1.弟子たちの不信仰
・マルコ福音書を読み進めています。先週私たちはイエスが三人の弟子を連れて山に登られた記事を読みました。その山で弟子たちは神秘体験をします。他方、残りの弟子たちは村で待っていました。やがてイエスと三人の弟子たちは山を下って来ましたが、その時、「他の弟子たちは大勢の群衆に取り囲まれていた」(9:14)というのが、今日のテキストの始まりです。病気の子をもつ父親が癒しを求めて来ましたが、イエスは不在であったため、弟子たちに病の癒しを願いました。弟子たちは手を置いて癒そうとしましたが、出来ません。子どもの病気を治せない弟子たちを見て、律法学者たちは彼らの無能をあざ笑い、弟子たちは反論して言い合いになった、そこにイエスが山から下りて来られた。そういう情況であったことをマルコは記しています。
・イエスを見た父親は言いました「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます」(9:17-18)。イエスは事情を知って嘆かれます「何と信仰のない時代なのか」。イエスは多くの病をいやされ、悪霊を追い出されました。ここでも悪霊が問題になっています。子供の病気は今日で言う「てんかん」でしょう。てんかんは病気や事故で脳が損傷を受けた時に起こる病であることが今日では確認されています。しかし当時は、このような病は悪霊の働きと考えられていました。だから父親は「霊がこの子に取り付く」と表現しています。弟子たちはてんかんの子を癒やせませんでした。そのため、群衆から「病を癒やせないではないか、あなたたちは本当に神から遣わされたという評判のイエスの弟子なのか」と問い詰められています。律法学者はそのことを嘲笑し、弟子たちは言い訳をしています。弟子たちにとって、子どもの状態よりも、自分たちの正当性が疑われたことの方が重要でした。だから子どもは放り出して、律法学者と論争しています。イエスはその弟子たちを見て、その不信仰を嘆かれました。
・イエスが弟子たちに求められたのは、子どもをいやすことよりも、神の愛が何かを人々に告げることでした。「この子も神に愛された子であり、それにふさわしい手当を受けるべきだと何故考えなかったのか」とイエスは弟子たちを叱られました。体の癒しは神の権能です。仮に子を癒やせなかったとしても、その子の汗をふき取って楽にしてあげるとか、抱きしめて共に泣くとか、出来ることはあるだろう。少なくとも律法学者と論争するより大事なことがあるのに、あなたたちはそれに気付いていない。だから、あなたたちは「不信仰なのだ」とイエスは言われています。マザー・テレサはインドで多くの人たちが路上で死んでいく姿を見て、「死を待つ人々の家」を開設し、路上の人々を運び、最後の看取りを始めました。彼女は癒しを行いませんでした。彼女がしたことは死んでいく者が人間としての尊厳をもって死ねるように、その人を抱きしめ、介抱したことだけでした。イエスが弟子たちに求められたことも同じです「父なる神がこの子を憐れんでおられることに何故気付かなかったのか」、そのことをイエスは「不信仰」と言われているのです。
・病の癒しを求める信仰はこの世にはたくさんあります。キリスト教の中にも癒しを強調する教派もあります。しかし聖書は、病の癒しを求める信仰は偶像礼拝であると教えます。聖書が教えるのは「神は神であり、人間は人間である」という信仰です。全ての力は神にあり、人間の側にはない。被造物にすぎない人間が祈ることによって癒しを引き出す、つまり神の権能を左右できるとしたら、その神は真の神ではなく、偶像の神です。私たちは病の癒しを神に願うことは出来ます。それは聞かれるかも知れないし、聞かれないかも知れない。聞かれない時、私たちの信仰が足らないとしたら主導権は私たちにあることになります。人間は信仰さえも神との取引材料にする。「信仰が足らないから癒されない」、それは悪魔のささやきです。
2.父親の不信仰
・イエスは父親に向かって、「子を連れて来なさい」と命じられました。父親はイエスに言います「お出来になるなら、私どもを憐れんでお助けください」(9:22)。「お出来になるなら」、この言葉の裏には父と子の長い苦しみがあります。子供は幼い時からてんかんの発作に苦しんでいました(9:21)。父親は子供の病気を救ってやりたいとして、これまでも多くの医者を尋ね歩いて来たのでしょう。しかし、誰も治せなかった。今、一縷の望みを持ってイエスの弟子に依頼したが無駄であった。イエスでもだめだろう、父親はそう考えています。この父親は不信仰です。でも当然の不信仰です。何故ならば父親はイエスが誰であるかをまだ知らないからです。
・父親に対してイエスは答えられます「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(9:23)。「癒されるのは神である。そして神は私にその力を与えて下さった。これを信じるか」とイエスは問われました。父親は即座に言う「信じます。信仰のない私をお助けください」(9:24)。「神が私たちを憐れみ、癒して下さることは信じます。しかしこれまで失望の連続でしたから信じきれない自分がいます、このような私にも恵みは与えられますか」という叫びが父親から出ています。イエスはこの父親の言葉を聞いて、子供を癒されました。
