江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年6月13日説教(マタイ6:25-34、必要なものは神が与えて下さる)

投稿日:2010年6月13日 更新日:

1.生活のことで思い悩むな

・今日の聖書箇所を、新共同訳聖書は「思い悩むな」という表題を付けています。私たちは、「必要なものは神が与えて下さる」と言う表題を付けました。内容的には同じです。「必要なものは神が与えて下さるから、思い悩むな」、イエスの言葉をそれぞれ違う面から受け取るゆえに、表題の違いが出てきます。
・イエスは集まってきた人々に言われました「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(6:25)。人生の最大関心事は「生きていくための糧をどう手に入れるか」です。それをイエスは、「何を食べようか」「何を飲もうか」、「何を着ようか」という具体的な問いの形で提示されます。現代社会では、お金を出せば、食べるもの、飲むもの、着るものは手に入りますから、現代では「どのようにしてお金を手に入れようか」という問いになります。人は働いてお金を得るのですが、誰でも、安定した、高い収入を求めますので、そこには勝ち抜くための競争が生まれ、その過程で思い悩むという出来事が生じます。また失敗者には挫折や絶望が与えられますから、それも思い悩みになります。
・そのような私たちにイエスは、「空の鳥を見よ」と言われます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」(6:26a)。人間は当初は「狩猟採取」によって必要な糧を得ていましたが、やがて農耕生活に移行することによって文明を形成するようになります。種まき、刈り入れ、倉への貯蔵は代表的な農作業を示します。文明(culture)と言う言葉が農業(agri-culture)から派生していることは印象的です。また耕す=へブル語アーバードは奴隷にするという意味も持つようです。農業を始めるようになって、人は安定的に食糧を確保し、余剰を蓄積し、富(資本)が生じ、やがては貧富の格差を生みだしていきます。安定的に食糧を確保するようになった人間は、それが恵みではなく、自分の力で得ていると思うようになりました。しかし実際の農耕においては、天候や災害の有無によって収穫が左右されますので、人間は思い悩むようになります。狩猟採取の時代にはそこにあるものを食べる、空の鳥のような生き方でした。その時には思い悩むことはなかった。しかし蓄えるようになり、蓄えの中に将来の安心を見るようになって、思い悩みが生じました。並行箇所のルカでは、「愚かな金持ちのたとえ」の後に、「思い悩むな」という言葉が語られています(ルカ12:22-34)。
・思い悩む人間にイエスは言われます「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(6:26b)。自然の恵みにすがるしかない空の鳥を父なる神が養って下さるとしたら、ましてやあなたがたを養われないことがあろうか。そしてイエスは言われます「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(6:27)。私たちが思い悩む時、私たちは自分の力で事態を変えることができるという前提に立っています。穀物の成長を規定するのは水と日光であり、「私たちは天候を左右できない」という事実を忘れています。この人間の思い上がりが「思い悩み」を生むのです。ある人は言うでしょう「人間の知恵は化学肥料や農薬を生みだし、大地を支配し、収穫量を飛躍的に増やすことができる」、そう考えた人々は「緑の革命」を起こしました。高収穫品種を開発し、化学肥料によって土壌を改善し、農薬投与によって収穫を増やそうとした実験です。短期的には収穫は増えましたが、その代償として、土壌から大量の栄養分が失われ、農薬により水が汚染され、大量の地下水使用による塩害が発生し、その結果、「沈黙の春−すべての生き物が死ぬ」(レイチェル・カーソン)という環境汚染による生態系破壊が生じました。
・人間の出来ることには限界があり、それ以上のことは神に任せよとイエスは言われますが、人間はイエスの言葉を聞こうとはしません。「思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」、現代人は出来ると思い、医薬品の開発にまい進し、日本人の平均寿命は男78歳、女84歳まで伸びました。しかし、健康寿命は男71歳、女76歳であり、平均寿命と健康寿命の差8年が不健康期間となりました(WHO調べ)。つまり、寿命の伸びは寝たきりや認知症、要介護という犠牲を伴って生じたものであり、周りの人に思い悩みを生じさせています。「私たちは死ぬ存在である」ことを忘れるゆえに、思い悩みが生じるのではないかとイエスは言われます。

