1.イエスにつまずいた青年
・マルコ福音書を読み進めています。今日の聖書箇所は、永遠の命を求めてイエスの所に来た青年が、「すべてを捨てて従いなさい」というイエスの言葉につまずいた記事です。マルコは記します「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』」。この人は22節で「たくさんの財産を持っていた」とありますし、並行箇所マタイ19:20には「青年」とありますので、一般的には「富める青年」の物語と呼ばれます。金持ちで何の不自由もないと見られていた青年が、「永遠の命をいただくためには何をしたら良いのでしょうか」と問いかけてきました。この人にイエスはそっけない対応をされます「なぜ、私を『善い』と言うのか。神お一人のほかに、善い者はだれもいない」(10:18)。「神お一人のほかに善い者はだれもいない」、イエスは彼の問題を一目で見抜かれました。「彼は善良で、戒めを守り、経済的にも恵まれている。彼は善い事をすれば救われると考えているが、善い方である神を求めていない。そこに彼の問題がある」と。
・イエスは彼を試すために言われます「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(10:19)。「戒めを守れば救われるとあなたが考えるならば、守ったらどうか」とイエスは言われます。金持ちの青年は答えます「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10:20)。「守ってきましたが、救いの実感がないのです」と男は答えます。イエスは彼に驚くべきことを言われます「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」(10:21)。
・「売り払いなさい」、「施しなさい」、という言葉で彼の問題点が浮き彫りになります。彼は自分の救いのために一生懸命に努力してきましたが、その中に「他者」という視点が欠けていたのです。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」、すべては「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という他者のための戒めなのに、彼は自分の救い、自分の満たしのことだけを考えていた、だから彼に信仰の喜びはなかった。それを知るために、「今持っている全てを捨てなさい」と命じられたのです。しかし彼はあまりにも多くを所有していましたので、イエスの言葉に従えませんでした。マルコは書きます「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(10:22)。
2.この物語は何を私たちに語るのか
・青年の問題点がイエスとの問答を通して明らかにされます。彼は自分が「何かをすることによって」、永遠の命が手に入ると考えています。律法を守る、善い行いをする、業績を積む、だから救われるはずだ。しかしイエスは否定されます「人間の努力によって救われるとしたら、救いの主導権は人間にあることになる。命の源泉が神にあるとしたら、神を受け入れることこそ救いの条件ではないのか」と問い直されています。イエスは言われています「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(10:15)。神の国、神の支配を、子どものように素直に受け入れれば良いのだとイエスは言われているのです。
・イエスはすべての人に神の救いは開かれていると言われます「神は正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。そこには何の資格も能力も不要です。しかし難しいのは、人は自分の持っているもので自分の立場を守ろうとすることです。富もそうですし、学歴や経歴、あるいは地位等により、救いを勝ち取ろうとします。イエスが言われていることは、そのようなものを一旦捨てて、幼子のようになれということです。幼子は親の庇護なしには生存できませんから親を頼ります。同じように人も生かされているのであれば、ひたすら神に依り頼むのだ。その時、邪魔になるのであれば、富も業績も身分も捨てなさいと言われています。しかし、人は捨てることが出来ません。何故なら「富のあるところに心もある」(マタイ6:21)からです。
・この物語は弟子の召命物語であろうと言われています。ペテロやヤコブのようにイエスの招きを受け入れた者もいましたが、他方で、この青年のように、イエスを尊敬しても従いきれずにイエスの元を去って行った者もいたのです。後半ではこの「従う」と言うことがどのような意味かを巡って物語が展開します。イエスは去って行く青年を見て言われます「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(10:23)。「金持ちは救われない」、では「財産のない貧乏人は救われるのか」。イエスは言われます「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」(10:24)。貧乏だから、全てを捨てたから救われるとイエスが言われていないことを留意すべきです。それに続くペテロのエピソードもそれを示唆します。ペテロは言います「この通り、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10:28)。並行箇所のマタイ福音書はペテロの言葉を補足します「私たちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。ペテロは何も捨てていない、イエスからより良きものがいただけると思うから、職業を捨ててイエスに従っているだけのことです。人は全てを捨てて従うことは出来ないのです。ペテロと富める青年と、両者の本質は何も変わらないです。
・それではイエスは何故、この青年に「全ての財産を捨てて従いなさい」と言われたのでしょうか。それは彼が「善いこと」、行いを積むことによって救いを獲得しようとし、命の源である神(善い方)を求めていなかった、それに気づくために彼は挫折する必要があったからです。仮に、富める青年が「全てを捨てることは出来ません。でもあなたに従いたいのです」と訴えたら、イエスはそれを喜んで受け入れられたと思われます。ルカ福音書でイエスは徴税人ザーカイが職業と財産を持ったままで従うことを喜んでおられます(ルカ19:8)。
