1.私たちは誰に仕えるのか
・聖書教育に従って、詩編を読み続けています。今日は詩編100篇ですが、この詩編は「礼拝の喜び」を歌っています。礼拝するとは神の御前に出ることです。その時、「主に向かって喜びの叫びをあげよ」と詩人は歌います。何故ならば、「主は私たちを造られ」(100:3a)、「私たちを養われ」(100:3b)、「私たちを恵み、慈しんで下さる」(100:5)からです。今日はこの詩編を読みながら、「礼拝とは何か」、「私たちは何故教会に集まるのか」、「私たちは誰に仕えるのか」を考えていきたいと思います。
・最初に詩人は歌います「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」(100:1-2)。主を礼拝する人々が主の御前(神殿の前庭)に進みでて讃美を捧げています。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」、全地、イスラエルだけではなく神は全地の支配者であると詩人は歌います。この神の支配は、神を信じている者だけではなく、神を信じない者、神に背いている者にも及ぶ、それが「全地」の意味です。今日の言葉で言えば、政治も経済も社会もまた神の支配下にあるということです。それを信じていく時、自分だけが救われれば良いとの信仰は否定されていきます。全地が、隣人も含めて共に救われることを聖書は求めています。
・次に「主に仕え、御前に進み出よ」と詩人は呼びかけます。誰に仕えるのか、誰の御前に出るかは、人生を決定する大問題です。エルサレムには二つの大きな建物が隣接してありました。一つは王宮、もう一つは神殿です。王の宮殿を向いて生きるのか、主の住まいを向いて生きるのか、人々は選択を迫られます。王の前に出る時、人々は恐れおののいて出ます。なぜなら人間の王はいつ私たちを断罪するかわからないからです。主の御前に出る時、私たちは恐れではなく喜びを持って出ることができます。主は私たちの造り主であり、私たちを愛してくださるゆえに恐れる必要はないからです。「主の御前に出る」ということは、この世の様々な恐れから解放されることを意味します。
・人は神と王とに兼ね仕えることはできません。どちらかの選択が迫られます。初代のクリスチャンたちは王ではなく神を選んだゆえに迫害されました。ルカ福音書はイエスが生まれられた時、ベツレヘムの羊飼いに次のような言葉が臨んだと伝えます「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2:10-12)。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」こそ、救い主(キュリオス)であるとルカは主張しています。当時、世界はロ-マ皇帝(カイザル)の支配下にあり、人々は「カイザル(皇帝)こそ救い主(キュリオス)である」として皇帝を崇めました。その中で、ローマ皇帝ではなく「イエスこそ主である」と告白することは命がけの告白でした。そして、初代教会はローマ帝国からの迫害・弾圧を受けますが、その信仰告白を守りぬき、今日の教会の土台になりました。
・このことは現代の問題でもあります。鈴木正久氏は数百人が集う本郷中央教会の牧師でしたが、太平洋戦争の激化と共に、信徒が教会から離れていく悲哀を経験しています。彼は戦後行った説教の中で次のように述べています「太平洋戦争が始まると、礼拝に集まる者は30人、20人と少なくなり、最後は7~8人に減ってしまった。それのみならず、ある時、長老の一人が『非常時に敵性宗教であるキリスト教の礼拝を続けることは国策に沿わないと反対さえした』」(鈴木正久全集より、1961.4.30説教)。人は逆境になれば簡単に信仰を捨てますが、同時に最後まで信仰を守り抜いた人々もいました。詩編100篇の詩人も、このような選択をして、王宮ではなく神殿に進み出ているのです。
2.主を知ることの大切さ
・何故命の危険を犯してまで、主の前に進み出るのか。それは主が私たちの造主、私たちの飼い主であるからです。詩人は歌います「知れ、主こそ神であると。主は私たちを造られた。私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」(100:3)。「知れ、主こそ神であると」、古代イスラエルにおいては「神はいますか」という問はなく、あったのは「どなたが神であるか」でした。イスラエルの神よりも、イスラエルを占領したバビロンの神マルドゥクの方が強いのではないか、あるいは雨を降らせ作物を実らせてくれるバアル神こそご利益があるのではないかと人々は惑いました。今日でも癒しを約束する教会に多くの人が集まりますが、これも偶像崇拝の一つです。その中で主(ヤハウェ)こそが、真なる神であると詩人は告白します。現代の私たちは「どなたが神であるか」という問ではなく、「神はいますか」という問をしています。「神は本当におられるのか、おられるなら見せて欲しい」と問われた時、私たちはどのように答えるのでしょうか。私たちがなすべき答は「礼拝に来てみなさい。そうすれば神がおられることがわかる」となりましょう。その時、そのような喜びにあふれた礼拝を私たちは持っているかが問われます。
・詩人は言いました「主は私たちを造られた」、だから私たちはすべての生命は主のものであり、人の命を奪ったり、あるいは自殺したり、また妊娠中絶をすることも、主から与えられた命を奪うこととして反対します。しかし反対するだけではキリスト者として十分ではありません。ある人々は自殺予防の「いのちの電話」の活動に参加し、別の人は中絶回避のための母子支援活動をしている婦人矯風会等の活動に献金しています。「主に仕える」とは「人に仕える」ことであり、恵みの応答としての行動がそこから出てくるはずです。
・詩人は続けました「私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」、私たちの飼い主は主であります。詩編23編は歌います「主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる・・・死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる」(23:2-4)。主が共にいてくださるから、人生の困難に私たちは立ち向かっていけます。しかし主を知らず、そのために人生の荒波の中で恐れおののいている多くの方がおられます。ですから私たちは伝道します。教会の伝道は教会員を増やすため、あるいは教会成長のために行われるのではなく、一人でも多くの人が神に出会って、この不安と恐れに満ちた世から解放されて欲しいとの願いからなされます。
