1.ハレルヤ詩編
・7月から詩編を読んで来ましたが、本日の146篇で詩編の学びは終ります。詩編は150篇あり、その最後はハレルヤ詩編と呼ばれる5つの歌で締めくくられます。今日読みます詩編146篇はその讃美の中でも有名で、讚美歌(新生114番、わが霊よ、主をほめよ)にもなっています。この詩篇は最初に「ハレルヤ」で始まり、最後も「ハレルヤ」で終ります。ハレルヤとは、ハレル=賛美せよ、ヤ=主ヤハウェを、「主を賛美せよ」との意味です。
・しかし単純な賛美の歌ではありません。3節は歌います「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない」(146:3)。君侯=ネディビーム、支配者、権力者の意味です。「世の権力者により頼むな」、彼らは人の子=ベン・アダムに過ぎないと詩人は歌います。創世記では、人は土(アダマー)で造られた故に、アダム(人)と呼ばれ、神の息(ルーアハ)=霊が吹き込まれたゆえに生きる者となったとあります(創世記2:7)。神の息=霊が吹きこまれたから生きている存在は、霊が取り去られれば土に戻ります。だから詩人は歌います「霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる」(146:4)。「どのような権力者も神の息が取り去られれば死に、死んだ者は塵に帰る。塵に過ぎない、はかない存在に頼るな」と詩人は言っているのです。
・この言葉の背景には詩編記者の経験した歴史が息づいています。この詩篇が作られたのはペルシャ時代だと考えられています。イスラエルの国は紀元前7世紀にバビロンに滅ぼされ、人々は遠い異国の捕囚となりました。しかし、そのバビロンもペルシャによって滅ぼされ、人々は帰国を許されてパレスチナに戻ります。その帰国を指導したのはセシバザル(エズラ1:11)で、彼はダビデ王家の血を引いていましたので、人々は帰国したら再び王国を形成できると期待しましたが、セシバザルはペルシャ当局により抹殺されてしまいます(ある歴史学者はこのセシバザルがイザヤ53章の「苦難の僕」の原型ではないかと推測しています)。人々は失望しましたが、それでも預言者ハガイに励まされて神殿を再建し、やがて神殿再建事業の中心となったゼルバベル(ハガイ1:1)に王としての期待が高まりました。しかし彼もまたペルシャの迫害の中で死んでいきます。帰国後のイスラエルは結局、ペルシャ政府の容認の下で自治を許される植民地になります。そのような歴史の中で、「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない」という言葉が出て来ているのです。ここでの君侯はペルシャ総督やその周辺の権力者を指すのでしょう。ペルシャもまた滅びる、そのようなものに頼るなと詩人は言っているのです。
2.いかに幸いなことか、主を助けと頼み、待ち望む人は
・バビロンが滅んだようにペルシャもまた滅びるであろうとの歴史認識に立つ詩人は、人ではなく神に助けを求めよと言います。「いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人。天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は」(146:5-6)。人は山を動かすことも海を静める事もできないが、神にはできる。イスラエルの民はバビロン捕囚と言う逆境の中で、「神はこのバビロンの地にもおられる」ことを見出していきました。自分たちの信じる神は、天地を創造され、かつ支配しておられる方であることを知ったのです。だからどのような歴史状況の中でも、この天地を造り、支配されておられる神により頼んでいくという信仰が生まれてきました。
・権力者は貧しい人を虐げ、彼らのパンを取り上げ、従わない者を獄につなぐでしょう。その結果、貧しい人は迫害と貪りの中で身を屈めています。しかし、私たちの神は「虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになり、捕われ人を解き放ち、見えない人の目を開き、うずくまっている人を起こされる」(146:7-8)方だと詩人は叫びます。その主はまた「従う人を愛し、寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。しかし逆らう者の道をくつがえされる」(146:8-9)方でもあります。詩人がここで言っていますのは、かつてあなた方を迫害したアッシリヤもバビロンも滅んだのに、弱いあなたがたは生かされているではないか。今あなたがたを支配しているペルシャもやがて主が滅ぼしてくださる。だからあなたがたは、現実の政治的不満や社会的不平等を嘆くのではなく、あなたがたの出来ることをせよというメッセージがここから聞こえてきます。
・主は「虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになり、捕われ人を解き放ち、見えない人の目を開き、うずくまっている人を起こされる」と詩編146編は歌いますが、これを生涯の課題とされた方が、私たちの主イエス・キリストです。イエスは宣教の始めにナザレの村で宣言されました「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18-19)。イエスはまさに詩編146編を宣言されたのです。
