江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年3月4日説教(使徒言行録3:1-10,私の持っているものをあげよう)

投稿日:2012年3月4日 更新日:

1.足の不自由な男のいやし

・イエスは受難週の日曜日に、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。「馬ではなく、ろばに乗って、エルサレムに入る」、そこにイエスの決意がありました。武力でイスラエルを解放する「栄光のメシア」ではなく、人々の罪の重荷を背負う「柔和なメシア」として私は来たのだとイエスは人々に語られたのです。しかし人々はそのようなイエスに失望し、十字架にかけて殺しました。金曜日のことです。イエスに従ってきた弟子たちはみな逃げ出しました。しかし父なる神はこのイエスを死から甦らせ、復活のイエスに出会った弟子たちは再び集められ、ここに教会が誕生しました。その教会の歩みを記したのが使徒言行録です。使徒言行録はルカ福音書の続編として書かれた書で、今月から私たちはルカ福音書の学びを終え、この使徒言行録を読んでいきます。
・弟子たちはイエスが十字架で死なれた時には逃げ出しましたが、復活のイエスとの出会いが彼らを変えました。かつては自分の命を惜しんで逃げ隠れする存在でしたが、やがては「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜ぶ」(5:41)存在へと変えられていきます。その過程を描くのが、使徒言行録の記事です。今日は3章を中心に学んでいきます。ルカは記します「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日、美しい門という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」(3:1-2)。ペテロとヨハネが午後の祈りのために神殿に行きますと、足の不自由な人が物乞いをしていました。「運ばれて来た」、人々の往来が盛んになる午後の祈りの時に神殿に連れてこられ、物乞いして生計を立てていたのでしょう。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞います。
・ペトロとヨハネは「彼をじっと見て、『私たちを見なさい』と言った」(3:4)。ペテロたちがこの男を無視して通り過ぎるか、あるいは小銭を恵んで行き過ぎたら、両者の出会いはなかったでしょう。以前のペテロであれば無関心に通り過ぎていたでしょうが、復活のイエスから新しい命をいただいた今は違います。この足の悪い人は毎日神殿の門の所に運ばれてきて荷物にように投げ出され、夕方に誰かが迎えにこない限り、そこから動くことも出来ない。彼は重い荷を背負っていました。ペテロとヨハネはイエスが他者の荷を担われたように、この足の不自由な人の重荷を担いたいと願い、「じっと見て」声をかけたのです。
・物乞いの男は期待して二人を見ました。何かもらえると思ったからです。しかしペテロは彼に思いがけないことを言います「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)。ペテロが手を取って彼を起こすと、歩けなかった男が歩き始めました。ルカはその様子を記します「(ペテロは)右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした」(3:7-8)。「イエス・キリストの名」が生まれつき足の悪い人を起こした、生き返らせたのです。男は想像もしなかったような良いものをいただきました。だから彼は「歩き回ったり躍ったりして神を賛美した」。
・周りにいた人々は、「それが神殿の美しい門のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」(3:10)。ペテロは人々に何故驚くのかと言います「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか・・・あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(3:12,16)。癒したのは私たちではなく、イエス・キリストなのだとペテロは証しています。教会とはイエスの業を継承し、天上に今もおられるイエスの存在と働きを、この地上で為していく共同体なのです。

2.私たちにも持っているものがあるのでは

・使徒言行録2章に初代教会の働きが書いてありますが、それによれば彼らは「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」とあります(2:42-43)。初代教会は宣教し、施し、癒しました。そのことを通して多くの人が教会に加わっていくようになります。現代の教会はこの初代教会の持っていた力を失ってしまいました。今日では癒しは医者の仕事であり、施しは社会福祉事務所が担当し、教会は言葉だけの存在になりました。だから今日の教会は力を失っています。しかし、困難の中にある他者の手助けをすることは今でも重要な教会の業であるはずです。ヤコブは言います「兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう・・・行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:15-17)。福音の宣教とは具体的な行為、施し、癒しが伴う行為なのです。
・私たちは言い訳をします「イエスは神の子だから奇跡を起こして人を癒せた。ペテロも復活のイエスに出会って力をいただいたから癒しができたのだろう。しかし、私たちは何も持っていないし、何も出来ない」。でもそうでしょうか。私たちにも出来ることがあるのではないでしょうか。数週間前に学びました靴屋のマルチンは何をしたのでしょうか。マルチンは妻や子供に先立たれ、辛い出来事の中で生きる希望も失いかけていました。ある日の夜、夢の中に現れたキリストが「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧」と言われます。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめました。すると、寒そうに雪かきをしているおじいさんがいて、マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまり、マルチンは出て行って親子を家に迎え、ショールをあげました。まだかまだかとキリストを待っていると、一人の少年がリンゴを盗んでいくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをします。一日が終りましたが、マルチンが期待していたキリストは現れませんでした。がっかりしているマルチンに、キリストが現れて言います「マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。
・「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。マルチンは大勢の人を癒すことができたのではないでしょうか。そしてこのマルチンがしたようなことは私たちにも出来る事ではないでしょうか。「福音は人格を通して、また言葉と行いを通して伝えられる」、それを使徒3章は私たちに語っているのではないでしょうか。言葉だけでは不十分なのです。

