江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年7月31日説教(創世記32:23−33、神と格闘するヤコブ)

投稿日:2011年7月31日 更新日:

1.故郷カナンへ帰るヤコブ

・私たちは「聖書教育」とリンクして、5月から創世記を学んでいます。今日はヤコブについての3回目、創世記32章「神と格闘するヤコブ」です。先週の説教は故郷カナンを逃げ出したヤコブが、ハランへ向かう途中、ベテルで神と出会ったことがテ−マでした。今日の物語はその20年後から始まります。ここには、聖書における最も感銘深い宗教的出来事、すなわち「神との格闘」の物語が記されています。
・故郷カナンを逃げ出し、ヨルダン川を渡った時のヤコブの持ち物はたった杖一本でした。それから20年、ヤコブは伯父ラバンのもとで働き、レアとラケルの2人の妻と2人の側女の間に、11人の子どもをもうけました。そしてヤコブはたくさんの部下と家畜を従えた族長に成っています。ヤコブは冨と地位を得た成功者でした。しかし、その成功を脅かすものが現れました。それは亡命のヤコブを受け入れてくれた、伯父ラバンの息子達でした。彼らはヤコブの成功を素直に受け入れません。ヤコブの耳に彼らの声が届きました「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの冨を築き上げたのだ」(31:1)。ヤコブの強引な駆け引きは反感を、成功は妬みを招いていました。伯父ラバンとの関係も、しだいに悪くなっていました
・ヤコブはラバンのもとで20年間働きました。伯父ラバンは駆け引きに長けた人で、ヤコブは何度も騙されました(31:41)。ヤコブの強引な駆け引き上手は、むしろ伯父に教えられ、鍛えられた結果と言えます。しかし、そんな理由が息子達に通じるわけはありません。彼らにとってヤコブは父の財産をかすめ取った悪者でしかありません。居心地は悪くなるばかりです。しかし、ヤコブは故郷のカナンにも帰れません。兄エソウが命を狙っているからです。悩むヤコブに主が「あなたはあなたの故郷である先祖の地へ帰りなさい。私はあなたと共にいる」(31:1-3)と行く道を示されました。主は20年前に、ベテルで野宿していたヤコブに夢の中で「私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、かならずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(28:15)と約束されました。その約束が果たされる時がきたのです。
・主は言われました「ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべて私には分かっている。私はベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、私に誓願を立てたではないか。さあ今すぐここを出て故郷へ帰りなさい」(31:12−13)。ヤコブは急いで、子供たちと妻たちをラクダに乗せ、伯父ラバンのもとで得たすべての財産である家畜を駆り立て、故郷カナンへ向かって旅立ちました。というより逃げだしました(31:17−18)。ラバンの目を盗んでハランを出たのです。冨を築き成功したヤコブの帰郷は言わば「故郷に錦を飾る」ことになるはずです。しかし、ヤコブにその喜びはありませんでした。ヤコブは兄の復讐が怖いのです。

