1.ベタニア村での出来事
・受難週を前に、マルコ福音書から御言葉を学んでいます。マルコでは14章から受難週の出来事が語られ、その最初にありますのが、一人の婦人がイエスに油を注いだという「ベタニアでの油注ぎ」の物語です。今日はその物語を通してイエスの受難の意味を学んでいきます。イエスは公生涯の大半をガリラヤで宣教され、エルサレムに入られたのは、十字架の1週間前です。最後の週の日曜日にイエスはエルサレムに入城され、昼は神殿で人々に教えられ、夜はエルサレム郊外のベタニア村で泊まられていました。この村にはラザロとその姉妹マルタ、マリアが住んでおり、イエスはこれまでに何度も訪れておられます。過ぎ越しの祭りの2日前、水曜日の夜、イエスはベタニア村のシモンの家で食卓についておられました。その時、一人の女性が香油を入れた石膏の壷を持ってその部屋に入り、壷を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけます。部屋の中は香油の香りで一杯になり、人々は唖然としました。香油は非常に高価なものだったため、人々は言いました「何故こんなに、無駄遣いをするのか」、それに対してイエスは言われます「この人は出来る限りのことをしてくれたのだ。私の体に油を注いで葬りの用意をしてくれたのだ」と。この出来事は「ナルドの壷」、あるいは「ベタニアでの油注ぎ」として有名で、賛美歌にもなっています(新生賛美歌652番)。四つの福音書全てにこの物語の記事がありますが、これは非常に珍しいことです。弟子たちにとってこの物語がいかに印象的であったかを示しています。
・物語が起こったのは水曜日の夜、イエスが捕えられる前の晩です。祭司長たちや律法学者たちはイエスを捕えて殺そうと計画を立てていました(14:1-2)。12弟子の一人、イスカリオテのユダはイエスを祭司長たちに引き渡す機会を狙っていました(14:10-11)。イエスは最後の時が近づいていることを感じておられたことでしょう。そのような時、一人の女性が夕食の席にナルドの香油を入れた壷を持ってきて、壷を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけます。ナルドの香油はヒマラヤに生えるナルドという植物から取られるもので、この香料をオリーブ油に混ぜて使います。通常は一滴、二滴をたらして香水として体に塗ったり、埋葬の時に遺体や着物に塗ったりします。価格は300デナリもしたということです。1デナリが労働者1日分の賃金ですから、今日のお金で数百万円の価値がある高価なものでした。その高価な香油を入れた石膏の壷を女性は壊し、イエスに注いだとあります。彼女は壷の蓋を開けて数滴をイエスに注ぐことも出来ました。蓋を開けて注げば数量は加減できます。それなのに女性は壷ごと壊してしまい、もう全部を注ぐしかない。見ていた人たちは女性の愚かさにあきれ、腹を立てて言います「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(14:4-5)。
・この女性は誰だったのでしょうか。ヨハネはこの女性は「ベタニアのマリア」だったと言います(ヨハネ12:3)。ルカはこの女性を「罪の女」と表現します(ルカ7:37)。マルコは女性の名前を記しません。「マグダラのマリアではないか」と考える人もいます。おそらくは以前にイエスに病をいやしてもらった女性が、イエスが今シモンの家におられる事を聞き、全財産をはたいてナルドの香油を求め、持参して献げたものと思われます。女性の行為は愚かです。しかし、彼女は自分の感謝の気持ちを表すために持っている全てを投げ出してイエスに献げたかった。だから損得抜きに香油を求め、後先を考えずに全てを注いだ。イエスはこの女性の気持ちを受け入れられました。「何故こんなに、無駄遣いをするのか」と女性をとがめる人々に対してイエスは言われます「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(14:6-8)。
・今、祭司長たちはイエスを殺す計画を立て、弟子の一人であるユダはイエスを裏切ろうとしています。ところが他の弟子たちはイエスの最後の時が近づいていることに気付きません。その中で、この女性は持っているもの全てを捨てて香油を求め、それを自分に注いでくれた。この香油は、メシヤ=油注がれた者としての自分の戴冠だとイエスは感じられたのでしょう。また、香油は死者の埋葬の時に体に塗られます。イエスは香油が自分の埋葬の準備として注がれたと感じられています。この女性のひたむきな行為が十字架を前にしたイエスを慰めました。だからイエスは言われます「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(14:9)。
2.二組の人々、二組の論理
・ここに二組の人々が登場します。一組目の人々は祭司長や律法学者やユダたちです。彼らが用いる言葉は、策略、捕える、殺す、騒ぐ、お金、売る、とがめる、困らせる等です。このグループは人間社会そのものです。人間社会における秩序は、力で捕え、金で売り買いをし、殺し、怒り、困らせることです。彼らは常に損得を計算しますから、後先を考えない女の行為に腹を立てます。彼らは地の国に属しています。他方、もう一組の人々がいます。イエスと香油を献げた女性です。彼らが使う言葉は、注ぎかける、無駄遣いをする、施す、良いこと、福音です。第二のグループは神の国に属します。神の国の秩序は無償で与え、向こう見ずに無駄遣いをします。愛は多すぎるとか、これで十分と言う計算をしません。愛は自分の全てを与えます。この女性は自分の全てを投げ打って香油を求め、その香油を全てイエスに注ぎかけました。部屋はナルドの香油の香ばしい匂いで満ちました。やがてイエスも十字架につかれますが、イエスに属さない人々はイエスに尋ねるでしょう「何故十字架で死なれるのか。あなたが十字架で死んで何が起きるのか。あなたがそれを愛だというならば、何故愛をそんなに無駄遣いするのか」と。しかし、イエスはあえて十字架につかれます。その十字架上でイエスの壷が壊され、キリストの香りが全世界に流れ出たのです。
