江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年9月4日説教(出エジプト記12:21-27、主の過越)

投稿日:2011年9月4日 更新日:

1.モーセとファラオの争い

・聖書教育に基づいて出エジプト記を読んでいます。イスラエルはエジプトの地で奴隷とされ、強制労働に喘ぎ、神に救済を求めました。神は人々の苦しみの叫びを聞き、モーセをエジプトに派遣して民を救済されようとされます。しかし、モーセは召命を受けた時、繰り返し辞退しています「私は何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(3:11)。自分は肩書きも身分もないただの羊飼いに過ぎない、その私に世界の支配者であるエジプト王のもとに行き、王の奴隷を解放しろと言われるのか、とても無理です、とモーセは尻込みしました。そのモーセに神は「私は必ずあなたと共にいる」(3:12)と約束され、彼をエジプトに送り出されます。モーセはエジプトに行き、エジプト王にイスラエル人の解放を求めますが、王は拒否し、ここにエジプト王(ファラオ)とモーセの戦いが始まり、その戦いのクライマックスに「主の過越」があります。今日のテキストは出エジプト記12章「主の過越」の個所ですが、過越に至るまでの経緯を知る必要がありますので、5章から12章までを概観する形で学んでいきます。
・モーセはエジプト王に会い、イスラエル人をエジプトから去らせよと求めます。それが5章1節の記述です「モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った『イスラエルの神、主がこう言われました。私の民を去らせて、荒れ野で私のために祭りを行わせなさい』と」。しかしエジプト王は拒否します「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことを私が聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。私は主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」(5:2)。お前たちが主と呼ぶヤハウェの神はお前たちイスラエルの部族神に過ぎないではないか、どうしてエジプト人である私がイスラエルの神の要求に従う必要があるのかと反論したのです。
・エジプト王にとってイスラエル人は建設工事を担い、田畑を耕す重要な労働資源、財産でした。その財産を名前も聞いたことのない神のために放棄するわけがありません。エジプト王はモーセたちの要求を体制に対する反抗として、イスラエル人への労働強化を行います。エジプトに派遣されたモーセは、ファラオに要求を拒否され、そのことによって民の信頼も失い、神に苦情を言います。そのモーセに神は約束を繰り返されます「今や、あなたは、私がファラオにすることを見るであろう。私の強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる」(6:1)。こうしてモーセとファラオの戦いが始められます。それは誰がエジプトを支配しているのか、エジプト王なのか、主なる神なのかの戦いでもあります。

2.しるしを示される神

・「私の強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる」、そのためには長い時間と多くの出来事が必要でした。「主の強い手が働く」、神がモーセとアロンを通してエジプトに数々の災いを下されたことが、出エジプト記7-11章にかけて語られています。十の災いとして有名な個所です。最初になされた業はナイル川の水を血に変えることでした。これによって、すべての魚は死に、水は飲めなくなりました(7:20−22)。ナイル川は6月から7月にかけて水量が増して氾濫し、水の色が変わり、8月には赤みを帯び、夕日に反射すると血の色になると言われています。上流から流れてきた泥土が赤ナイルと呼ばれるほど川の色を変え、時には魚類の死を来たらせます。次の災いは蛙の大量出現でした。ナイル川の大氾濫が全土に蛙の卵を運び、9月頃に蛙が異常繁殖したのでしょう。
・しかし、ファラオは出来事の意味を理解せず、イスラエルを解放しようとはしなかったため、今度はぶよが地に満ちました。蛙の大量の死体が腐敗し、異常なぶよの発生を見たのです。エジプトの魔術師たちこれが神の業であることを認めますが、ファラオの心は変わらず、今度はあぶの害が及びます。この害はエジプト全土に及びましたが、ファラオはまだ神の業を認めようとしません。ここに来ると、争いはモーセとファラオではなく、神とファラオの争いであることが明らかにされます。誰がこの地を支配しているのか、王なのか、神なのか、王は自分が神の支配下にあることを認めるのかどうか、の争いです。
・数々のしるしにもかかわらず、ファラオは悔い改めず、第五の災いとして家畜の疫病が与えられます。ぶよやアブの大量発生が疫病をもたらしたのでしょう。今回も災害はイスラエルに及ばず、しるしが示されていたのにファラオは悔い改めませんでした。6番目の災いは腫れ物の災いでした。ナイル川の水が減ってくると衛生状態が悪化し、皮膚病が起こりやすいと言われます。ファラオはなおも悔い改めません。次に神は全地の家畜を雹で撃たれます。1月の雨季に雨ではなく雹が降った、異常気象です。しかしこの時も災いが去ると、ファラオの心はかたくなになります。ファラオに対して、第8のしるしとして、いなごの災いが下されます。いなごが大量発生すると地面が暗くなるほどになり、地上の植物は全て食いつくされるといいます。音をあげた家臣たちは民を去らせることを進言します。ファラオも譲歩しますが、「男だけ行けば良い」という制限をつけます。9番目に与えられた災いは闇の災いでした。東風がいなごを来たらせ、西風がいなごを吹き払いました。しかし砂漠から吹く西風は砂嵐をもたらし、3日の間、漆黒の闇がエジプトを覆いました。ファラオはまた譲歩しますが、今回も「家畜は残して行け」との制限つきであり、モーセはこれを拒否し、いよいよは最後の災い、過越を迎えます。
・これまでの繰り返し起こった災いを見た時、いずれの災いもエジプトの気候風土に関連したものであることがわかります。神は自然を通じてその御業を行われ、エジプト人はそれらを自然現象に過ぎないとして神の存在を否定し、イスラエル人はそこに自然現象を超えた神の御業を認めていき、それが出エジプト記7章から11章までの記述に現されています。それは私たちが今回の東北大震災をどのように受け止めるのかということとも関連してきます。東北大震災は地球を覆うプレートの変動によって生じた海溝型地震であり、それはおおよそ100年周期で発生する自然現象です。しかしその自然現象によって多くの方が亡くなられた、その時この自然現象は別の意味を持ってきます。多くの方の犠牲を通して、神は私たちにやがて起こる東海・東南海・南海地震(100年から150年周期で起きている、最後の発生は1854年)に備えよと語っておられると聞く時、それは「主の御業」となっていきます。ここに贖いの業としての災害の意味があるように思います。そして出エジプトにおいては贖いの業として「主の過越」が為されました。

