江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年1月2日説教(列王記上17:1-16、私たちを養われる主)

投稿日:2011年1月2日 更新日:

1.烏に養われるエリヤ
・新年を迎え、これから3ヶ月間、旧約・列王記を読んでいきます。列王記はダビデの子ソロモンの即位から、王国の分裂、滅亡までを描く歴史書です。著者はバビロンの捕囚地にいた申命記史家と呼ばれる人々だと言われています。ダビデ・ソロモンの時代、イスラエル王国は栄えましたが、ソロモンの死後王国は南北に分裂し、北王国イスラエルはアッシリヤにより滅ぼされ、南王国ユダもバビロニアに滅ぼされ、人々は今捕囚地バビロンにいます。主は愛されたダビデの王朝を滅ぼし、自ら住むといわれたエルサレム神殿をも破壊されました。神は何故ご自分の民を滅ぼされたのか。歴史家たちは「自分たちの父祖が神に反逆し、そのために主は国を滅ぼされた」という視点で歴史を振り返ります。当然、その記述では「父祖たち、王と民の罪の歴史」が前面に出て来ます。その罪を告発する者が預言者です。「自分たちの王や民は預言者を通して語られる神の言葉に聴き従わなかった」、その悔い改めの下に、歴代の王たちの歴史、列王記が語られていきます。
・歴代の王の中で最も罪深いと批判されているのが、イスラエル7代目の王アハブです。列王記は記します「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。彼は・・・シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った」(列王記上16:30-33)。このアハブの告発者として登場してくるのがエリヤです。今日はこのアハブとエリヤの物語を通して、「神の養い」について考えてみたいと思います。
・列王記上17章からエリヤが登場します。彼はヨルダン川東岸ギレアド出身の預言者ですが、アハブの悪政を見て、北王国の首都サマリアまで行き、王に神の言葉を伝えます「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」(17:1)。干ばつの預言です。パレスチナは乾燥地帯であり、秋から冬にかけて雨が降らなければ直ちに干ばつになり、穀物を得られない人々は飢えて死にます。古代の人々にとって、誰が雨をもたらしてくれるのかは、生死に関わる重大問題でした。北王国のあるカナン地方の人々はバアルと呼ばれる神を拝んでいました。バアルは太陽と雨を司るとされた農業神です。それに対して、その地を支配していたイスラエルの民はその後にパレスチナに入植し、土着のカナン人を追い出して定着した民であり、その神は先祖以来の神、エジプトから救い出し約束の地に導き入れた主(ヤハウェ)でした。しかし、人々はパレスチナ入植と共に、土着の神バアルに惹かれていきます。
・このバアル神を始めとする偶像礼拝との戦いが旧約聖書を貫く主題です。偶像礼拝とは、自分に利益を与えてくれる神を拝むことです。雨を降らして収穫を豊かにしてくれる神、他民族から自分たちを守ってくれる神、人間が求める神はご利益を与えてくれる神であり、イスラエルの民は厳格な「主なる神」よりも、偶像神に頼りました。預言者たちは繰り返し「バアルを拝むな」と偶像礼拝を批判しますが、根絶できません。何故ならば、偶像礼拝とはつまるところ人間の欲望の反映だからです。それは自己中心の信仰ですから、それがもたらすものは他者に対する貪りであり、社会的には不正と悪の横行として現れます。エリヤの時代はその偶像礼拝が横行し、そのために主の祭壇が壊され、主の祭司たちは殺され、バアル神の祭壇が国中にあふれました。この偶像礼拝を推し進めたのが、イスラエル王アハブとその妻イゼベルでした。イゼベルは政略結婚によりイスラエルに来たフェニキア王の娘で、熱心なバアル神信仰者でした。彼らに警告するために起こされた預言者がエリヤです。
・エリヤはアハブ王の前に出て神の裁きの言葉を伝えますが、この行為によって、王に憎まれ、追われる者となりました。彼の預言は、時の権力者を告発するものであり、身に危険を招く行為であったからです。アハブに追われたエリヤは故郷ヨルダン川東岸のケリト川のほとり(17:3)に逃れ、そこで烏に養われたと列王記は語ります「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ」(17:6)。烏が養う、現代の私たちには理解が難しい事柄です。へブル語の烏=クリビームは別の読み方ではアラビーム=アラブ人と通じます。おそらくは故郷のアラブ人(遊牧民たち)がエリヤをかくまったのでしょう。しかし、干ばつが進み、そこでも川の水が枯渇してしまい、エリヤは別の地に移れと命じられます。