3.礼拝の喜び
・詩人は歌い続けます「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ」(100:4-5)。詩人は神の臨在される神殿の前庭に進みでて賛美しています。私たちも主日ごとに教会に集まって讃美を捧げます。「何故教会に集まるのか、自宅で個人礼拝をしても良いのではないか」と聞く人があるかもしれません。私たちは「誰を礼拝するのかを明らかにする」ためには教会に集まります。そして主日を最も大事な日として神に捧げ、その日には仕事を休みます。何故ならば私たちの主は「人ではなく神」だからです。仮にやむを得ず仕事せざるを得ない場合でも、午前中の礼拝は守りたい。礼拝が義務ではなく、喜びだからです。「主に向かって喜びの叫びをあげよ」、これが礼拝の土台です。
・「何故喜ぶのか」、それは「主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ」からです。「主は恵み深く」、ヘブル語トーブという言葉です。トーブとは「良い」という意味です。創世記1章にはこの「トーブ」という言葉が繰り返し出てきます。「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。創造の業が「極めて良かった(トーブ)」という神の肯定の中で終えられています。主に造られた故に全ての存在は「良し」と肯定されている、体に障害を持つ人も心に病を持つ人も、「良し」とされています。この神の肯定の中で生きることができるゆえに喜ぶのです。
・「慈しみはとこしえに」、慈しみと訳されている言葉は「ヘセド」です。このヘセドは単なる慈しみというよりも「友愛」というべき意味を持っています。ある辞書は「共に生きようとする課題と責任を負う連帯愛」と解説します。このヘセドを文字通りに生きられたのがイエス・キリストでした。今日の招詞として選びましたのが、マタイ9:12-13です。次のような言葉です「イエスはこれを聞いて言われた『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が求めるのは憐れみであって、いけにえではないとはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」。
・ここにあります「憐れみ」がヘセドです。イエスは病の癒しをされましたが、多くの場合、当時の社会において罪人、穢れた者とされていた人々を癒されました。らい病を患う人に対し、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒されます(マルコ1:40-45)。一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、当時の禁忌に逆らって「棺に手を触れ」、彼を生き返らせます(ルカ7:11-17)。「癒し」の行為は、禁止されていた安息日にも行われました(マルコ3:1-6)。このことが示しますことは、イエスは自らが痛む(社会的制裁を受ける)ことにより、病む者たちの痛みを共有されということです。ここにヘセド=友愛の実行があります。
・現代においても多くのキリスト者がこの「ヘセド」を生きておられます。先週、札幌で開催されました全国壮年大会に出席しましたが、主題講師として招かれたのが、ペシャワール会の中村哲先生でした。先生は私たちと同じバプテストのキリスト者です(香住ケ丘バプテスト教会教会員)。先生はもともと医師としてパキスタン・アフガニスタン国境の町ペシャワールのハンセン病患者治療のために派遣されましたが、やがてアフガン内戦により数百万人の難民が国境地帯に押し寄せ、難民支援にも関わるようになります。中心は医療活動でしたが、いくら治療しても患者は減らず、逆に増えていきます。何故ならば、病気をもたらしているのは飢餓による栄養失調と、不衛生な水の摂取による感染症だったからです。先生はその現実の前に医師としての限界を感じられ、まず井戸を掘って衛生的な水を供給し、次には水路建設を行って砂漠を農地にすることを自らの使命とされ、以来25年実行されてきました。砂漠の地で、お金も技術もないボランティアが水路を造ることは、気の遠くなるような道程です。先生は10年間かけてインダス川支流から24キロメートルの水路を引き、その流域は緑の地に変わり始めています。今回用水路が完成したガンベリ砂漠は、かつて「死の谷」と呼ばれた水なし地獄でしたが、今ではそこで水田での稲の栽培も行われるようになっています。イエスが言われたように「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」、その病人が治療よりも水や食料を必要としているのであれば、そのために働こうとされているのです。
・先生は言われました「9.11以後テロリストの巣窟としてアメリカはアフガニスタン攻撃を行ない、日増しに治安が悪化し、危険が増幅していても、私はやるべきことをします」。そして「アメリカ主導の考え方、その国が持つ宗教や文化、民族性や風習への理解をしようとしない傲慢さはやがてふさわしい報いを受けるでしょう」とアメリカがやがてアフガンから敗退していくことを予見しておられます。私たちは米軍の容赦ない無差別攻撃を怒り、それを批判しますが、そのことよりもキリスト者として為すべきことをしようという先生の姿に打たれました。批判者は所詮傍観者であり、主体者になるためには汗をかく事が必要なのです。先生もまたイエスに従い、「ヘセド」を生きておられるのです。砂漠化した大地が水路により緑化され、人々がそこに作物を植え、収穫物を前に喜び踊っているそばで、先生が満面の笑みを浮かべておられるビデオ映像を見ながら、それこそが「主に捧げる礼拝」ではないかと思いました。先生は言われました「米軍が武器を捨て、水路を掘ったら、アフガンは親米国となる」。教会の伝道も同じです。私たちが、「生かされている喜び」を生き、「為すべきこと」をしていけば、それが最大の伝道になります。詩編詩人が言うように「主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ」、そのことを私たちが生活の中で生き、証していくことこそ本当の礼拝であります。