1.ヤコブとその子ヨセフ
・創世記を読み進めています。これまでにアブラハム、イサク、ヤコブの物語を読み終え、今日から族長4代目のヨセフ物語に入ります。このヨセフ物語は波乱に富む物語で、トーマス・マンは創世記のこの個所を「ヨセフと兄弟たち」という小説に書きました。今日読みます聖書箇所は創世記41章ですが、ヨセフ物語は37章から始まりますので、最初に37章以下から物語を概観して見ていきます。
・先週学びましたように、ヤコブはメソポタミヤでの苛酷な20年間を終えて、故郷カナンに戻ってきました。そのヤコブに最初に与えられたのは愛する妻ラケルの死です(35:16-18)。二人目の子ベニヤミンを生んだラケルはそのお産が原因で亡くなります。残されたヤコブはラケルから生まれた子たちを偏愛し、特にヨセフをかわいがりました。ヨセフには兄たちと違う特別の着物を着せ、羊飼いの仕事をさせないで手元に置いて、秘書の仕事をさせていました。父親の偏愛を受けたヨセフは次第に兄たちを見下すようになり、そのため、兄たちはヨセフを憎むようになります(37:4)。この憎しみがやがて兄たちに、ヨセフを殺そうとする気持ちを生ませます。
・ある時、父の使いで、ヨセフが兄たちの羊を飼う地まで来た時、兄たちはヨセフを殺してしまおうと謀りますが、最年長のルベンが殺すことに反対し、もう一人の兄ユダの提案で、ヨセフはエジプトに奴隷として売られることになります。兄たちは雄山羊の血をヨセフの着物に浸し、弟は獣に食われて死んだと父ヤコブに報告します。このヤコブはかつて父イサクを騙して兄エソウの長子権を騙し取った本人です。今、彼は子どもたちに最愛の子ヨセフが死んだと騙されます。創世記の著者は「騙した者は騙されなければいけない」という神の裁きをここに見ているようです(37:33-34)。
・さて、エジプトに連れていかれたヨセフは、ファラオの宮廷に務める侍従長ポテパルに奴隷として売られます。父親に大事にされて育ったヨセフが一転して、奴隷として苛酷な労働を課せられるようになります。しかし、ヨセフはそのことを一言も嘆きません。エジプトへの旅の間に、兄たちが自分を憎んで殺そうとしたのは自分の傲慢さのためであったことを知り、砕かれたのでしょう。試練が生意気盛りの少年を信仰の人に変えていったのです。創世記は記します「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」(39:2-5)。短い数節の間に、「主が共におられた」という言葉が繰り返し出てきます。失意のヨセフですが、「主が共におられた」ので、逆境の中でも彼は成功者になっていきます。
・しかしこの成功が思わぬ苦難を招きます。ヨセフは「顔も美しく体つきも優れていた」(39:6)人物でした。そのヨセフに主人の妻が惹かれ、言い寄ってきたのです。彼は拒絶しますが、体面を傷つけられた妻は言いがかりをつけて彼を告発し、ヨセフは投獄されることになります。監獄のヨセフはどのようであったのでしょうか。創世記は記します「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった」(39:21-22)。逆境の中にあっても不平を言うことなく、与えられた職務を誠実に為していくヨセフの態度がこの信用をもたらしたのです。
・そのヨセフのいる獄に、エジプト王の給仕役と料理役の二人が、王の怒りに触れて投獄されてきます。何日か経ち、二人は夢を見ます。ヨセフが二人の夢解きをしました。給仕役の夢は3日後に釈放されるという夢であり、料理役の夢は3日後に木にかけて処刑されるという夢でした。二人は夢の通りになり、給仕役は釈放されますが、ヨセフのことを忘れ、彼は牢獄に残されたままです。しかし、ヨセフは給仕役の忘恩を恨みません。全てが神の導きと知る人は、静かに事態の改善を待ちます。詩編105編はエジプトでのヨセフについて述べます「主は飢饉を地に招き、人のつえとするパンをことごとく砕かれた。また彼らの前に一人をつかわされた。すなわち売られて奴隷となったヨセフである。彼の足は足かせをもって痛められ、彼の首は鉄の首輪にはめられ、彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた」(詩編105:16-19)。
2.ファラオの夢解き
・それから2年が経ち、今日の聖書個所41章の物語が始まります。舞台はエジプト王の宮廷で、ヨセフはまだ牢獄の中にいます。ファラオは夢を二度見ました。第一の夢では7頭のやせた牛が肥えた7頭の牛を食い尽くし、第二の夢ではしおれた7つの穂が肥えた7つの穂を呑み込みました。古代の人々にとって夢は神からの啓示であり、王の夢は王国の将来を決める重要な出来事です。ファラオは心騒ぎ、国中の魔術師や賢者を呼び集めますが、誰もファラオを納得させる夢解きをする者はいません。その時、給仕役の長がかつて自分の夢解きをしてくれたヨセフのことを思い出し、ファラオに推薦することから、ヨセフの出番になりました。
