江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年12月30日説教(マタイ3:13-17,バプテスマを受けたイエス)

投稿日:2012年12月30日 更新日:

1.バプテスマのヨハネの宣教

・クリスマスが終わり、今年最後の礼拝を迎えました。私たちは改めて、今年1年を振り返り、また新しい年を思います。今日は、来たるべき年がどのような年になるのか、どのような年になってほしいのかを考える時、出発の時です。この出発の時に当たり、イエスの出発点である洗礼の出来事を見ていきます。今日与えられたテキストはマタイ3:13-17です。
・物語は3章1節から始まりますので、そこからテキストを読んで行きます。「その頃、バプテスマのヨハネが現れて、ユダヤの荒野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」』」(3:1-3)。ヨハネは終末時の預言者として現れました。当時の人々は世の終わりは近いと感じていました。イスラエルはヘロデ王の死後、三人の子供たちが領土を争い、混乱の中で首都エルサレムを含むユダ地方はローマ直轄領とされ、異邦人であるローマ総督が治めていました。しかし、ローマ支配に反対する人々はたびたび反乱を起こし、世情は騒然としていました。その不安の中で、人々はこの乱れた世を救うメシアの到来を待ち望んでいました。
・「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(3:4)。当時、ユダの荒野にはエッセネ派と呼ばれる修道僧たちが住み、祈りと断食の生活をしていました。彼等は罪を清めるために毎日水に入りましたが、ヨハネは体をいくら洗っても人間に内在する罪は洗えないことを啓示され、人々に悔改めを促す預言者として立てられます。ヨハネは叫びます「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:10)。終末の裁きの時が近づいているとして、彼は人々に悔改めを迫ったのです。そのヨハネのもとへエルサレムから、そしてユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方からも、人々が集まり、罪を告白し、バプテスマを受けました(3:5-6)。
・人々はこのヨハネこそ世を救うメシアかも知れないと期待しましたが、ヨハネは「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私は、その履物をお脱がせする値打ちもない」と自分がメシアではないと言います(3:11)。イエスはヨハネが「世の終わりが来た」として宣教を始めたのを風の便りに聞かれ、「内心の声」に導かれて、故郷のガリラヤを出てユダに来られました。マタイ記します「そのとき、イエスがガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである」(3:13)。

