江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年7月22日説教(マルコ6:45-52、湖上を歩まれるイエス)

投稿日:2012年7月22日 更新日:

1.湖の真ん中で漕ぎ悩む弟子たち

・マルコ福音書を読んでいます。今日与えられた箇所はマルコ6:45-52、「湖上を歩まれるイエス」です。イエスが弟子たちを助けるために湖を歩いて来られたとマルコは記します。「水の上を歩く」、そんなことが本当に起こったのか、現代の多くの人が躓く箇所です。私たちはこの物語をどのように読んでいけば良いのでしょうか。この物語はマタイ福音書、ヨハネ福音書にも平行箇所がありますので、それらも参照しながら読んでいきます。
・イエスはガリラヤ中を回って、教え、宣教され、人々の病をいやされました。大勢の人々がイエスの周りに集まってきました。ある時、イエスの話を聞くために、ガリラヤ湖のほとりに数千人の人が集まりました。イエスは彼らを見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(6:34)、手元にあった五つのパンで、5千人を養われました。群集はその奇跡に驚き、賞賛の声が大波のように広がりました。平行箇所のヨハネ福音書では「人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言い、イエスを王にするために連れて行こうとした」と記します(ヨハネ6:14-15)。興奮状態の中で、今にも暴動が起こりそうになり、弟子たちもまたこの興奮に巻き込まれていました。そのため、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せて向こう岸に行かせ、群衆を解散させ、ご自身は祈るために山に登られたとマルコは書きます(6:45-46)。
・弟子たちが舟に乗ったのは夕方でした。しかし、山の方から強い北風が吹き、舟は湖の真ん中で立ち往生してしまいます。強風が吹き荒れ、波は逆巻き、船は嵐に翻弄されます。弟子たちは必死に舟を進めようとしますが、舟を前に進めることは出来ません。時はいつの間にか、明け方に近くなっていました。イエスは対岸からそれを見て、弟子たちを助けるために、湖の上を歩いて行かれたとマルコは記します。弟子たちは「イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ」(6:49)。弟子たちが怯えるのは当然です。暗闇の中で、歩いてくるものがいる。幽霊としか表現できません。しかし、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」というイエスの言葉に弟子たちは我に帰ります。「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた」とマルコは記します(6:51)。
・同じ物語がマタイ福音書にもありますが、マタイではイエスの「私だ」という言葉に呼応して、ペテロが水の上を歩き出す場面が加えられています。「ペトロが答えた『主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください』。イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった」マタイ14:28-32)。不思議な物語です。

2.この物語は何を意味するのだろうか

・多くの聖書学者たちは、この記事は復活後のイエスとの出会いを描いたものではないかと考えます。福音書の記事はイエスの弟子たちが見たり聞いたりした事柄を語り、それが口伝として伝えられ、やがて言行録のような形にまとめられ、それを福音書記者たちが編集したものです。元々は復活のイエスとの出会いの体験が書き伝えられる課程で、イエスの地上の働きとして伝承されていったのではないかと見られています。この物語が、復活のイエスとの出会いであれば、闇の中を歩いてこられるイエスを見て、幽霊だと思っても不思議はないでしょう。ルカ福音書には、復活のイエスに出会った弟子たちが、イエスとわからず、幽霊と思ったという記事が残されています。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(ルカ24:3-37)。またヨハネ福音書でも復活のキリストと出会ったペテロたちが「その人がイエスだとはわからなかった」(ヨハネ21:4)と記します。
・復活体験は言葉では説明の出来ない出来事です。しかしイエスの十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが、やがてまた集められ、「イエスは死からよみがえられた。私たちはそれを見た。イエスこそ神の子であった」と宣教を始め、死を持って脅かされてもその信仰を捨てなかったことは歴史的事実です。復活のイエスとの出会いが彼らを変えたのです。その後、弟子たちの宣教により、ローマ帝国の各地に教会が立てられ、ローマにも教会が生まれました。マルコ福音書は紀元70年頃、そのローマで書かれたと言われています。マルコが福音書を書いた当時、教会は迫害の中にありました。ペテロとパウロという指導者を相次ぐ迫害の中で失い、今なおローマからの迫害に直面する教会は、まさに「逆風の中で」漕ぎ悩んでいました。困難に次ぐ困難で、教会という舟はまさに沈もうとしていました。彼らは勇気を無くし、主イエスは自分たちを見捨てられたのではないかとさえ思い始めていたかもしれません。そのマルコの教会に「嵐の中で漕ぎ悩む弟子たちを助けるためにイエスが来られた」という伝承が与えられました。マルコはその伝承を知り、「主イエスは私たちを捨てられたのではない、今、主イエスは共におられなくとも、私たちの苦難を知っていてくださる、そして夜中であっても、私たちを救うために来てくださる」。その信仰をマルコの教会は与えられ、それが物語化されていったのです。
・この物語はマルコの体験を通して私たちをも励まします。私たちたちもまた嵐の中で苦闘しているからです。私たちは苦闘しているのにイエスは共におられない。どこにも光が見えない。しかしイエスはすべてを知っておられ、私たちを救い出すために歩き出される。私たちには暗くて見えないが、救いは既に始まっている。見えない時には、救い主を幽霊と誤認しておびえますが、「私だ、恐れることはない」と言う声で、救いが始まった事を知ります。それでも私たちは、取り巻く現実を見て、怖くなって、水の中に沈み込みます。苦しみに押しつぶされてしまいそうになります。人が自分の事だけを、自分を取り巻く苦しさだけを考える時、その人は沈みます。しかし、私たちを助けるために来られた方を見つめ続ける時、私たちは水の上を歩くことが出来ます。仮に不信仰のために沈んでも、助けの手が来ます。ペテロはイエスから目をそらしましたが、イエスはペテロを見つめ続けておられました。ペテロの手はイエスに届きませんでしたが、イエスが手を伸ばして、捕らえて下さった。そのような信仰体験の記事として、この物語を読むとき、物語は躓きではなく、励ましの物語になっていきます。

