1.神は天地を創造された
・イースターを終えた私たちは、今日から創世記を読んでいきます。創世記1章は天地創造の記事であり、その1-3節は創造前の世界がどのようであったかを記しています「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。神が天地を創造される前には、「地は混沌であって闇が全地を覆っていた」とあります。世界は闇の中にあって、混沌としていた。そこに「光あれ」という神の言葉が響くと光が生まれ、混沌(カオス)が秩序あるもの(コスモス)に変わっていったと創世記の著者は語ります。
・この「混沌」と言う言葉、ヘブル語「トーフー・ワ・ボーフー」という言葉は聖書に三箇所出てきます。創世記1:2以外では、イザヤ34:11とエレミヤ4:23です。文献学的研究によれば、創世記1章は紀元前6世紀に書かれた祭司資料からなるといわれています。イスラエルはバビロン王ネブカデネザルによって数度にわたって征服され,首都エルサレムは壊滅し、王族を始めとする主要な民は、捕虜として敵地バビロンに連れて行かれました。有名なバビロン捕囚です。この捕囚地での新年祭にバビロンの創造神話が演じられ、イスラエル人は屈辱の中でそれを見ました。何故神は、選ばれた民である私たちイスラエルを滅ぼされ、敵地バビロンに流されたのか。捕囚期の預言者エレミヤは歌いました「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」(エレミヤ4:23)。この「混沌」が「トーフー・ワ・ボーフー」という言葉です。「自分たちは滅ぼされた、神に捨てられた」、絶望の闇がイスラエル民族を覆っていた。しかし、神が光あれといわれると光が生じ、闇が裂かれた。ここにイスラエル人の信仰告白があります。現実の世界がどのように闇に覆われ、絶望的に見えようと、神はそこに光を造り、闇を克服して下さる方だとの信仰告白です。「主よ、あなたは私たちに再び光を見せて下さるのですか。私たちを赦して下さるのですか」。そのような祈りが創世記1章の言葉の中に込められています
・創造の業は続きます。二日目には大空=宇宙が造られ、天と地が分かたれました。三日目には地球が造られ、海と陸が分けられ、生物が生きる環境が整えられていきます。そして植物が造られ、魚と鳥が造られました。そして最後の日、六日目に動物と人が創造されます。全ての創造の業が終えられた時、「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)。創造の業が「極めて良かった」という神の肯定の中で終えられています。この「良かった」、「良しとされた」という言葉が、創世記1章の中に7回も出てきます。何故、繰り返し「神は良しとされた」と言う言葉が用いられているのでしょうか。それは現在が「良しとは言えない」状況の中で、イスラエル民族が創造の「良し」という言葉を求めているからです。私たちは良きものとして神に創造された、しかし罪を犯したために今は「良し」とは言えない状況の中にある。神はこのような私たちを赦し、再び「良し」という中に戻して下さる、戻して下さいという信仰の告白がここにあるのです。「地は形なく空しかった。しかし、神の霊が水の面を覆っていた」、そして神はすべてを良しとして創造された。そのことの中に捕囚のイスラエルの民は希望を見出しているのです。
2.神は御自分にかたどって人を創造された
・創世記は1章26節から、人の創造を記します。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1:27)。ここに「創造された(バーラー)」という言葉が3回も用いられています。人こそが神の創造の目的だったのです。そして神は人を祝福して言われます「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(1:28)。すべての人々は神の祝福の中に生まれてきます。罪を犯したイスラエルもまた神の祝福の中にあり、親が望まない形で生まれてきた人もまた、神の祝福の中にあります。
・私たちがどのような状況にあっても、神は私たちの存在を肯定しておられる、創世記はそう述べます。すべての人は存在することにより、肯定されています。男も女も、大人も子供も、健常者も障害者もまた、神の肯定の中にあるのです。創世記は私たちに、例え現在が希望のない闇のように見えても、その闇は神の「光あれ」と言う言葉で分断されるということを伝えます。イスラエルの信仰は、神は人を「良し」として創造され、「生めよ、増えよ」と祝福された事を教えます。だから、私たちも希望を持つことが出来ます。
・神はご自分の形に私たちを創造されました。神の形とは人格を持つ存在として人が創造されたことを意味します。神が語りかけられ、それに応えうる存在として造られました。神と私たちの間には、「私とあなた」という人格関係が成立しているのです。植物や動物は「あなた」ではなく、「それ」、単なるものに過ぎません。その中で人間だけが創造主と「私とあなたの関係」に入ることが許されています。イスラエル人は捕囚の地で、人間以下の「それ」という奴隷の状態にありました。敗残者として卑しめられ、もののように扱われていた。その中で、神は自分たちを「あなた」と呼んで下さる。そのことの中に、現実の「それ」という関係が、やがて「あなた」という関係に変えられる望みを、イスラエルは見たのです。
・創世記1章は「この世界はどのようにしてできたのか」、「人間とはどういう存在か」を哲学的に思索してできた文章ではありません。それは捕囚の苦しみの中で生まれてきたものです。私たちが今生きているこの世界、この現実、そこには「混沌」があり、「闇」があり、救いようのない「絶望」があっても、私たちを創造された神は、そのような状態に私たちがいることを望んでおられないし、私たちが希望をもって立ち上がる日を待っておられる、そのような信仰のもとに書かれた、「励ましと慰めの書」なのです。
3.震災の悲劇の中で創世記を読む
