1.見失ったものを見つけ出した者の喜び
・今日はルカ15章にあります三つの例えについて考えます。聖書教育では「見つかったら一緒に大喜び」として、イエスの例えを15:1-10までで区切り、見失った羊と無くした銀貨の例えの二つに絞っています。しかし、次の放蕩息子の例えまで加えて、「羊と銀貨と放蕩息子の例え」にまとめることで、例えの意味がより深く伝わると考えられます。三つの例えを貫き、共通しているのは「見失ったものを見つけ出した者の喜び」です。イエスはこの例えを誰に話したのでしょうか。ルカは書き始めます「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(15:1-2)。イエスは自分の話を聞いて、これまでの生活を悔い改めた徴税人や罪人と一緒に食事をされました。それを見たファリサイ派や律法学者たちはイエスを非難したのです。食事を共にすることは互いの親密さを表すことであり、徴税人や罪人と共に食事をしたら当然仲間に見られます。彼らは「ラビ(教師)たる者が罪人たちと食卓を共にするなどもっての外である」とイエスを批判しているのです。
・その彼らにイエスは例えを話されました。イエスの時代、ユダはロ−マに支配されていました。ロ−マは支配圏の人々に課税し、ロ−マ属州だったユダも制度に組み込まれていました。税には直接税と間接税の二つがありましたが、直接税はロ−マの役人が直接取り立て、間接税は民間に下請けさせていました。その下請け制度に不正がはびこる隙間があったのです。税の種類は市場などの商店の営業税、橋や川を渡し船で渡る時などの通行税、住民税などがありました。どんな税制も回収段階が難しい。民衆からの取り立てには苦労したはずです。だから、取り易いところはロ−マの役人が直接取り立て、厄介なところは徴税人に丸投げで請け負わせたのです。
・丸投げだから、徴税人はロ−マとの間に取り決めた額だけ納めれば良く、それ以上は徴税人の収入になります。一般民衆の側から見れば、ロ−マの権威を笠に着て、時には阿漕なことをして、私腹を肥やす徴税人を嫌ったのは当然です。彼らは、ロ−マ人などの異教徒と接して汚れ、同朋のユダヤ人を苦しめる者でした。だから、嫌われ、軽蔑され、罪人とされました。ここの「罪人」というのは、律法に違反した者というのではなく、職業上律法を無視した汚れた生活をせざるをえない階層の人たちを指しており、徴税人や娼婦が代表しています。イエスを批判したファリサイ派の人々は、律法を学び、それを厳格に守ることで一般民衆との間に一線を引き、「自分たちは罪人ではない」と高言していたのです。ですから、仲間のラビ(教師)であるはずのイエスが徴税人らと食事を共にすることは赦し難いことでした。
2.「見失った羊」の例え
・その彼らに向けてイエスは例えを語られます。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい』と言うであろう」(15:4-6)。一昨年10月私がイスラエルを旅行した折、知りたいこと聞きたいことが幾つかありました。その一つが「今でもイスラエルに羊飼いはいるのか。羊飼いたちは羊が一匹迷い出ていなくなったら、九十九匹を野原に残して捜しに行くのか」などでした。ある日、この質問を現地のガイドにぶつけてみました。ガイドの答えは「今でもイスラエルに羊飼いはいます。しかし、羊飼いたちは、その中の一匹がいなくなったとしても、残りの九十九匹を残して捜しに行くようなことはしないでしょう。なぜなら、一匹の羊を捜すために九十九匹の羊を危険な目にあわすことはできません。羊は彼らの大切な財産なのです」。
・私ががっかりしたのを見たからか、ガイドの態度が急に変わり、にっこり微笑み、「ただし」と前置きして、「その一匹の羊が羊飼いに愛されていたとしたら、全く事情は変り違った話になります」と言い出しました。「もしその一匹が羊飼いに愛されている大切な羊だとしたら、その羊飼いは残りの九十九匹を仲間の羊飼いに預けておいて、その一匹を捜しに行き、見つかるまで捜すでしょう」。見失った羊の例えは羊飼いの愛を抜きにしては理解できません。損得だけで考えれば一匹のために、他の九十九匹を危険にさらすことはできません。しかし、ルカの描く羊飼いは違います。彼はすぐ羊を捜しに出かけ、見つけた羊を抱き上げ、肩に担いで帰り、隣近所の人々を呼び集め、「見失った羊を、見つけたので喜んでください。」と言うのです。その羊は羊飼いにとって大切な一匹の羊だったのです。イエスは例えの結論としてこう言われています「このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(15:7)。イエスはファリサイ派や律法学者たちに、徴税人や罪人が救われるのは、神にとって羊飼いが見失った羊を捜しあてたような喜びであるのに、なぜ一緒に喜ばないのかと語っているのです。
3.「無くした銀貨」の例え
・次の例えは「なくした銀貨の例え」です。「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」(15:8-9)。ドラクメ銀貨はギリシャの銀貨です。一ドラクメは一デナリオンに等しい価値があり、一デナリオンは労働者の一日の賃金でした。そのドラクメ銀貨十枚をセットにし、結婚祝いとして女性に贈る習慣がありました。贈られた女性は、この銀貨十枚を紐でつなぎ、ネックレスにして肌身離さず身に着けます。それは身を飾るだけでなく、病気などの不時の出費に備える貯蓄の意味もありました。
・この十枚セットの銀貨の一枚を女性は紛失しました。彼女は懸命に捜しました。当時のユダヤの家は暑さを防ぐために窓を小さくしてあったので、昼間でも室内は暗く、そのうえ床には藁が敷いてありました。藁敷きの床に、銀貨のように小さいものが紛れこむと、捜し出すのは困難でした。彼女は銀貨一枚のために、普段は使わない高価な油でともし火をつけ、床を隅々まで掃き出しました。努力のかいがあって、女性は銀貨を見つけました。そのときの彼女の喜びをルカは伝えています。「友達や近所の女たちを呼び集めて『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」。ルカは失った銀貨を見つけた婦人が「一緒に喜んでください」と喜ぶさまを強調しています。イエスは例えを「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(15:10)と締めくくります。先の羊の例えと同じように、「見失ったものが見出された喜び」がここにあります。