3.主の過ぎ越しと私たち

・数々のしるしにもかかわらず、ファラオは悔い改めません。そのため最後の災いがファラオに臨みます。それはエジプト中の初子を全て滅ぼすというものでした。そのことが12章以下に語られています。主はまずイスラエル人にやがて来る災害に準備をするように命じられます「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」(12:21-23)。そして主の過越が始まります「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」(12:29-30)。
・何が起こったのでしょうか。詩編78編が解釈のヒントを与えます。「神は燃える怒りと憤りを、激しい怒りと苦しみを、災いの使いとして彼らの中に送られた。神は御怒りを現す道を備え、彼らの魂を死に渡して惜しまず、彼らの命を疫病に渡し、エジプトのすべての初子を、ハムの天幕において、力の最初の実りを打たれた」(詩編78:49-51)。「災いの使いとして疫病を彼らの中に送られた」、一夜にしてエジプトの子供たちが疫病に撃たれた、おそらくはペストが発生し、それが体力のない幼い子供たちの命を次々に奪っていったのでしょう。
・疫病がエジプト人を襲い、幼児が犠牲になりました。私たちはこの出来事に痛みを覚えます。しかし命は血で贖われなければならないということは厳然たる事実です。第二次大戦末期、ドイツの諸都市は空爆され、多くの子供たちの命が奪われました。ドイツの平和は彼らの犠牲によって贖われたのです。日本でも事情は同じです。日本の平和もまた空襲で、原爆で、戦闘で亡くなった多くの方の贖いの上に築かれています。「人の血を流す者は人によって自分の血を流される」(創世記9:6)。エジプトからの解放はエジプトの幼児の死を通して贖い取られたものです。そして、この出来事がなければエジプト王は民を解放しなかったでしょう。エジプト王はこの度はそこに自然を超えた神の御業を認め、神の前にひざまずき、民の解放を約束します。先に見ましたように、今回の東北大震災を贖いの業として見た時、震災の意味が変わってきます。この尊い犠牲をどのように生かすのかが私たちに問われるようになるのです。
・今日の招詞に第一コリント5:7-8を選びました。次のような言葉です「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」。パウロのパン種の例えの背景には、イスラエルがエジプトから解放された出エジプトを記念する「過越の祭り」があります。イスラエルの民がエジプトから脱出する時、種を入れないで焼いたパンを用意しました。私たちキリストの民も、キリストが「私たちの過越の子羊として屠られた」ことによって、罪の支配から解放され、約束の御国を目指す旅に出発しました。イスラエルがエジプトのパン種を除いて旅に出たように、私たちも古い時代の悪い習慣を完全に取り除いて、キリストと共なる歩みを進めるべきだとパウロは警告します。
・私たちはイエス・キリストの血の贖いを通して買い取られ、罪の支配から解放され、自由を与えられ、新しい神の民として歩み出しました。高価な犠牲が私たちのために支払われている、だから私たちは主イエス・キリストの十字架の死を過越の出来事として受け入れるのです。十字架により贖われ、復活により解放された、そのイースターこそ私たちの過越です。そして私たちは毎週小さな過越を祝います。それが主の日の礼拝です。主イエスは週の初めの日、日曜日に復活されました。そのことを記念して教会は日曜日を「主の日」と呼び、礼拝を持ちます。この主の日の礼拝におい て、イエス・キリストの贖いによって神が与えて下さった罪の赦しをいただき、解放され、約束の地に向けて、新しい一週間を生きるのです。

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