2.やもめに養われるエリヤ
・その後、エリヤは「シドンのサレプタに行け」との命令を神から受けます。そこで、「一人のやもめにあなたを養わせる」と(17:9)。シドンはフェニキアの町であり、王妃イゼベルの出身地、バアル信仰の最も盛んな地、敵地の真ん中に行って生きよとエリヤは命じられたのです。エリヤはサレプトに行きますが、そこで出会ったのは、薪を拾っていたやもめでした。エリヤは彼女に、水を飲ませて下さいと頼み、彼女が器をとりに戻ろうとすると、「パンも一切れ下さい」と頼みます(17:11)。それに対してやもめは答えます「私には焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。私は二本の薪を拾って帰り、私と私の息子の食べ物を作るところです。私たちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(17:12)。彼女もまた旱魃の影響で苦しい生活に追い込まれていたのです。しかし神の言葉を信じるエリヤは動揺しません。彼は答えます「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい」(17:13)。まず私のためにパンを焼きなさい、そうすれば神はあなたを養われるとエリヤは言いました。
・エリヤは神の約束を受けていました。神はエリヤに言われました「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」(17:14)。現実には、つぼの中には一握りの小麦粉しかなく、かめの中にはわずかな油しかありません。しかし、やもめはエリヤの言葉に従います。そうしましたら、壺の粉はなくならず、瓶の油もなくならず、三人は食べて飢饉を生き残ることが出来たと列王記は伝えます。旱魃は3年間続いたとありますから、エリヤは2年以上、このやもめに養われたことになります。この物語は伝承ですが、何らかの事実が背景にあると思われます。文字通りの奇跡が起きたのかもしれませんし、やもめが家族のために密かに蓄えていた特別な備蓄があったのかもしれません。後の記事を見ますと、やもめの家は二階家で裕福であった(17:19)、またエリヤに対して罪を犯したと告白しています(17:18)ので、その想像も可能だと思います。ただ事実がどうであったかはわからないし、根本的な問題ではありません。それ以上に大事なことは、列王記が伝える使信「神は私たちを養いたもう」という信仰がそこにあることです。

3.私たちを養われる神
・ここで一つの疑問が生じます。神はエリヤを生かすために、何故「烏とやもめ」を用いられたのでしょうか。烏は聖書では忌み嫌われた鳥であり、やもめは貧しい者の代表です。そのような者に養われることを通して、エリヤを真の預言者とするためであったと思われます。預言者は神の言葉の単なる伝達者ではなく、その言葉を生きる者です。「主は生きておられる」(17:1)、その信仰は経験から生まれます。御言葉を生きるためには、烏に養われ、やもめに養われるという、ある意味で人間の知恵を超える体験をして、自分の力ではなく、神によって生かされている事を知る必要があったのです。
・烏ややもめが人を養いうるのでしょうか。私自身の経験から見て、これはありうる事柄だと思います。私は11年前、50歳の時に会社を辞めましたが、その時息子は大学3年生、娘は高校2年生でした。退職して神学校に入りましたが、それまでの蓄えを消費しながらの生活でした。いつまでお金が持つのだろうか、このままで息子や娘を養っていくことが出来るのだろうか、そういう不安の中で、神学の学びを続けました。卒業後、この教会に招かれて来ましたが、いろいろな事情で十分な牧師給を出せない状態でした。神が養って下さると信じながらも、大丈夫だろうかとの不安は消えませんでした。荒野に導きだされた民は、水が与えられるとパンがないとつぶやき、パンが与えられると肉がないと叫びました(詩編78:17-20)。それと同じ状況でした
・それから11年の時が流れました。この11年間を振り返ってみると、「まさに主は養って下さった」と思います。牧師給与は少しずつ増やしていただきましたし、また神学校事務長の職が与えられ、給与の不足を補ってくれるようになりました。牧師に就任した時には思ってもみなかった展開です。「主は生きておられる」、それは私も経験した出来事です。その出来事を経験した者は変えられます。今私たちは教会堂の建て直しを計画しています。1ヶ月後には現会堂が壊され、地盤調査が始まります。必要資金の8割の目途はつきましたが、残りの2割は未調達です。どうするのか、必要なものを与えて下さる主に委ねて行きます。それでも足らなければ、計画を修正し、与えられた資金の範囲内で建てれば良いだけです。
・今日の招詞に申命記8:4−5を選びました。次のような言葉です「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」。これはエジプトを出て荒野を40年間さまよい、約束の地に入ろうとしている民に、主がモーセを通して言われた言葉です。「荒野において、あなたたちは水がない、パンがない、肉がないと文句ばかり言ってきた。しかし、40年間を振り返ってみればどうだ、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかったではないか」。
・神は烏ややもめを用いてさえ人を養って下さる、今日列王記17章の記事を与えられたのは偶然ではないと思います。信仰とは「思い煩いから解放される」ことです。イエスは言われました「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ6:31-32)。今年の9月に教会堂は完成し、私たちは建設資金を工事の方にお支払いする予定です。その時資金が足らなければどうしようと思い煩う私たちに御言葉が与えられます「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)。これからの9ヶ月間、教会堂の完成と必要資金の充足を祈って、その他のことは主に委ねていきましょう。「私の思いはあなたたちの思いを高く超えている」(イザヤ55:9)と言われる主に信頼するように、今日の御言葉「主は生きておられる」が与えられたことを覚えたいと思います。

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