4.私たちはこの物語をどう聞くのか
・今日の招詞にルカ15:32を選びました。次のような言葉です。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。最初に「見失った羊と無くした銀貨の例えは次の放蕩息子の例えまで加えて、三つにまとめることで、例えの意味がより深く伝わる」と申しました。ですから、第三の例えの「放蕩息子」の物語にも踏み込んでみます。物語は「ある人に二人の息子がいた」という言葉で始まります。弟息子は堅苦しい父と兄との生活にうんざりして家を出て行く決意を固め、財産の分け前を要求し、遠い国に旅立ちます。彼はお金を湯水のごとくに浪費し、使い果たします。その時飢饉が起こり、彼は食べるものに困り、ユダヤ人にとって不浄な豚を飼う者になり、終には豚のえさでさえ食べたいほど飢えに苦しみます。落ちるところまで落ちた時、弟息子は我に返り、父のところに帰ろう」と決意します。父親は息子の身を案じ、帰って来るのを待っていました。その息子が帰って来ます。息子は謝罪の言葉を口にし始めますが、父親はさえぎって使用人に命じます「いちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」。父親は放蕩息子の帰還を無条件で喜び迎えます。何故ならば「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったから」(15:24)です。
・物語後半の主役は兄息子です。兄は弟が家を出た後も父の元に残り、仕事を手伝っていました。その日彼は畑から帰り、騒ぎを聞いて、弟が帰ってきたことを知りましたが、父親が弟を歓待することを許せず、家に入ろうとしません。父親が兄の所へ来た時、兄の不満が爆発します「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。兄は「弟は娼婦と一緒に父の財産を食いつぶした」と批判しますが、その批判を通じて、自分は我慢したのだと無意識に告白しています。彼は父親に忠誠を尽くしましたが、それは父を愛するためではなく、見返りとして財産をもらうためだったのです。ここにおいて、兄もまた「失われた人間」であることが明らかになります。その兄息子に父親が言うのが招詞の言葉です。
・見失った羊を見つけた羊飼いは「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい」と言いました。銀貨を見つけた女は「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言いました。失った子を見出した父親は「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言いました。ルカ15章を貫いているのは、見失ったもの、無くしたものを見つけた喜びです。悔い改めてイエスの話を聞きに来た徴税人や罪人は、イエスにとって、見失ったが見つけ出された羊であり、見失ったが見つけ出された銀貨、死んでいたのに生き返った息子だったのです。そして「見いだせなかったもの」は、自分が罪人であることに気づいていない、そして自分が罪人であることを認めようとしないファリサイ派や律法学者の人々でした。
・ファリサイ派や律法学者は、徴税人や罪人と比べれば、自分たちは正しく生きていると思いこんでいます。しかし、神の視点からから見れば、彼らこそ「迷いの中で滅びよう」としているのです。そのことに気づいていない彼らに向けて、三つの例えが語られています。私たちは自分をどちらの側に置くのでしょうか。自分が「迷った羊、失われた銀貨、失われた息子」だと思う人は、それを探してくれた神に感謝し、新しい人生を生きるでしょう。しかし、私たちが、「自分は人よりましだ、だから教会に属し、戒めを守っている」と思えば、私たちは「失われた存在になる」のです。
・私たちの社会は大戦後、民主主義を拠り所として、何事につけても多数決、一匹よりも九十九匹を大切にする社会となりました。政治もそれに従い、全ての人に機会を与え、幸福を追求する自由を保障することを目標としています。ただし、それは建前です。全ての人に成功の機会があるということは、逆に全ての人に坐折という厳しい現実があることも意味します。そして、いつの間にか、成功者を称え、挫折者を見捨て、省みない社会となりました。その悪しき例は、この民主主義の社会から、三万人を越える自殺者を、毎年生じていることです。この社会の挫折者は、「迷える羊、失われた銀貨、失われた息子」にたとえられるのではないでしょうか。
・イエスは、神は「一匹の羊、一枚の銀貨、一人の息子」を見捨てず、見つかるまで捜し求められる方であり、見つけられた者は、見つけ出してくださった神に感謝し共に喜びを分かちあうと説いています。見つけられた者の、新しい生き方がそこから始まるのです。イエスは、悔い改めた「徴税人と罪人たち」を、「迷い出た羊、見失った銀貨、放蕩息子」に例え、彼らが悔い改めて帰るのを神は喜ばれるとファリサイ派や律法学者らに教えました。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:32)とイエスは言われました。教会はこのイエスの教えを使命としています。私たちの中で、自分は、その罪人であると認める人は救いにあずかることができ、認められない人は救いにあずかれないとしたら、私たちは自ら悔い改めなければならないのです。この三つの例えは私たちに重い問いかけをしているのです。