1.敵を憎むのは当然だ
・聖書教育に従って、マタイ福音書を読んでいます。イエスはガリラヤ湖畔の丘の上で、弟子と群集を前にして、説教されました。マタイ福音書は5章-7章にこの山上の説教を記しています。その中でも、有名な言葉の一つが、今日の聖書個所「敵を愛しなさい」(5:44)でしょう。イエスは言われました「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:43-44)。「隣人を愛せ」とはレビ記19:18に書いてあります「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である」。
・「隣人を愛せ」とは聖書の中の言葉ですが、後半の「敵を憎め」とは聖書のどこにも書かれていません。しかし、多くの民族が狭い地域に混在して住むイスラエルの人々にとって、隣人とは同じ民の人々、同朋のことであり、同朋でないものは敵でした。パレスチナの人々は高い城壁をめぐらした町の中に住み、敵が攻めてきた時には、城門はいつでも閉めることができる構造になっていました。城門の内側にいる人だけが隣人であり、城門の外にいる人々は何をするかわからない人々、敵であり、敵を愛することは彼らにとって身の危険を意味しました。だから、人々の理解では「隣人を愛するとは、隣人でない者=敵を憎む」ことだったのです。その人々にイエスは「敵を愛しなさい、城門の外にいる異邦人もまたあなたの隣人ではないか」と言われたのです。
・敵を憎むのは人間にとって自然の感情です。46-47節にあるように「人間が愛するのは自分を愛してくれる人であり、人間が挨拶するのは自分の兄弟だけ」です。私たちの生活を見ても、私たちが愛するのは自分の家族であり、友人であり、同僚です。共同体の中側にいる人が隣人であって、その外にいる人は敵、あるいは無関係の人であって、愛する対象ではありません。しかし、イエスは言われます「あなた方は私の弟子ではないか。私に従うと言ってくれたではないか。取税人でもすること、異邦人でもすることをして十分だとすれば、あなた方が私の弟子である意味は何処にあるのか」。イエスは続けて言われます「あなた方は私を通して父なる神に出会った。そして、神の子となった。天の父が何を望んでおられるのか。父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」ではないか(5:45)。「父はあなた方が敵と呼び、悪人と呼ぶ人たちも愛されている。だから、あなた方も父の子として敵を愛せ。父が完全であられるようにあなた方も完全であれ」(5:48)。
・古代において、またイエスの時代においても、敵を愛するのは危険でした。現代でもそうです。多くの人々はキリスト者を含め、イエスの言葉はあまりにも理想主義的であり、非現実的だと考えました。人々は言います「愛する人が襲われた時、愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。そうしなければ、この世は不正と暴力で支配されるだろう。悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は古代から現代まで貫かれています。軍隊を持たない国はないし、武器を持たない軍隊はありません。武器は敵を殺すためにあります。襲われたら、襲い返す、その威嚇の下に平和は保たれています。「目には目を、歯には歯を」、人間は有史以来、戦争を繰り返して来ましたし、今も繰り返しています。現政権を揺るがしている沖縄の普天間基地移設問題も、米軍、軍事力の存在なくして日本の平和は守れないという前提に立っています。本当に米軍基地が必要なのか、軍事力なしには日本の平和は守れないのかという議論がされていないのは残念です。
2.しかし、イエスは敵を愛せよと言われた。
・イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。今日のテキストの少し前、5:38以下でイエスは言われます「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。人々はイエスを理解することが出来ません。カール・マルクスは言います「あなた方はペテンにかけられても裁判を要求するのは不正と思うのか。しかし、使徒は不正だと記している。もし、人があなた方の右の頬を打つなら左を向けるのか。あなた方は殴打暴行に対して、訴訟を起こさないのか。しかし、福音書はそうすることを禁じている」。マルクスにとって、山上の説教は愚かな、弱い人間の教えに映りました。彼は殴られたら殴り返すことが正義であると信じ、その正義が貫かれる社会を作ろうとしました。彼の弟子であるレーニンやスターリンはマルクスの意志を継いで、理想社会、共産主義社会を作ろうとしましたが、それは化け物のような社会になってしまいました。何故でしょうか。前に見ましたように、殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは何をするか解らない、信用の出来ない存在になります。人間がお互いを信じることができない社会においては、人間は幸福になることができません。「米国の軍事力なしには日本の安全は保てない」という論理も、どこかで破綻する可能性を持っています。少なくとも聖書はそう見ます。「イエスの言葉は本当に非現実的なのか、この世では通用しない言葉なのか」、私たち信仰者は考える必要があります。
