わったのかを社会学的に分析した人です。彼は書きます「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストが来られることによって「キリストにある愚者」が起こされた、それが、イエスが来られた以降の最大の変化だとタイセンは言います。キリストにある愚者とは、「世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストが来られた恵みに応えることが出来るのか」を考える人たちのことです。聖書の言葉はこの「キリストにある愚者」を生み出していくのです。そして私たちも「キリストにある愚者」として、招かれているのです。

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