3.私たちは土の器であってもその中に宝を持っている

・ペテロは足の悪い男に言いました「私たちを見なさい」。伝道とは求めてきた人々に「私を見なさい」ということから始まります。そして見て下さった方に、「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう」と行動する時、伝道の第二段階が始まります。私たちも持っているものがあります。私たちは素晴らしい宝物を神から預っています。それはキリストに出会って変えられた私たちの生き方です。キリストに出会って私たちは、「主にある平安」を与えられました。私たちは挫折しても気落ちしません。この挫折が私たちの進路を再検討するために与えられたと考えるからです。私たちはお金が足りなくても慌てません。「必要なものは主が与えて下さる」と信じているからです。現実がうまくいかない時、私たちは状況が変わる日が来ることを待ち望みます。「明けない夜はない」ことを知っているからです。この「主にある平安」こそ、私たちが与えられた宝、信仰の力です。
・この信仰の力、キリストに出会って変えられた生き方が、なお弱さと罪を持つ私たちに与えられたことから、伝道の弱さが生じています。しかし、その弱さもまた力になります。今日の招詞として第二コリント4:7を選びました。次のような言葉です「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。
・イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)とその宣教の業を始められました。イエスの業を継承した弟子たちは「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちは、このことの証人です」(3:15)と証し、「ほかのだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4:12)と宣教しました。その言葉は多くの人に伝わり、悔い改めが起こり、バプテスマ者が与えられて行きました。キリストの名によって命じれば歩けない男が歩けるようになり、キリストの名によって祈れば、そこに救いが生じます。私たちには金銀はありませんが、私たちはイエス・キリストの名によって洗礼を受けました。イエス・キリストに出会った故の信仰が与えられているのです。
・私たちは土の器であっても、私たちに与えられている福音は、「並外れて偉大な力」であり、それは「信じて受け入れる者を変容する力」であり、「人の思いを超える力」なのです。ザアカイの物語を思い起こして下さい。ザアカイはイエスの「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)の一言で心の病が癒されました。ザアカイは金持ちで社会的地位もありましたが徴税人であったため、人々から嫌われ、冷たい視線の中にさらされていた孤独な人でした。これまで徴税人の彼に声をかけたラビ(教師)はいませんでした。しかし、イエスはそうではありませんでした。人々からの批判を覚悟の上で、罪人とされていた人の家に客となります。イエスのこの解放的な態度、信頼の眼差しがザアカイを変えました。私たちもこのようなことであれば出来るのではないでしょうか。その時、私たちもイエスの業を継承する弟子になっていくのです。
・私たちはペテロのように、奇跡を行う力はありません。私たちが祈っても病気の人は治らないでしょうし、人々の困難が除かれることはないでしょう。しかし私たちは病気の中にも平安を見出すことはできるし、困難の中で待つことが出来ます。私たちは「どうにもならない現実の中でも希望を持ち続ける」ことのできる信仰を与えられているのです。そしてこの宝物を私たちは他者に差し出すことは出来る。その宝物は「信じて受け入れる者を変容する力」であり、「人の思いを超える力」なのです。「出来ることを行う勇気、出来ないことを断念する平静さ、何が出来るか出来ないかを識別する知恵」(ラインホルド・ニーバーの祈り)が私たちには与えられており、それこそが世の人々が癒す力を持つ私たちの宝物なのです。

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