・ここまで来ますと、物語の主題がお金や富ではなく、生き方の問題であることが明らかにされていきます。自分の力に頼って救いを求めた時、それは挫折します。救いは恵みであり、ただ受ければよいのです。幼子がなぜ「神の国を受け入れる者」と言われているのか、何も持たないから、「ただ受ける」しかないからです。イエスは言われました「人間に出来ることではないが神には出来る」(10:27)、金持ちの青年はお金や才能があったばかりに自分の力に頼り、「人には出来ない」という場所で引き返してしまいました。もし彼が、「神には出来る」という信仰でイエスの下に留まれば、神の国を見ることは出来たのです。
3.先の者が後になり、後の者が先になる
・今日の招詞にマルコ10:31を選びました。今日の聖書箇所の締め括りにある言葉です。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。この謎のような言葉は聖書の中で三回用いられています。最初はこのマルコ10章で「私のためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(10:29-30)という言葉の後に使われています。この言葉は初代教会の現実を反映しています。生まれたばかりの教会はユダヤ教からは異端とされ、ローマ帝国からは邪教と言われ、迫害の中にありました。その中で洗礼を受けてクリスチャンになる人は家から勘当されたり、ユダヤ人共同体から追放されたりしていました。そのような信徒に対して、聖書記者は「福音のために家や家族を捨てたあなた方は、今はつらいかも知れないが、やがて大きな報いを受ける。先の者が後になり、後にいる者が先になる」と励ましています。
・二つ目に用いられているのがマタイ20:16です。「ぶどう園の労働者」という喩えの後で語られています。喩えでは朝6時から働いた者と、夕方5時から働いた者に同じ報酬が支払われ、朝から働いた労働者が文句を言い、それに対して主人が答えます「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(マタイ20:14)。この喩えはパリサイ派の人々に向かって語られています。パリサイ派の人々は、自分たちは律法を守って正しい生活をしているのだから救われて当然だと思っていました。ところが、彼らが罪人として排斥していた徴税人や娼婦まで救われると聞いて彼らは抗議します「自分たちは何十年も律法を守るという厳しい生活をしてきたのに、昨日今日回心したあの者たちと一緒にするのですか」。その抗議に対して「先の者が後になり、後にいる者が先になる」と語られています。
・三度目の用法はルカ13:30、「神の国の祝宴の喩え」の中で語られています。神の国で祝宴が開かれ、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着」きます(ルカ13:29)。ところが自分たちは神の選民だ、アブラハムの子孫だと傲慢になっていたユダヤ人は宴会から閉め出されます。ユダヤ人は抗議しますが抗議は受け付けられず、最後に「先の者が後になり、後にいる者が先になる」と宣言されます。
・「先の者が後になり、後にいる者が先になる」という言葉の意味は明かです。神の国においては、この世の秩序は成立し得ないのです。マルコ10章の物語で、金持ちの青年はイエスを「善い先生」と呼び、それに対してイエスは「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と答えられました。当時の人々は神の戒めと言われた律法をたゆまず守る努力をし、それによって得られる宗教的な業績や経歴に依って、救いを獲得できると考えていました。律法をどれだけ守れるかが価値判断の基準であり、律法を守る人を正しい人、律法を守らない人を罪人として区別していました。しかしイエスは「善い方は神お一人であり、人間の善い、悪いは神の目から見れば何の意味もない」と言われたのです。今日の私たちも、自分たちの学歴や職業、地位、さらには富が、人生の決定的な要因だと考え、その価値基準に基づいて、人を区別します。しかし、イエスは言われます「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)。死の床にある人間にとって財産や学歴は何の役にも立ちません。すべての人間が死ななければいけないとしたら、あなたは実質上「死の床」にあるのではないか。その時に本当に意味あるものの価値に目覚めよと言われているのです。
・最後に井村和清さんの「あたりまえ」という詩を読みます。彼は1947年に生まれ医者になりますが、1979年32歳の若さで悪性腫瘍のために亡くなります。彼は亡くなる前に手記を著し(「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」)、その中でこの詩が歌われています。「こんなすばらしいことを、みんなはなぜ喜ばないのでしょう。あたりまえであることを。お父さんがいる、お母さんがいる。手が二本あって、足が二本ある。行きたいところへ、自分で歩いてゆける。手をのばせば、なんでもとれる。音がきこえて、声がでる。こんなしあわせはあるでしょうか。食事がたべられる、夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる。空気を胸いっぱいにすえる、笑える、泣ける、叫ぶこともできる。走りまわれる。みんなあたりまえのこと。こんなすばらしいことを、みんなは決して喜ばない。そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ。なぜでしょう、あたりまえ」。
・人はなくしてみないとそのことの価値がわからない。井村さんは死の床で神に出会った。神から与えられる恵み、生かされていること、このあたりまえのことを喜んでいけることに気付いた。ペテロはイエスの生前は、イエスのことを本当には理解できなかった。しかしイエスに従い通し、復活のイエスに出会った。金持ちの青年はお金や才能があったばかりに自分の力に頼り、「人には出来ない」という場所で引き返し、イエスとの真の出会いをしなかった。イエスに従い続ける時、私たちは、「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」(イザヤ 35:5)体験をするのです。