・創世記1章が「励ましと慰め」の書であれば、それは現在の私たちの課題をも解決する力を持っています。今私たちにとって最も大きな課題は、今回の東北大震災の意味をどのように考えるか、そして瓦礫からの復興をどう推し進めるべきか、です。その問題を創世記1章から考えてみますが、手がかりとして、今日の招詞にエレミヤ4:23-27を選びました。次のような言葉です「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。私は見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。私は見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。私は見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に主の激しい怒りによって打ち倒されていた。まことに、主はこう言われる『大地はすべて荒れ果てる。しかし、私は滅ぼし尽くしはしない』」。創世記の創造物語は「地は混沌であった」から始まり、この混沌という言葉がエレミヤ4:23に使われていることを見てきました。その言葉を詳しく見たのが今日の招詞です。今回の東北大震災で私たちが見たのも「山は揺れ動き、すべての丘は震えていた」、そして「実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく打ち倒されていた」姿です。エレミヤの描く混沌は、神の怒りによるものです。人間の罪に対する神の怒りと審き、それによって地は混沌となり、形なく、虚しくなったと彼は言います。
・エレミヤを始めとする預言者たちは、このような滅亡の苦しみが自分たちを襲ったのは、この民が代々に亘って犯してきた罪への神の怒りと審きによるのだと語りました。エジプトで奴隷とされていたこの民を救い出し、約束の地カナンを与えて下さり、国を築くことを許し、守り導いてきて下さった主なる神を捨てて、他の神々に心を向け、それらを拝むようになった、そのイスラエルの民の裏切り、忘恩の罪が、このような悲惨な国の滅亡と捕囚をもたらしたと預言者は言いました。
・私たちも今、地震と津波を通して、大きな悲惨を経験しました。まさに「地の基が揺れ動く」体験をしました。しかし、その中で主は言われました「私は滅ぼし尽くしはしない」。バビロンに捕囚となった民は、エルサレムでの戦争で家も土地も失くし、家族からも切り離されて、数千kmも離れたバビロンの地に強制連行されました。当初彼らは早期に帰還できるのではないかと期待しましたが、彼らの希望は断たれ、国は滅亡し、彼らは帰る所も無くしてしまいました。まさに彼らは絶望の闇の中に閉じこめられたのです。その中で彼らはエレミヤから告げられた主の言葉「大地はすべて荒れ果てる。しかし、私は滅ぼし尽くしはしない」を聞きました。自分たちは何もかも無くしてしまった、しかしまだ生きている、生かされている。捕囚の民は「自分が今ここに生かされている」ことの中に希望を見出し、その希望が創世記1章を書かしめました。今回の震災で、多くの人々が、家族を失い、家を失い、職業を失って、どうして良いのかわからない、闇の中にいます。前途を悲観して自死した方も居ます。しかし一つ明らかなことは、「まだ生きている、生かされている」という事実です。バビロン捕囚民がそのことに気づいた時に、救済が始まったことは、今回の震災を考える上で大きな慰めです。
・今回の東北大震災も神の怒りと考えるべきなのでしょうか。天災の部分と人災の部分を区分して考える必要があるように思います。日本列島は地震と津波と台風のリスクにつねにさらされています。天災は私たちにとって不可避の運命です。だから、私たちは「天災にどう対処すればいいのか」を文化として知っており、そして、私たちはそこから立ち直ることができます。しかし、今回の大震災の問題点は原子力発電所の被災とそれに伴う放射能汚染を回避できなかった人災にある点です。イスラエルの国の滅亡と捕囚も人災でした。避けようと思えば避けられた。今回の原発事故において明らかになった点は、人間は自ら制御できないものを制御できると過信したのではないのかという点です。ティリッヒは「地の基震え動く」という説教の中で語っています「人間は地の基を震い動かす力を創造的な目的のために、進歩のために、平和と幸福のために用いることができると考えてきた。人間は何故神の創造の業を継承できないのか、何故神になってはいけないのかと問いかけてきた・・・そして人間はその力をワルシャワ、広島、ベルリンで用いてきた。その結果、何が起きたのか」。起きたのは「混沌」でした。
・この時、創世記の言葉が私たちを捕えます「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」(創世記1:26)。人間は神によって造られた被造物に過ぎませんが、同時に神の創造された自然を管理する存在として造られた、そのことの意味です。人間は被造物に過ぎないのに「何故神の創造の業を継承できないのか、何故神になってはいけないのかと問いかけてきた」、私たちが制御しえない「核物質」を制御できると考えたその傲慢さが、今回の原発事故につながっているような気がします。
・先に話しましたように、天地創造の物語は昔この世界はどうだったかということを語っているのではなく、私たちが今生きているこの世界、この現実、そこに何が起っており、これから何が起るのかという、極めて切実な問いを聖書は投げかけています。その問いに対して創世記1章の著者に与えられた答えが、「初めに、神は天地を創造された」という言葉だったのです。滅亡と捕囚の現実の中で、混乱と空虚の世界の中で、しかしそれは神が創造されたもの、神のご意思によって創られたものであり、この世界が存在し、私たちが生きているのは、神のみ心とみ力によるのだという信仰が1節の意味でした。そしてその世界の中に、「光あれ」という神の言葉が響くと光があった。闇に覆われた世界であっても、そこに希望と秩序が回復する、聖書は私たちにそう語りかけます。