2.ヤコブの怖れと不安

・ヤコブはイサクとリベカの間に生まれた双子の次男でした。兄弟は胎内にいるときから押しあい、母を不安がらせました(25:22)。ヤコブは兄エサウのかかと(アゲブ)を掴んで生まれたので、ヤコブと名付けられました。その名のように、ヤコブは生まれたときから抜け目のない性格で、少しの機会も逃さず自分のために利用しました。ヤコブは兄エサウの空腹につけこんで、一皿の煮物と引き換えに長子の権利を手に入れました(25:34)。そして兄弟の仲を決定的に切り裂く事件が起きました。母リベカにそそのかされたヤコブが兄に変装して、父イサクから、エサウが受けるはずの祝福を騙し取ってしまったのです(27:18−29)。祝福を奪い取られたエソウは怒り、ヤコブを殺すと口走るようになりました。ヤコブは母の手引きで、母の生まれ故郷ハランへ逃げました。
・ヤコブは何処へ行っても争いの多い人です。伯父ラバンのもとを去る時も、伯父一族の追跡を受け、途中で和解しています。伯父との和解で背後から追われる心配がなくなったヤコブに残されたのは、兄エサウに出会う心配です。ヤコブの一行がヤボクの渡しに着いたとき、ヤコブは使いを送り、兄に挨拶させました。帰って来た使いから、「エサウが400人の部下を引き連れこちらに向かっている」と聞いた時、ヤコブは動揺します。エソウが自分を攻撃しようとしていると思ったからです。ヤコブは思いつく限りの準備をしました。まず兄の怒りを和らげるため、贈り物を用意し、次に群れが攻撃されても全滅しないよう群れを二組に分け、どちらかが残るようにしました。そして昼間川を渡ると、攻撃されやすいので、夜の内に家族と部下と家畜を渡らせました。
・しかしヤコブの不安は去らず、彼は神に祈ります。このヤコブの祈りには、兄エサウの報復を怖れる気持ちがあふれています「私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつて私は、一本の杖をたよりにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。私は兄が恐ろしいのです。兄は攻めてきて、私をはじめ母も子供も殺すかも知れません」(32:11-12)。ヤコブはすべてを主に委ね、エソウとの再会を待ちます。もうここには傲慢なヤコブはいません。彼はただ、溺れる人がわらをもつかむように主を求めています。ヤコブはその夜自分一人野営地に止まりました。
・その野営地でヤコブは不思議な体験をしました。夜、野営地に一人いたヤコブに何者かが闘いを挑んできます。創世記は記します「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた『いいえ、祝福してくださるまでは離しません』。『お前の名は何というのか』とその人が尋ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ』。
『どうか、あなたのお名前を教えてください』とヤコブが尋ねると、『どうして、私の名を尋ねるのか』と言って、ヤコブをその場で祝福した」(32:25-30)。
・この「ヤボクの渡し」での格闘は何を意味しているのでしょうか。おそらくヤコブは「夢の中で神と格闘した」のです。前に夢の中で「天からの梯子」を見た時のように、です。彼は人間と格闘するように神と格闘をした、その生々しい出会いの伝承を創世記記者は物語化しているのです。ヤコブは兄エソウとの再会を前にして不安に震えています。兄は報復するに違いない。その時、自分だけでなく、妻や子供達も殺されるかもしれない。なんとかしてこの危機を乗り越えなければいけない。その潜在意識がヤコブにこの夢を見させ、ヤコブの帰郷を阻む何者かと格闘しています。しかし格闘するうちに、その方が主であることがわかり、その主と対等に戦えたことで、ヤコブは一つの安心を与えられました。エソウとの再会を前に、不安を募らせるヤコブを励まし、自信をもたせるために神が現れて下さった、ヤコブはそう信じたのです。
・ヤコブは夜明けまで、ねばりぬいて、神と格闘し、神の祝福を受けました。彼は死にもの狂いで神が必要なことを示したのです。もし、神と格闘しなければ、兄エサウと出会う不安で一晩中、ヤコブは眠れなかったでしょう。ヤコブは、自分の中に隠しもっている弱さ、脆さ、不安のすべてを洗いざらい神にぶつけて、徹底的に闘い、平安を得ました。「ヤコブがべヌエルを過ぎる時、太陽が彼の上に昇った」(32:33)という記述からも、その平安が感じられます。

3.ヤコブの信仰

・「神と格闘する」、そんな不遜が許されるのかと人は思います。しかし聖書は「神と争っても良い、わからなければ徹底的に神に問え」と言います。そのような書の一つがヨブ記です。ヨブはある日突然すべての財産と子供達と自身の健康を取り去られます。何故このような苦しみが与えられるのかわからない。彼は自分に与えられた理由のない苦しみ、不条理を神に抗議して言います「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか」(ヨブ9:22-24)。「あなたは正しい者もそうでない者も共に裁かれる。あなたの裁きは間違っている」とヨブは叫ぶのです。誠に不遜な言葉ですが、神はこの不遜なヨブを肯定され、逆にヨブに罪を認めるように迫った敬虔な友人たちを否定されます(ヨブ42:7)。建前を述べる人よりも、不遜でも良いから、神と争うほど真剣に求める存在を、神は受け入れられるのです。このヨブ記が3.11以後の日本の教会でもう一度読み直されています。「神は何故このような地震や津波を起こし、何万人もの命を奪われたのか。愛の神が何故このような酷いことをされるのか、神は本当におられるのか」、その疑問に真正面からぶつかっていく書がヨブ記だからです。創世記32章はこのヨブ記に匹敵するような激しさを持っています。
・今日の招詞に創世記33:3-4を選びました。次のような言葉です「ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」。ヤコブは兄エソウとの再会を恐れていました。殺されるかもしれないと不安になっていました。しかしヤボクの渡しでの神の格闘を経験して、今ヤコブはすべてを「主に委ねる」決意をしています。その決意をしたヤコブに対面したエソウは、「ヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」。ヤコブが想像もしなかった展開です。ヤコブの妻と子を守りたいという熱意が主との格闘を引き寄せ、その熱心さが主を動かし、主のくすしき業がエソウの怒りを溶かし、和解をもたらしたのです。
・イエスが放蕩息子の喩えを語られた時、おそらく、このエソウとヤコブの再会を念頭に置かれていたのではないかと思われます。なぜならばそっくりの物語がここにあるからです。放蕩息子を見た父親は「まだ遠く離れていたのに、息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。父親は神を、放蕩息子は私たち人間を象徴しています。この記述は創世記33章のエソウの姿と同じです「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」。神の無条件の赦しがここにあります。ヤコブはエソウの中に神の姿を見ています。彼は告白します「兄上のお顔は、私には神の御顔のように見えます。この私を温かく迎えてくださったのですから」(33:10)。ヤコブは無我夢中で神を求め、無我夢中で祝福(赦し)を請い願い、与えられました。この赦しをいただいた者はもう以前のような生き方は出来ません。これ以降のヤコブは、「イスラエル」、神が共に戦う者、神の器となっていくのです。

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