3.たとえ嵐の中にあっても

・今日の招詞に詩篇107:25-28を選びました。次のような言葉です「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされたので、彼らは天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された」。嵐が起きると、舟に乗っている人は、「上に、下に」大きく揺さぶられ、勇気はくじけ、酔った人のようによろめきます。嵐は怖い、船板一枚の下には未知の恐怖があります。人は海を怖れます。海は底なしのもの、恐ろしいものの象徴です。しかし、聖書は、嵐は「主が起こされる」と言います。「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされた」(107:25)。主によって起こされるとしたら、主に訴えれば、嵐は取り去られます。だから、詩篇の作者は訴えます「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された」。
・人生は海を航海するのに似ています。平穏な時には、私たちは自分の能力、可能性、築き上げた生活の基盤を信じて生きていくことが出来ます。自分の力で生きていると考えます。しかし、嵐になると、私たちはあわて惑います。嵐の中では人間は無力だからです。私たちには嵐の中で翻弄され、舟を漕ぎ悩んでいる友がいます。ある人は制癌剤の副作用で体調を崩され、別の人はいつまで生きることができるのかと苦悩の中にあります。心の病に苦しめられている人も、事業が破綻に瀕している人もいます。その時、これまで磐石だと思っていたものが何の役にも立たない事を知ります。全てが虚しくなり、生きていてもしようがないと思うこともあります。私たちは苦しみ、もだえます。そのもだえの中で私たちは叫びます「主よ、助けてください」。その叫びに答えて主は行動される。その助けは今ではないかもしれません。しかし必ず来ます。それを信じて待ち続ける力をこのマルコの記事は私たちに与えます。マルコの教会は迫害の中で生き残り、指導者ペテロの殉教の跡地にはやがて聖ペテロ教会が建てられました。現在のサン・ピエトロ寺院、バチカンです。マルコの祈りは聞き届けられたのです。
・アウグスチヌスは言いました「私には出来ませんが、あなたによって出来ます」。嵐の中で私たちの信仰は揺さぶられます。極度の困難の中で「神はおられるのか」、「おられるのならば何故救ってくださらないのだ」と叫ぶこともありましょう。聖書が教えることは、嵐の只中において、私たちは神と出会うということです。私たちは平安の中ではなく、困窮の中で救い主と出会うのです。何故なら、平安の時には神を求めないからです。私たちは泣くことを通して、私たちを造られた神が憐れみの方であり、私たちに呪いではなく、祝福を与えようとしておられる事を知ります。嵐は祝福の第一歩です。
・嵐の中を一人で歩くことは恐怖です。しかし、二人であれば、それほど怖くない。しかも、同伴される方が、この嵐を取り去る力をお持ちであれば、何も怖くない。キリストを心に受入れた人にも嵐が、苦難が迫ります。不安になり、動揺し、おじまどう事もあります。現在、そのような苦しみの中にある方もおられます。しかし、私たちは「主よ、助けてください」と叫ぶことが出来、その声に応えて、助け主は来て下さいます。現在、どのような苦難があろうとも、その苦しみはやがて喜びに変わります。詩編は涙の中で歌われました「 涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(詩編126:5-6)。私たちは一人ではない。イエスが共に歩いて下さる。この信仰こそ何者にも代えがたい、マルコはそれを見つけ、証ししているのです。

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