1.弟子たちへのイエスの遺言
・マルコ福音書を読んでいます。先週私たちはマルコ13章の前半を読みましたが、そこにはイエスの言葉をマルコがユダヤ戦争による国家滅亡の危機の中で聞いた、信仰告白があることを学びました。イエスは十字架を前にして、エルサレム神殿の崩壊を預言されましたが、それから40年後の紀元70年の今、マルコはエルサレムがローマ軍に囲まれて崩壊しようとしているそのただ中で、イエスの預言を聞き直しています。マルコの時代、地上には地震や飢餓が続発し、ユダヤはローマ軍の攻勢の中で国が滅びようとしており、信徒たちは信仰のゆえに迫害や艱難の中にあり、世の終わりが来たとしか思えない状況に彼らは追い込まれていました。その人々にマルコはイエスの言葉を伝えます。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら・・・そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない」(13:14-16)。「混乱があなた方を巻き込むが、まだ終末ではない、エルサレム神殿に立てこもって最後まで戦おうという偽メシアの誘いに乗るな、無意味に死ぬな、生きよ」とマルコは呼びかけます。そしてマルコは語ります「終末とはこの世が滅びる時ではなく、神の国が完成する時なのだ」と。それを記すのが今日読みます13章後半の記事です。
・マルコは記します「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(13:24-26)。終末を考えた時、人は投げやりになります。「どうせ死ぬのだ」と。しかし終末は悲しい時ではなく、神の国が来る喜ばしい時なのだとマルコは告げます。マルコは迫害に苦しむ信徒に、「迫害はいつまでも続かない。主が来られるから、今は忍びなさい」と励まします。それが27節の言葉です。「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(13:27)。
・いつそれが来るのか、マルコはいちじくの木を見て季節がわかるように終末の時も「しるし」が与えられると言います。マルコは記します「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(13:28-29)。いちじくの木は冬には完全に葉を落としますが、木の内部では、芽を出し、実を結ぶ準備をしています。厳しい冬の現実の中で、いちじくはその内部で結実の支度を行っているのです。それは今の私たちには見えませんが、夏が近づき、いちじくの葉が伸びて来て、私たちも「収穫の日が近い」ことを認識できるようになります。そのように「目に見えるところは苦難に満ちた暗闇であったとしても、その背後には確実に人の子の栄光が顕現する時が迫っている」とマルコは語ります。
・マルコは「私たちはイエスの十字架と再臨(神の国の完成)の間にいる。今イエスは不在だが帰ってこられる。その時に備えて今を生きよ」と語ります。それが32節以下にあります「目を覚ましていなさい」という教えです。「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」(13:34-35)。マルコはエルサレムの陥落とそれに続く大艱難を目前にした緊迫した状況で福音書を書いています。その中で彼は「終末の時は世の終わりではなく、神の国の完成の時なのだ」と人々に語ります。
2.終末を待望しながら生きる
・イエスご自身、終末、神の国の接近を感じておられたようです。マルコはそのイエスの言葉を伝えています「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(9:1)。初代教会の人々もキリストの再臨(神の国)がすぐにも来ると思っていました。ユダヤ教では終末の時に死んだ人はすべて生き返ると信じられ、イエスの復活に接した弟子たちは、終末は既に始まったと考えていたからです。パウロは、自分は生きて主の再臨を迎えると考えていたことが彼の書いた手紙の内容から明らかです。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(�テサロニケ4:15-17)。
・しかしイエスの再臨は弟子たちの生存中にはありませんでした。初代教会の信仰がこの再臨(終末)遅延によって揺らいだことはペテロの手紙の著者も証言しています。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます・・・その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(�ペテロ3:8-13)。その後の歴史においても、社会が乱れると、「世の終わりが来た」として終末預言がなされ、多くの人々が混乱の中に巻き込まれました。しかしその預言はいつもはずれました。何故なら終末がいつ来るかは人間の知るものではないからです。マルコはイエスの言葉を記します「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(13:32)。