・イエスは「右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だ」と言います。イエスの弟子パウロは「敵を愛せよ、愛することによって、敵は敵でなくなる」と言います。その言葉がローマ12:19-21にあります「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい・・・あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。「善を持って悪に勝て、敵にあなた方の信仰を示し、敵を変えよ」と、パウロは言います。イエスが言われた、敵対関係を一方的に切断せよとの考え方をパウロも継承しているのです。
3.敵を愛する時、平和が生まれる。
・今日の招詞にエペソ2:14-16を選びました。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。
・キリストの十字架が敵意を滅ぼすとパウロは言います。平和が生まれないのは、敵が敵であり続ける為であり、キリストを信じることによって、私たちはこの敵意と言う隔ての壁を取り除くことができるのだと。何故ならば、キリストが私たちのためと同じく、敵のためにも死んでくれたからです。イエスは十字架上で自分を殺そうとする者に対して、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と祈って死んでいかれました。イエスの弟子たちは復活のイエスに出会って、再びエルサレムでの宣教を始めますが、その弟子たちにも迫害の手は容赦なく襲い掛かります。弟子の一人ステパノは石打の刑で殺されますが、彼は「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで死んでいきました(使徒7:60)。イエスの言葉がステパノにおいて祈られました。その後、教会はローマ帝国によって迫害されていきますが、イエスの弟子たちはローマに報復せず、伝道しました。イエスの十字架から300年後、キリスト教はローマの国教になります(313年、ミラノ勅令)。報復しなかった敗者が力を誇った勝者を征服したのです。「善をもって悪に勝て」というパウロの言葉が世界史の中で、成就したのです。
・マルテイン・ルーサー・キングは、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行いました。当時、キングはアトランタのエベニーザ教会の牧師でしたが、黒人差別撤廃運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていました。そのような中で行われた説教です。キングは言います「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」と彼は聴衆に語りかけました。
・「愛が敵を友に変える」、キングは歴史を導く神の力を信じました。だから自らの手で敵に報復しないで、裁きを神に委ねました。白人は黒人を差別し、投獄し、彼らの家に爆弾を投げ込みました。しかし、キリストは彼らのためにも十字架にかかられたから、白人を憎まない。人間の愛は、「隣人を愛し敵を憎む」愛です。しかし、キングはそれを超える神の愛、アガペーを私たちの人間関係にも適用すべきだと言います。何故ならば、「天の父の子となるためである。あなたがたは信仰者ではないか、信仰者であれば歴史は神が導かれることを信じていこう」。キングの言葉にアメリカは変わりました。キングは1968年に暗殺されて死にましたが、アメリカは18年後の1986年に、キングの誕生日である1月15日を国民の祝日にしました。
・キングの言うように、私たちには敵を好きになることはできません。「好き」は感情であり、私たちは感情を支配することはできないからです。しかし、アガペーの愛は感情ではなく、意思です。イエスは言われました「自分を迫害する者のために祈れ」、私たちは嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために手を合わせることはできるし、祈ることはできます。嫌いな人、自分の悪口を言う人、自分に敵対する人のために祈るという実験を私たちも始めるべきです。その祈りは真心からのものではなく、形式的なものでしょう。しかし形式的であれ、祈り続けることによって、「憎しみが愛に変わっていく」体験をします。祈りながら、その人を憎み続けることはできない。何故ならば、神の赦しを乞い求めながら、他方で兄弟の赦しを拒むことはできないからです。この時、私たちは「神の子」となります。「父が完全であられるようにあなた方も完全であれ」、これは道徳的に無欠なものになれということではありません。ルカはこの個所を「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と言い換えます(ルカ6:36)。神から憐れまれた者、愛された者として、相手を愛せと言われているのです。
・イエスは私たちに、不可能な、非現実的なことを求めておられるのではありません。イエスの十字架上の祈りをステパノも祈ることができました。そしてキングも出来ました。私たちも出来るでしょう。何故なら、私たちもまた、ステパノやキングの信仰を継承する者だからです。パウロは言いました「知識(グノーシス)は人を高ぶらせるが、愛(アガペー)は造り上げる」(�コリント8:1)。アガペーの愛は相手の悪を数えないゆえに、その愛は人を造り上げるのです。キリストの十字架と復活に立つ信仰は、私たちにアガペーへの道、兄弟を愛する道に導きます。