1.罪に死ぬ
・今日は篠崎キリスト教会の教会創立記念日礼拝です。私たちの教会は1969年11月6日に新小岩教会の伝道所としての最初の礼拝を篠崎文化館で行い、それから41年間、私たちはこの教会で毎主日の礼拝を守ってきました。何のためでしょうか。救われた恵みに感謝し、同時にその恵みをこの地の人々に伝えるためです。主日礼拝はこのように、恵みへの応答という面と、隣人への証しという二つの意味を持ちます。今日はこの中の最初のもの、「救われた恵みに応答する」とはどういうことかについて、ローマ書6章を通して考えて行きます。
・パウロは前の5章で「救いとは罪が赦されて、神と和解し、神の平安の中に生きることだ」と述べました「私たちは信仰によって義とされたのだから、主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(5:1-2)。世の人は自分の功績を積むことによって、他の人から認められ、安心を得ようとします。しかし、他の人が認めてくれないとその平和は崩れます。そのような人に左右される平和ではなく、本当の平和、「神との平和」を求めよ」とパウロは言います。その平和は、自分が神の前に罪人であることを認め、悔い改めた時、恵みとして与えられます。パウロは言います。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました・・・敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(5:8-10)。この神との平和が、隣人との平和をもたらします。
・しかし、私たちの中には、自分ではどうしようもない罪=原罪があります。この原罪が神と私たちの間を阻害し、また隣人と私たちの間をも阻害しています。罪とは「関係の断絶」なのです。そして聖書の罪には、単数形の罪と複数形の罪があります。単数形の罪、英語で言うsinが原罪です。その原罪が具体的な行動として現れ、律法を破る、あるいは法律を犯す時、複数形の罪crimeになります。世の人々はこのcrimeを罪と誤解しますが、本当の罪はその根源にあるsinであり、このsinから解放されなければ本当の平安はありません。そしてこのsinからの解放はキリストとの出会いを通して与えられます。それを象徴するものがバプテスマ(洗礼)です。パウロは言います「私たちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(6:4-5)。
・バプテスマの語源はバプテゾー(浸す)です。水の中に沈む時キリストと共に古き自分に死に、水から出る時キリストと共に復活する。バプテスマを通して、私たちはこの世に死に、キリストにあって生きる者となります。パウロは言います「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです」(ガラテヤ6:14)。この世に対して死んだ者が以前と同じ生活を続けられるだろうか、出来るはずが無いではないかとパウロは言います。それが6章6-7の言葉です「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています」。それにも関らず、私たちの日常生活は前と変わりません。世の人々は言います「バプテスマを受けて何が変わったのか。あなたのどこが救われたのか」。バプテスマを受けて私たちは罪sinから救われますが、肉の体を持つ限り、罪crimeを犯し続けていきます。罪はまだまだ私たちを支配しています。どうすればよいのでしょうか。ここで問題になるのは、罪が赦された後、私たちは同じ状態のままでいてはいけないということです。罪の赦しは聖化、あるいは清めを伴わなければいけないのです。
2.聖化とは何か
・聖化を考えるために具体例を用いてみます。ヨハネ8章にあります姦淫の女の例です。エルサレムにおられたイエスのもとに、律法学者とファリサイ派の人々が姦淫の現場で捕えた女を連れてきて、真ん中に立たせて言いました「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:5)。律法は姦通に対して死刑を定めています。ラビたちの伝統では、姦通は石打ち刑でした。その人々にイエスは身を起して言われました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」(同8:7)。イエスの答えを聞いた者は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った」(同8:9)とヨハネは記します。イエスが彼らに求めたのは、自らを振り返り、自らも女と同じ罪人であることを、知ることでした。良心に誓って、自らを「罪なし」と言えるなら「石を投げよ」と言うイエスの言葉は、彼らの心を揺り動かし、良心を目覚めさせたのです。
・イエスは身を起して女に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(8:10)。女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われました「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。ここに罪の赦しと聖化が鮮やかに語られています。「私もあなたを罪に定めない」、ここに赦しがあります。しかし同時にイエスは言われました「これからは、もう罪を犯してはならない」、この聖化こそ今日の主題なのです。
