1.徴税人と食事するイエスを批判する人々
・マルコ福音書を読んでいます。イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)とその宣教の業を始められました。イエスが伝えたのは福音、すなわち「父なる神はあなた方を救うために私を遣わされた」という喜びの訪れです。しかし当時の宗教指導者、パリサイ派や律法学者たちは、裁きを伝えました「神の定めた律法を守らない者は裁かれる。だから律法を守りなさい」と。福音を伝えるイエスは律法を強調するパリサイ派の人々と衝突されます。それが今日読みますマルコ2章13節からの記事です。
・イエスはガリラヤ湖畔、カペナウムの収税所にいたレビに「私に従いなさい」と招かれます(2:14)。レビは徴税人です。徴税人は支配者ローマのために税金を集める仕事をしていました。彼らは不浄な異邦人の手先として働く者であるゆえに汚れた者とされ、またしばしば不正の徴収を行なっていたため、人々から憎まれていました。イエスはその徴税人レビに、私の弟子となりなさいと招かれました。これは通常はありえないことです。ユダヤ教の教師は罪人とされた徴税人とは交際しない、ましてや弟子に招くことなどありえない。それなのにイエスはレビを招かれました。レビは招きに感動してイエスに従います。彼は徴税人であるために、社会から疎外され、差別されていました。その彼に評判の高いラビが声をかけ、弟子として招いてくれました。レビはその感謝の気持ちを示したいと願い、イエスと弟子たちのために食事会を催しました。
・席上にはレビの同僚である徴税人も招かれ、また「罪人」と言われる人々もそこにいました。ここで言う罪人とは犯罪者ではなく、律法を厳格に守らない、あるいは守れない人々、宗教的な罪人です。字が読めず律法を守らない人々は罪人と断罪され、食肉業や皮なめし職人、動物を飼う羊飼い等は不浄、汚れた者とされていました。また婦人病やらい病を患う人々も汚れているとされ、交わりから除外されていました。パリサイ派の人々にとって罪人と交わることは自身が汚れることであり、同じ食事の席につくことは考えられませんでした。だから彼等はつぶやきます「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(2:16)。パリサイ=分離する者、律法を厳守し、自らの清さを守るために汚れた者から分離する故にそう呼ばれ、自らは「敬虔な者たち」と自称していました。
・その彼らにイエスは言われました「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」、当たり前の言葉と思われますが、文脈を考慮すれば、かなり辛辣な言葉です。「病人」とはイエスの周りに来た徴税人や罪人を指し、「丈夫な人たち」とはそのイエスの交友を批判した律法学者たちを指します。それに続く言葉はもっと辛辣です「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。イエスは「神の国に招かれるのはあなた方ではなく、あなた方が批判するこの人たちだ」と言われているのです。この言葉は罪人として排斥されていた人々にはまさに福音であると同時に、自分を正しいとする人々への厳しい批判の言葉になっています。
2.自分は正しいとする人はそうでない人を排斥する
・イエスは「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。このことの意味をもう少し考えてみます。自らを正しいとする人は律法を守らない、あるいは守れない人を排斥することによって、自分の正しさを維持しようとします。例えば現代のクリスチャンのある人々は「クリスチャンたる者は禁酒禁煙であるべきだ」と考えます。酒の害、煙草の害を考えると、自分の体を損なうお酒や煙草は控えるべきだという彼等の主張にも一理はあります。しかし自分が禁酒禁煙の人は他の人々がお酒を飲み、煙草を吸うことに耐えらず、何時の間にか禁酒禁煙が信仰の中心、律法になってしまいます。日本にキリスト教を伝えた宣教師の多くは禁酒禁煙のアメリカの伝統の中で育って来ました。だから彼らは言います「あなたは酒を飲み、煙草を吸う。それでもクリスチャンですか」。これは「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのですか」とイエスに詰め寄ったパリサイ人と同じです。イエスはカナの婚礼で水をぶどう酒に変えて「飲んで楽しみなさい」と言われました(ヨハネ2:11)。またレビたちの会食の場でもぶどう酒が振舞われ、イエスもそれを飲んで楽しまれたと思われます。それなのにイエスに従おうとする人々が「お酒を飲む人々は地獄に堕ちます」と主張するのはおかしい、しかしそれをおかしいと思わないのが律法主義の怖さです。
・その怖さは安息日規定にも現れます。安息日規定は出エジプト記から来ています。エジプトの地において、イスラエルの人々は奴隷とされ、休みなく働かされていました。そのイスラエル人が神の恵みによりエジプトから解放され、安息日が恵みの日として与えられました。出エジプト記は記します「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(20:8−10)。注目すべきは、安息の時、休息の時を、あなただけでなく息子や娘や奴隷や家畜にも与えよと書いてあることです。安息日は仕事を休む日、喜びと楽しみの日、恵みの日でした。しかし、律法が与えられて暫くしますと、安息日は「命は賭けても守るべき」掟とされ、守らない者は死刑とする規定が登場してきます(出エジプト記31:14)。イエスが否定されたのは律法そのものではありません。恵みとして与えられた律法が、いつのまにか「守らない者は裁かれる」と変えられてしまう、その人間の罪をイエスは指摘されたのです。