・「You raise me up」という歌が今多くの人の心をとらえています。教会でも、教会の外でも広く歌われています。次のような歌です「When I am down and, oh my soul, so weary, When troubles come and my heart burdened be(心が打ちひしがれ、疲れきった時、困難がおとずれ、心に重荷を負った時)、Then I am still and wait here in the silence, Until you come and sit awhile with me(ここで静かに待ちます。あなたが来て、共にいてくれる時まで). You raise me up, so I can stand on mountains. You raise me up, to walk on stormy seas(あなたが力づけてくれるから、山の上に登ることもできます。あなたが力づけてくれるから、嵐の海も歩くことができます)。I am strong, when I am on your shoulders, You raise me up to more than I can be(あなたの力によって、私は強くなることができます。あなたが力づけてくれるから、一人ではできないこともできます)。「主はうずくまっている人を起こされる」(146:8)、「 You raise me up」、この歌もまた詩編146編の素晴らしい解釈の歌ではないでしょうか。
3.私たちの生き方
・今日の招詞に使徒言行録4:29-30を選びました。次のような言葉です「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。
・使徒言行録はイエスの十字架の時に逃げた弟子たちが、復活のイエスに出会って、再びエルサレムに戻って宣教を始めたことを伝えています。エルサレムに戻ったペテロとヨハネが神殿に行った時、そこに足の不自由な人がいて、彼らはその人の足を「イエスの名において」癒します。周りの人々が奇跡に驚いて集まってきた時、ペテロはその人々に説教を始めます。2ヶ月前にイエスを捕らえ、処刑したユダヤ当局者にとって、イエスの弟子たちがまた戻ってきて、「イエスは生きておられる。この人を癒したのは、復活されたイエスだ」と宣教することは耐えられない出来事でした。彼らはペテロとヨハネを捕らえて言います「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(使徒言行録4:7)。権力者たちはイエスを処刑することによって、事は終わったと思っていました。ところがその弟子たちがどこからか現れ、「イエスは復活した、私たちはその証人だ」と言い始め、民衆がそれを信じ始めています。「これは危険だ、何とかしなければいけない」と権力者たちは思い、ペテロとヨハネを逮捕しました。
・権力者たちは、弟子たちを捕まえて脅せば、すぐに黙ると考えていました。しかし、臆病だった弟子たちが反論を始めます。「(イエスの他に)他のだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(同4:12)。2ヶ月前には当局の目を恐れ、逃げ隠れしていたペテロが、今はイエスのために弁明を始めています。思わぬ反撃を受けて、権力者はたじたじとなります。今彼らを殺せば、民衆は騒動を起こすでしょう。弟子たちは言葉と業で民衆の心を捕らえていたからです。権力者に出来ることは、二人を脅して釈放することだけでした。彼らは弟子たちに言います「今後、あの名によって誰にも話してはいけない」。しかし、ペテロは言います「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(同4:19-20)。
・釈放されたペテロたちは仲間のところに戻り、共に祈り始めます。その祈りが今日の招詞箇所です。彼らは最初に祈ります「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」(同4:24)。あなたこそ創造主であり、あなたこそ支配者です。あなたは何でもできます。ですから「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(4:29)と祈ります。彼らは「迫害を私たちから取り除いてください」とも、「弾圧から救ってください」とも祈りません。彼らは迫害を神が与えられたものと考えています。イエスの十字架死が神の御手の中の出来事であるように、自分たちへの迫害もまた神の御手の中の出来事であるとの信じる故です。「幸いや祝福だけでなく、災いも苦難も御心として受けて行きます。その中で大胆にあなたを証しする力を与えて下さい」と彼らは祈りました。この祈りの中に、「天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神にこそ依り頼む」という詩編146編の信仰が息づいています。
・ペテロたちは逃げましたが、戻ってきました。戻ることによって新しい困難を与えられましたが、その困難を神からの試練として受け止めようとしています。神の下さるものに悪いものはない、仮に今、自分たちの教会に迫害が与えられるなら、それを必要な試練として受けよう。この試練を通して、神は良い業をなそうとしておられるのだから。この信仰があれば、世の中に怖いものはなくなります。底の底に転落してもキリストは救って下さる。もし救って下さらないとしたら、底の底で何かをなすように召されているのです。
・私たちがこの信仰「たといどのようなことがあろうとも、それは全てを造り、全てを支配しておられる神のみ手のうちにある」ことを信じる時、人生の意味が変わります。現実の社会の中には「悪しき者が栄え、正直者は馬鹿を見る」事実があります。「頑張る人が必ずしも報われず」、「病の中で苦しみ、無念のうちに死んでいく」現実があります。私たちの周りには多くの不条理があります。しかし「神がこの世界を支配しておられる」のであれば、終には「そこに神の業が働く」のを私たちは見るでしょう。バビロン捕囚は短期的にはイスラエルに対する災いでしたが、その捕囚地で人々は、神が天地万物を創造し、支配しておられることを見出しました。現実の世界では彼らはペルシャの植民地として苦しみ、ペルシャが滅んだあとはギリシャの、そしてローマの支配を受けました。しかし、今ペルシャはなく、ギリシャもローマもないのに、イスラエルは民族として生き残っています。彼らの信仰が彼らを生き残らせたのです。「主はとこしえに王、あなたの神は世々に王」(146:10)、どのような状況の中でも主を賛美していく力、ハレルヤと歌いながら生きる力こそが信仰であり、信仰は人を変え、世を変革していく力を持つのです。