2.一番大事なことは何か

・26節から「空の鳥」に続いて、「野の花」が話題になっています。イエスは言われます「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない」(6:28)。働く、紡ぐ、ここでは女性の労働が暗示されています。「野の花は働きもせず、紡ぎもしないのに、あんなに見事な花を咲かせるではないか」。私たちが野の花を見る時、なんと美しいのだろうと思うだけです。しかしイエスはそこに神の働きを見られます。野の花のような人の目にもつかない小さなものにさえ神は配慮して下さるのに、「まして、あなた方にはなおさらではないか」とイエスは言われます。私たちは思い悩みますが、それは配慮して下さる父なる神の働きを見ようとしないからです。神の働きを見ようとしない私たちを、イエスは「信仰の薄い者たちよ」(6:30)と言われます。
・私たちには信仰はあります。ただ信じきることができないゆえに、「信仰が薄い」のです。信仰の薄い私たちにできることは祈ることだけです「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9:23)。そう祈る私たちにイエスは言われます「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(6:31-32)。異邦人(信じない者)は自分の力で何とかできると思うゆえに、思い悩みます。しかしあなたには薄くとも信仰が与えられているではないか。そうであれば、「神が命を与えて下さったのであれば、命を養う糧を与えて下さることは当然である」ことを知りなさい。
・だからあなたが求めるべきは「神の国と神の義だ」(6:33)。そうすれば「必要なものはみな加えて与えられる」とイエスは言われます。最後にイエスは締めくくられます「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(6:34)。明日何が起こるか、私たちは知りません。知らないことを思い悩んでも仕方がないのです。「今日、必要なものを神はお与えになった、そうであれば、明日必要なものもお与えになるだろう。それを信じていくのが信仰者の生き方なのだ」と。

3.良いものを下さる主と共に生きる

・今日の招詞に、申命記8:4を選びました。次のような言葉です「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」。申命記8章はエジプトを出て、40年間荒野を放浪し、今、約束の地カナンに入ろうとしている民にモーセが語った戒めです。彼は民を集め、神が何をして下さったかを覚えて、新しい地での生活を始めるように教えます。最初にモーセは言います「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」(8:2)。主が何故、あなたたちを40年間も荒野に導かれたのか。それは「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(8:3)とモーセは言います。パンは人が生きるために必要です。そのパンを与えて下さるのは主なる神なのだということを知るために、あなたたちは荒野に導かれたのだとモーセは言いました。そして主は「あなたたちを養う」という約束を40年間守られ、その結果「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」。そして今、あなたたちは約束の地に入ろうとしている。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。・・・良い土地を与えてくださったことを思ってあなたの神、主をたたえなさい」(8:7−10)とモーセは言います。
・イスラエルの民は、どのような思いで、荒野の旅をしたのでしょうか。今を我慢すれば、「乳と蜜の流れる地に入ることが出来る」ことを目指して、荒野を歩いたのでしょうか。最初はそうであったに違いありません。エジプトでの奴隷生活から、自由な生活に脱出することが、彼らの願いでした。しかし、主が民を約束の地に導きいれたのは、すぐにではなく、40年後でした。エジプトを出た第一世代の人々の大半は荒野で死にました。もし約束の地に入ることが救いであれば、入れなかった彼らは救われず、荒野の40年間は無駄な時間だったのでしょうか。そうではないでしょう。申命記8:11以下を併せ読むと、「約束の地に入ることが救い」ではないことがわかります。12-14節「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」とモーセは言います。約束の地に入れば、人々は物質的に満ち足りて、もう神を求めなくなるであろうことを、モーセは知っていたのです。そしてやがて「自分の力と手の働きで、この富を築いた」(8:17)と思うようになる。その時から、堕落が始まります。救いとは約束の地に入ることではないのです。
・では救いと何か。荒野で、水が無い時には主は岩を開いて水を与えられ、食べ物が無い時には天を開いてマナ(パン)をお与えになりました。肉が必要な時には渡り鳥のうずらを与えてくれました。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはありませんでした。救いとは、はるかな先に成就する夢のことではなく、今生かされていることなのです。現実の生活の厳しさの中で、「あなたを養う」という神の約束が成就し続けていることを見ることこそ、救いなのです。イエスがマタイ6章で言われていることもまさにそうなのです「食物と着物の心配をするゆえに、あなたは与えられた体と命をだめにしているではないか。救いとは恵みなのだ。その恵みをそのままいただけば良いではないか」。
・私は50歳の時にそれまでの勤めを辞めて神学大学に入りました。神学を学びながら、いつも不安でした。「当面の生活費は退職金により支えられている。でもそれがなくなったらどうすればよいのか」。大学卒業後、神は篠崎キリスト教会の牧師としての働きの場を与えて下さいました。それでも心配でした。当時の篠崎キリスト教会の礼拝参加者は15名前後、経常献金は300万円を下回っていました。「この教会からの牧師給で家族を養っていけるのだろうか」、いつも思い悩んでいたように記憶しています。9年後の今、過去を振り返ってみた時、なぜもっと神に信頼することができなかったのだろうと赤面しています。人の心配ごとの90%は実際には起こらないと言われています。人間は起こる可能性のほとんどないことを思い悩んで時間とエネルギーを費やし、自らを不幸にしているのです。それよりも、「明日のための心配から解放されて、今ここに生かされていることを喜びなさい」とイエスは言われているのです。

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