・22節では父親は「私どもを憐れんで下さい」と願っています。私ども、父親とてんかんの子です。しかし、イエスとの問答を受けた24節では「信仰のない私をお助けください」となっています。私たちではなく、私です。ここにおいて、もはや子の癒しが問題になっているのではなく、父親の救いが問題になっています。この事を知ることは重要です。私たちの信仰もこの父親と同じだからです。私たちは日曜日に教会に来ても、残りの6日間は世の人と同じ生活をし、同じ価値観を生きています。私たちは、神が養ってくださることを教えられながら、子供の教育費はどうしたらよいのか、家のローンの支払いは大丈夫か、このままでは老後が心配だ、と毎日わずらっています。私たちは神を知ってはいますが、神に人生を委ねてはいません。つまり神を信じていないのです。
・後に弟子たちが、自分たちは何故いやせなかったのですかと問うたのに対してイエスは答えて言われます「祈によらなければ、何も出来ない」と(9:29)。不信仰の自分、何も出来ない自分を認め、ただ神の憐れみを求める、それが祈りです。その祈りに答えて癒していただければ感謝をもって受入れる。仮に癒されなかったとしても、それが最善であることを知るから同じく感謝する。それが信仰です。癒すことが出来なかった、あるいは癒しを信じることが出来なかった、そのことが不信仰なのではなく、神が私たちを憐れんで下さることを知りながら、その憐れみにすべてを委ねることが出来なかった。そのことが不信仰だと言われているのです。
3.その不信仰を通して神が働かれる
・今日の招詞に�コリント12:9を選びました。次のような言葉です。「 すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。この手紙を書いたパウロは、コリント教会の創設者で、教会を離れた後もいろいろな助言を教会に与えていました。しかし、教会の中には、「パウロはイエスの直弟子ではなく、回心前は教会を迫害する人間だった」として距離感を持つ人もいました。ある人々は「パウロには果たして使徒の資格があるのか」とさえ疑っていました。これは、パウロにとってつらいことでした。そのコリント教会にパウロは手紙を書きました。
・手紙の中でパウロは語ります「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです」(12:7)。「とげ」とか、「サタンから送られた使い」とは何を意味するのでしょうか。新共同訳で「私を痛めつけるために」と訳されている箇所は、原文では「サタンの使いによって、拳で打たれた」となっています。「拳で打たれたような苦しみがある」病気だと推測されます。またガラテヤ教会への手紙の中で、「この前私は体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」(ガラテヤ4:13)と語っています。持病が悪化したので旅程を変更し、療養に適した高地のガラテヤに行ったことを示唆しています。パウロの病気は「発作を伴うてんかん」であったと考えられています。彼はこのことを気に病んでいました。だから、パウロは、この病気を「離れ去らせてくださるように、三度主に願いました」(12:8)と言います。「三度主に願った」、心をこめて、繰り返し神に祈った、という意味です。しかしその時にパウロに与えられた答えが今日の招詞です。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。「あなたには持病という体の弱さがあるからこそ、あなたは謙遜になれるのだ」と言われたのか知れません。
・「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」、これは逆説です。自分が弱さに徹して何もできなくなった時にこそ、その無力な自分の内にキリストの力が強く現れるのです。パウロの生涯は、この逆説に貫かれた生涯でした。自分の弱さを認める時、そこに神の力が働くのです。信仰も同じです。E.シュバイツァーという聖書学者はマルコ9章を注解して言います「人はただ、自分の不信仰を知ることにおいてのみ、信仰という神の賜物を喜ぶことが出来る」。自分の不信仰を認める、「信仰のない私をお助けください」という祈りこそ、私たちがなすべき祈りなのです。
・信仰が足りないから癒されないのではありません。癒されないことが恵みであるから、癒されないのです。それがどのような悲惨な病であっても、この子供のようにてんかんで体が引きつり、口から泡を吹き、長い間絶望の中に置かれたとしても、それは恵みなのです。病気や苦しみがあるからこそ、私たちは神を求めます。そして求める人は神に出会います。父親は子の病があるからイエスを求め、出会いました。子の病があったからこそイエスに出会えたとしたら、子の病は恵みなのではないでしょうか。私たちを本当に満たすものは外部情況の変化ではありません。外部情況が変化しても、例えば病が癒されても私たちは満たされません。当初は感謝するでしょうが、やがて当然になり、健康であるというだけでは心は満たされなくなります。自殺する人の大半が五体満足であることは、体の健康だけで私たちは満たされないことを示します。私たちを満たすものは、私たちの心の変化です。そして、心の変化をもたらすものは私たちが不信仰であることを知り、神に憐れみを求める以外に生きようが無いことを知ることです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」、自分の弱さ、自分の不信仰を知る者の上に神の力は働くのです。