2.イエスへのバプテスマを躊躇するヨハネ

・ところが、ヨハネは、イエスの洗礼を思いとどまらせようとして「私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか」(3:14)と言ったとマタイは伝えます。それに対してイエスは答えられます「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15)。通常、この箇所は「イエスは神の子であり,何も罪を犯していないのだから,悔い改めのバプテスマを受ける必要はない」と、ヨハネがイエスに洗礼を授けることをためらったと教会は理解してきました。しかし、これはあまりにも教理的な解釈だと思えます。イエスはあくまでも「人の子」として生まれ、「人の子」として育ち,「人の子」としてこの世の矛盾に怒りを感じられていたと思えます。このような解釈は少数派だと思いますが,イエスを「人の子」としてみることによって、大事な真理が浮き上がってくるような気がします。
・イエス当時の神殿は民の贖い(罪の救済)の役割を担っていたにも関わらず、金持ちや貴族だけに目を向け、贖罪の献げものをすることの出来ない貧しい人々の救済は放置していました。また律法学者やパリサイ人は律法を守れない貧しい人々を「罪人」と断罪して切り捨てていました。その結果人々は「飼い主のいない羊」(マルコ6:34)のような状況に放置されていました。神はこのような不条理を放置されない、彼らもまた神の愛する子たちだ、彼らのために何かをしなければ、その決心がイエスの受洗の動機にあるように思えます。イエスは受洗後、故郷には戻られませんでした。家族を棄て,故郷を棄てて、イエスは受洗されました。イエスの受洗は決定的な行為だったのです。イエスを「人の子」としたとき見えてくる真理が、イエスを「神の子」として教理的に説明することによって、真理が隠されてしまうのではないだろうかと思います。
・マタイは、イエスが洗礼を受けられた時、「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」と記します(3:16)。イエスの公の生涯は聖霊、神の霊を受けることから始まりました。その時、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者という声が、天から聞こえた」とマタイは記します(3:17)。この天からの声をイエスが聞かれたということは、イエスが神の子として召命されたことを示します。「あなたは私の愛する子」、父なる神が、ご自分とイエスとの間に父と子という深い愛の関係があることを明らかにして、イエスがこれから歩もうとしている道を支えて下さるとの宣告です。「私の心に適う者」、神の御心を行う者としてイエスが立てられたことを示します。イエスはこの洗礼を通して、神の子としての使命が自分に与えられていることを自覚されたのです。
・イエスは洗礼を受けられた後も、ヨハネの弟子として荒野に留まっておられました。その後、ヨハネはガリラヤの領主であったヘロデ・アンテイパスを批判したため、捕えられ、死海の近くにあるマケロスの要塞に幽閉されます。イエスがヨハネ共同体から独立して宣教を始められたのは、その後です。マタイは記します「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた・・・そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた』」(4:12-17)。マタイは「神の国」の代わりに「天の国」という言葉を用いますが、意味は同じです。神が直接支配される新しい世が来ると宣言されました。
・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届きます。ヨハネの使信は「審きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされるだろう」というものでした。「良い行いをしない者は集められて火に燃やされる」というのがヨハネの考える審判であり、メシアとはその裁き主でした。しかし、聞こえてくるイエスの行為は罪人の裁きではなく、罪人の赦しでした。ここにおいてヨハネはイエスが本当にメシアかどうか疑問を感じ、イエスに使いを送ります。その使いにイエスは答えられます「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである」(11:4-6)。ヨハネは預言者でした。預言者は人々の罪を告発し、悔改めを促し、神に相応しく生きることを求めます。しかし、このような道徳的行為では人は救われません。何故ならば、人間の罪は、自己を救うにはあまりにも重いからです。

3.新生のためのバプテスマ

・今日の招詞にローマ6:3-4を選びました。次のような言葉です「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」。ヨハネのバプテスマはユダヤ人の悔い改めのために始められました。ユダヤ人は神に選ばれたしるしとして割礼を受けています。しかし、割礼だけでは不十分です。何故ならば人の罪は割礼を受ければ赦される限度を超えているからです。
・パウロは言います「正しい者はいない。一人もいない・・・彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある」(ローマ3:10-16)。私たちはこのパウロの言葉を聞くとき、自分はそんなに罪人ではないと思うかも知れません。しかし、冷静に自分を含めた人間存在を見つめた時、このパウロの言葉が誇張ではないことを知ります。私たちは自分以外のものは愛せないし、自分より幸福な人を妬み、自分を嫌う人を憎みます。「(私たちの)のどは開いた墓であり、(私たち)は舌で人を欺き、(私たち)の唇にはまむしの毒があり、(私たち)の口はのろいと苦い言葉とで満ちている」のです。これが私たちの本性、私たちの罪の姿です。私たちは自分の力ではこの罪の縄目から解放され、神にふさわしい者としての人生を歩めない存在なのです。だから私たちは洗礼を受け、イエスが十字架で死なれたように古い自分に死に、イエスが復活されたように水から引き上げられて新しい命を生きるのです。パウロはいいます「死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(ローマ6:7-8)。
・「キリストと共に死に,キリスト共に生きる」とはどのような人生でしょうか。マザー・テレサはイエスを模範とした生き方を私たちに示します「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。気にすることなく、作り続けなさい。助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい。たとえそれが十分でなくても、気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい。最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」(マザー・テレサ「あなたの中の最良のものを」から)。神と人との間が正されることによって、人と人との間に「愛と和解」が生まれます。それこそがイエスの示された道です。その道を歩む決意を年の終わりにすることが出来れば,新しい年は恵みに満ちた年になるのではないでしょうか。

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