・またこの出来事が「らい病人シモンの家」(14:3)で起こったことに注目する必要があります。らい病人は不浄とされ、健康人との交際を禁じられていました。しかしイエスはそのタブーを破ってあえてシモンの家に行かれ、さらにはそこで食事をされています。イエスは必要があれば世のタブーを破られ、その結果を自分で引き受けられた。このイエスの自由さこそが祭司たちが憎んだものです。彼らはイエスを、「罪人と交わる者」、「異端者」として排除し、十字架につけました。
・イエスは十字架で私たちの罪のために全てを献げられました。それは、持っているもの全てを献げたこのベタニアの女の行為と同じです。二組の人々がいます。一組の人々は損得を計算し、これくらいで十分だろうとしていやいやながら献げます。しかし、もう一組の人たちは、相手の苦しみを見て自分のはらわたがねじれるような痛みを感じ、持っているものすべてを差し出します。何故なら自分も苦しんでいる時に与えられたから、その感謝と喜びを示さずにはいられないのです。このひたむきな行為が信仰であり、その信仰によって行為する人々がいます。そのことこそが神の国が既に来ている証拠なのです。
3.聖なる浪費
・今日の招詞に、ヨハネ12:24-25を選びました。次のような言葉です「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。この言葉は、イエスが過越し祭りにエルサレムに入城された後に言われた言葉です。その週の木曜日にイエスは捕らえられ、金曜日には十字架で殺されます。イエスは最後の時が迫ったことを知られ、「私は一粒の麦として死ぬ」と言われました。自分が死ぬことを通してあなた方を生かすと言われたのです。命の救いに関わる真理は、命そのものを捧げることによってのみ、人の魂に届きます。自分が死ぬことを通してあなた方を生かす、人間的に見れば非常識の極みの行為です。しかし、イエスはそれを私たちの為になされました。
・イエスが安息日に人々をいやされたのも、非常識な行為です。イエスはベテスダで38年間寝たきりの人をいやされますが、その日が安息日であったため、パリサイ人と論争になります(ヨハネ5:10)。何故、その日でなければいけなかったのか、翌日でもかまわないではないか。しかしイエスはあえて安息日のその日にいやされた。盲人のいやしもそうです。安息日だからパリサイ人と争いが起きた(同9:16)。イエスは盲人をいやされる時、言われました「私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る」(同9:4)。愛は待てない。今でなければいけないのです。女性が香油を捧げたのは、イエスが十字架に付けられる前の日です。この日を除いて機会はなかった。
・女性は自分の持つ最上のものを捧げました。私たちの行為の多くは、「見返り」を求めます。見返りを求めずに生きる時、私たちはそこに愛を見ます。私たちの最上の献げ物は、見返りを求めない、ひたむきな行為です。見返りを求めない行為の一つは、収入の十分の一を捧げる「十一献金」です。あるいはいま私たちが捧げている教会建築特別献金も同じでしょう。献金したから救われるわけではありません。献金しても表彰状も感謝状も来ません。教会堂の土台石に名前が刻まれるわけでもありません。この世の人々からみれば、浪費でしょう。しかし、主はその浪費を、「聖なる浪費」として、受け入れてくださるのです。預言者マラキは主の言葉を語ります「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと万軍の主は言われる。必ず、私はあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」(マラキ3:10)。
・らい病者のために生涯を捧げた神経科医の神谷美恵子さんは次のように言いました「何故、私たちではなくてあなたが。あなたは代わってくださったのだ。代わって人としてあらゆるものを奪われ、地獄の責苦を悩みぬいてくださったのだ」(神谷美恵子「癩者に」)。「私が担うべき病をあなたが担って下さった、だから私はあなたのために働きます」と神谷さんは言います。愚かな言葉です。その人がらい病になったのは、神谷さんのせいではない。それにもかかわらず、彼女はそれを自分の十字架として負っていきました。なぜ、らい病のような忌まわしい病気があるのかわかりません。らい病は肉を溶かし、骨を溶かして、最後には死に至る不治の病であり、人々から忌み嫌われました。不信仰者はそれを見て、「神の平安がどこにあるのか」とうそぶきます。にもかかわらず、らい病者のために自分の生涯を捧げる人がいます。この人たちこそ、「キリストの香りを運ぶ者」です。私たちも、自分が罪人であり、死ぬしかないのに、イエスが代わりに死んでくださったことに気づいた時に告白します「何故、私たちではなくてあなたが、あなたは代わってくださったのだ。だから私たちはあなたに従います」と。「聖なる浪費」に動かされる人生を歩みたいと祈ります。