・私たちも罪を赦されました。しかし、体は元のままです。だから肉の欲はなお私たちを襲います。しかし、キリストが肉の欲に勝たれたように、私たちも既に勝利の中にあります。だから、肉の欲と戦いなさいとパウロは述べます「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(6:12-13)。ルターは言いました「聖者も肉の中に悪しき欲望をもっている。けれども彼らはこれに従わない」。聖者だから食欲や性欲がなくなるわけではありません。あるいは妬みや物欲もあるでしょう。聖者も人間であり、彼らの中にも悪しき欲望は働いています。けれども、「彼らは悪の支配に自分の命を賭けない」、そこに聖者の聖者たるゆえんがあります。私たちもそうです。かつては罪の中にあったが、今は聖別され、新しい生が与えられた。そうであればキリストにふさわしい者として生きなさいとパウロはローマ6章で教えるのです。
3.キリストにふさわしい者として生きる
・しかしパウロは「自分に鞭打って聖なる生活をしなさい」とは言いません。聖化=清くなるとは禁欲することではありません。戒めを守る生活をすることが「清い生活」ではありません。何故ならば「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(6:14)。もう私たちの聖化は始まっている、私たちはもう「~せよ、~してはいけない」という律法の下にいるのではなく、恵みの下にある。私たちが為すべきことはこの恵みを受け続けて行くことです。その時、神が私たちを少しずつ清い存在へと変えて下さる。そのことを信じて行くのです。
・今日の招詞としてローマ6:15を選びました。次のような言葉です「では、どうなのか。私たちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」。イエスが姦淫の女に言われた「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という言葉と同じ響きがここにあります。私たちは罪を赦された者として、それにふさわしく変えられていく。これが新しく生まれる=新生、あるいは清められて行く=聖化ということです。
・新生とは何か、今まで自分中心で生きていた人生が神中心の、具体的には「隣人と共に生きる」あり方に変えられて行くことです。そのためには一度古い自分に死ななければなりません。昭和45(1970)年3月、羽田発福岡行きの日航機がハイジャックされた「よど号」事件で、人質となった乗客のなかに聖路加国際病院理事長の日野原重明さんがいました。日野原さんは「私を変えた聖書の言葉」と題する本の中で次のように書いています「彼ら(赤軍)が『次に読み上げる読み物のリストの中から読みたいものがあれば手を挙げてほしい』と言われ、私は勇気を出して縛られた両手を高く挙げ『カラマーゾフの兄弟を貸してほしい』と言ったら、膝の上に文庫本4冊がおかれた」。早速第1冊目を開くと、その扉に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。そしてもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ12:24)の聖句を見出し、「そうだ、この聖句がこの小説の主題なのだと思い、時々窓の外の青空を見上げながら、ゆっくりゆっくりとこの小説を読み出した」と記しています。日野原さんは釈放後のあいさつ文で「許された第2の人生が、多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと、願ってやみません」と記しています。日野原さんは「一粒の麦になる」決意を通して「罪に死にキリストに生きる」人生を始めたのです。
・「この一粒の麦になる」という決意こそ大事なものではないでしょうか。麦は自らが死ぬことによって、地の中で壊され形を無くして行きます。そのことによって、種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結びます。自分の姿を残す、蒔かれずに貯蔵しておけば今は死なないでしょうが、やがて死に、後には何も残しません。イエスが十字架で死ぬことによって、そこから多くの命が生まれていきました。私たちもその命をいただいた一人です。だから私たちも、自分の形をなくして、イエスのために世に仕えていきます。
・「自分の形を失くして仕えて行く」、教会の言葉で言えば「相互牧会」です。お互いがお互いを配慮し合う生き方、そういう者でありたいとして今年度の祈りの課題に加えられました。宮沢賢治が「雨にもまけず」で歌ったような生き方です「ヒガシニビョウキノコドモアレバ、イッテカンビョウシテヤリ、ニシニツカレタハハアレバ、イッテソノイネノタバヲオヒ、ミナミニシニソウナヒトアレバ、イッテコハガラナクテモイイトイヒ、キタニケンクワヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイウ」、私たちがこの歩みをして行く時、その小さな一歩一歩の歩みが祝福されていき、生活が少しずつ変えられ、それが隣人への証しとなっていきます。先に、「主日礼拝は私たちの感謝の応答という面と、隣人への証しという二つの意味を持つ」と言いましたが、実際は一つです。「感謝の応答」は必然的に「隣人への証し」となっていくのです。そいう教会を共に形成したいと思います。