・こうしてヨセフがエジプト王のもとに呼び出され、ヨセフは王の夢解きをします。ファラオは言います「私は夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」(41:15)。ヨセフは答えます「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」(41:16)。「神が働いて下さる」、ここにヨセフの信仰があります。その信仰をヨセフは異教徒のファラオの前に堂々と提示します。やがてヨセフはファラオの夢の意味を語って行きます「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のことです。七つのよく実った穂も七年のことです・・・その後から上がって来た七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉のことです・・・今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き・・・この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう。飢饉はそれほどひどいのです。ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです」(41:25-32)。
・ヨセフは単に夢解きをするだけでなく、その対応策も語ります「ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」(41:33-36)。ヨセフの夢解きとその対応策はファラオの心を動かします。彼は言います「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」(41:38)。ヨセフは大臣に登用され、ヨセフの政策が実行に移されるようになります。
・7年後、預言通り飢饉が起こりますが、準備のできていたエジプトは飢饉で困ることはなく、食糧の無くなった周辺諸国の民を養うようになり、ヤコブ一族も食糧を求めてエジプトに下ってきます。そして、そこにヨセフがいたことでエジプトに定住するようになります。一族を迎えたヨセフはかつて自分をエジプトに奴隷として売り渡した兄たちに語ります「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです・・・神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神が私をファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」(45:4-8)。「私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」、ここに神の摂理を信じる者の信仰が表明されています。
3.苦難の意味と苦難に耐える力
・今日の招詞にヘブル12:11-12を選びました。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。ヨセフは奴隷として売られた時も、無実の罪によって投獄された時も、給仕役を助けたのに彼が忘れて出獄の機会を失った時も、一言も怨みや不平を言わず、焦りもしませんでした。いつまで逆境が続くのか分からない状態の中でも、彼は「主が共にいて下さる」ことを信じ、与えられた境遇の中でなすべき最善を尽くしました。その生き方が彼の道を開いて行きました。
・ヨセフがエジプトに奴隷として売られた時は17歳でした。エジプトに遠く売られ、奴隷の身に落とされることによって、彼は初めて神を信じる者になりました。奴隷から執事に引き上げられた時、彼は平安を得たでしょう。しかし平安を得ることが人生の目的ではありません。一族を養うためにはエジプトで権力を得ることが必要であり、その第一歩が宮廷の牢獄への入獄でした。それは辛い人生の転機でした。しかし、無実の罪で投獄されなければ、王の給仕役と知りあうこともなく、王の前に出ることもなかった。そこに働く「くしき業を見よ」と創世記記者は語りかけます。普通の人はただ目に見える現実だけを見つめて嘆きます。しかし神の摂理を信じる者にとって、苦難こそが神の祝福の第一歩なのです。注解者V.リュティは言います「艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることへの反証ではない。むしろ、神が我々と共におられることの証拠です」(V.リュティ「ヤコブ」P223)。まさに「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」。
・神に委ねる生き方をする者は神の祝福を受けます。しかしこの祝福が必ずしも人生における「成功」を意味しないことに留意すべきです。ヨセフは信仰によってエジプトの宰相にまで登りましたが、それはやがて来る飢饉と一族受け入れの準備のためであり、成功そのものが祝福とみなされているのではありません。そもそも聖書において「人生の成功と失敗」はそんなに意味の有ることではありません。「この世の有様は過ぎ去る」(1コリント7:31)からです。成功者はその成功によって信仰を証しし、失敗者はその失敗によって信仰を明らかにすれば良いのです。主が共におられない人生はこの世的に成功してもそれだけの人生であり、墓石と共にその成功も終ります。私たちが求めるべきことはこの世の成功・不成功ではなく、人生の意味です。そして人生に意味を与えてくださる方は、生命の源であり、死を超えた存在であられる、「神お一人」です。
・最後にパウロの言葉を聞きましょう「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(1コリント13:12)。わからないこと、知らないことも主に委ねていく、そのような生き方に私たちは招かれています。