3.律法ではなく福音を
・今日の招詞としてルカ18:14を選びました。次のような言葉です「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。ルカ18章9節から「パリサイ派の人と徴税人の例え」が始まります。イエスが「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して語られた例えです(18:9)。イエスは語られます「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」(18:10)。パリサイ人は祈りました「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(18:11)。何と傲慢な祈りと私たちは思いますが、当時のパリサイ人にとっては当たり前の祈りでした。ラビ・ユダはこのように祈ったそうです「主は讃えられよ、彼は私を異教徒に造られなかった、すべての異教徒は神の前に無であるから。主は讃えられよ、彼は私を女に造られなかった、女は律法を満たす義務をもたないから。主は讃えられよ、彼は私を無教養な者に造られなかった、無教養な者は罪を避ける用心をしないから」。自分を正しいとする者は正しくない人を必要とします。ラビ・ユダにはそれが異邦人や女性や文字が読めない人でした。例えのパリサイ人が徴税人を引き合いにして祈ったことはおかしくはないのです。
・他方徴税人は目を天に上げることもせず、胸を打ちながら、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈ります(18:13)。彼は自分の中に正しさを見いだせず、罪を認めています。罪から救われたいと願っていますが、彼にはそうする力はありません。徴税人を辞めることも出来ません。辞めれば生活が出来ないからです。その徴税人をイエスは評価されます。イエスは「義とされて家に帰ったのはこの人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」と言われます(18:14)。当時の常識からすれば、救われるべきは義人パリサイ人であり、罪人の徴税人はではありません。しかし、イエスは救われるのは罪人の方であり、義人の方ではない、驚くべきことをイエスはここに言われています。これが福音です。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人」なのです。
・レビによって代表される徴税人や罪人たちは自分自身を正しいとは露ほども考えていませんでした。自分自身の罪を知りながら、しかし自分の力ではどうにもできず、苦しんでいました。イエスはそれゆえにレビを弟子に招かれたのです。この事について、ある牧師は次のように述べます「イエスがレビを弟子として召されたのは、レビが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただレビが医者を必要としていた病人であったからである・・・レビは自分が医者を必要としている病人だなどと思ってもいなかった。主イエスが必要だと思ってもいなかった。しかし主イエスはそう思われた。だからレビをお召しになった」(吉村和雄、説教黙想アレテイア、NO59,2008年、p57)。この招きによってレビの人生は変えられていきます。
・レビは、イエスがレビに心を開き、彼に使命をお与えになったことを通して救われて行きました。この様な行動であれば、私たちも出来るのではないでしょうか。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(2:17)。今日の礼拝に来ているみなさんは、ある意味で「丈夫な人」であり、礼拝から心の糧をいただいて生かされています。皆さんには医者はいりません。しかし医者を必要とする人がいます。「心身の病のために長く礼拝を休んでいる人々」を私たちは知っています。「心にわだかまりを抱え、礼拝に来ることのできなくなった人々」の顔を私たちは思い浮かべます。「礼拝に来る必要を認めなくなった人々」が私たちの周りにもおられます。その人々こそ、意識する、しないにかかわらず、手当を待っている人々です。彼らこそ私たちのレビです。そして私たちがレビを訪問し、電話をかけ、週報を届ける行為を行えば、マルコ2章の物語が、今ここに再現されるのです。
・パリサイ人は徴税人や罪人と交わるイエスを許せませんでした。この不寛容がイエスを十字架にかけました。その十字架を仰ぐ私たちはもうパリサイ人と同じ過ちを犯してはいけません。私たちは徴税人レビのように社会から後ろ指を指されることはありません。宴会に集った罪人たちのように社会から疎外されているわけではありません。もしかしたら私たち自分を、「社会人として、家族人として、やましいところはない」と考えているのかもしれません。しかしその時、私たちもまたパリサイ人の罠に陥り、救いを求めて教会に来た人々を排除しているのかもしれません。「イエスがレビを弟子として召されたのは、レビが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただレビが医者を必要としていた病人であったからである」、レビはイエスを必要としていた、だからイエスはレビを招いて下さった。私たちもイエスを必要としていた、だからイエスは私たちを招いて下さった。その招きに答えて、私たちもまたイエスに従う行動が求められていることを覚えたいと思います。