・当時の教会の中に、キリストの再臨の日を、歴史上の特定の出来事に結びつけて語る人々が居たので、マルコは彼らに「そうではない」と警告しているのでしょう。それから2000年の時が流れました。しかし、宇宙は崩壊せず、人の子が再臨することもありませんでした。そのため、今日の教会は再臨信仰をなくしてしまいました。しかしマルコはそのような私たちに「目を覚ましていなさい」と警告します「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(13:36-37)。「目を覚まして待つ」とはどのような生きかたなのでしょうか。
3.目を覚まして待つ
・今日の招詞に�テサロニケ5:16-18を選びました。次のような言葉です「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。テサロニケの信徒たちは迫害の中にあり、イエスが一日も早く来られて、その苦しみの時を終わらせてくれるように祈っていました。パウロも主の再臨の日=終末を待望していますが、それがいつかは知りません。終末は神の出来事であり、私たちの時ではないからです。私たちにとって最初に来る終末は自分の死です。しかし信仰者は死を恐れる必要はありません。何故なら、信仰者にとって、死は慰めであり、救いの時だからです。命を支配しているのは、サタンではなく神です。個人の終末=死とはキリストと共にいる生活に入ることであり、心配したり、歎いたりする時ではなく、待ち望む時です。だから「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する」のです。
・このように、私たちは主イエスの復活を通して、死が終わりではないという希望を与えられています。ただ私たちはここで考えるべきです。個人の信仰、家族の救いということだけであれば、復活と天国があれば十分です。しかし聖書はイエスの再臨、神の国の完成を語ります。聖書のいう救いは個人の平安を超えたもの、この社会の救いを意味します。マルコは戦争が起こって、多くの同胞が殺され、教会の信徒が迫害される中で「主よ、来たりませ(マラナタ)」と祈りました。現代の私たちも救いを私や家族だけでなく、もう少し広い視野で考える必要があります。放射能に汚染された福島県の村々では住民は今後5年間の帰還は難しく、仮設住宅の中で「どうしたら良いのか」と思いあぐねています。シリアでは、戦火の中で人々が故郷から追われ、逃げ惑っています。この中で私たちが自分たちだけの幸いを祈っているとしたら、それは「目を覚まして生きる」生き方ではありません。
・「目を覚ましていなさい」、この社会で起きる様々な不正や悲惨から目を背けず、出来事を見つめ、その中で自分に何が出来、何が出来ないかを分析し、出来ることを行い、出来ないことを祈っていく、そのような生き方が「目を覚ましている」生き方です。パウロはテサロニケの人々に言いました「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」(1テサロニケ5:14)。教会は「神の家族」です。怠けている者がいれば戒め、落胆している者がいれば励まし、信仰の弱い人には配慮する。教会は裁きの場ではなく、赦しと和解の場です。教会の奉仕をしようとしない人、文句ばかり言う人、評論するが働こうとしない人が教会内にいるかもしれない。彼らを恨むまず、彼らに仕えなさい。報いを期待せずにやるべき事をしなさい。そして「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。いつでも、順調な時も、そうでない時も喜べと言われています。喜べない時も喜ぶ、それが信仰です。
・テサロニケ教会への手紙では、「兄弟」と言う言葉が繰り返し、用いられています。教会は「神の家族」であり、教会員は相互に兄弟姉妹なのです。この「神の家族」の形成こそ、神の国のしるしです。今日の教会は再臨信仰をなくしてしまいました。しかし、イエスは既に教会に来られています。神の国は実はもう「教会」の中にあるのです。福音はイエス・キリストの十字架と復活において終末が既に到来したことを伝えます。終末はいつか来る世の終わりの出来事ではなく、キリストを信じ、キリストに従って生きる者は、既に終末の現実を生きているのです。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない・・・これらは産みの苦しみの始まりである」(13:7)。いじめられて自殺を考えている子どもたちや制癌剤の副作用に悩んで死んだ方がましだという人もいるでしょう。しかし、それらは「世の終わりではなく、産みの苦しみの始まり」なのです。そしてキリスト者はイエスの約束の言葉を聞きます「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マルコ13:30-31)。イエスの福音は私たちを生かす言葉なのです。