江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年12月12日説教(ローマ14:1-23、兄弟を裁くことをやめよう)

投稿日:2010年12月12日 更新日:

1.お互いを裁きあうローマ教会の人々

・アドベントを迎えています。今日がアドベント第三主日で、次週はクリスマス礼拝の時を迎えます。私たちは毎年クリスマスには、「おめでとう」と挨拶しますが、それは何故でしょうか。イエス・キリストがお生まれになったことが、2000年前に起こった出来事というだけにとどまらず、今生きている私たちにとっても重大な意味を持つ出来事だからです。キリストの降誕によって世界は新しくなった、私も新しくされた、その新しい世界に生きる新しい私たちはどう生きればよいのか、それを考える時がクリスマスの時です。今日はローマ14章を通して、クリスマスの意味を考えてみます。
・パウロはローマ書1-8章で、神は私たちを救うためにキリストを遣わされたと述べ、続く9-11章で反逆したイスラエルさえ神は救おうとされていると述べました。今日読みます12章以下はこの神の側からの救済行為に対し、私たちはどう応答すべきかを述べています。パウロは12章の初めで言います「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(12:1-2)。私たちは新しく生まれ変わった、今私たちは天に国籍を持つのであって、地にのみ属する世の人とは根本的に生活が変えられた。「罪はもはや、私たちを支配することはない。私たちは律法の下ではなく、恵みの下にいる」(6:14)からだとパウロは言います。
・しかし「恵みの下にいる」はずの私たちが、相変わらず罪を犯し続け、天に国籍を持つ人の集まりである教会もまた罪を犯し続けています。ローマ書はパウロがローマ教会に送った手紙ですが、何故パウロはこの手紙を書いたのか。それはローマ教会の中に争いがあり、そのような無益な争いを止めるようにパウロは手紙を書いたのです。その争いが14章に書かれています。パウロは書きます「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(14:1)。14:2以下の記述を見ますと、宗教的な配慮から肉食を避け、野菜だけを食べる人たちが教会内にいて、パウロはその人たちを「信仰の弱い人」と呼んでいます。教会のある人たちは「何を食べても良い」と信じていましたが、別な人たちは、「肉を食べることは罪だ」と考えていたようです(14:2)。
・何を食べても良いとする人たちは、おそらく多数派の異邦人キリスト者で、彼らはギリシャ・ローマの流れを汲む自由主義者でした。他方、肉を食べてはいけないとする人たちは少数のユダヤ人キリスト者で、ユダヤ教の禁欲的な伝統で育ち、穢れたものは食べていけないという教えを守って来た人々と思われます。当時は異教神殿で動物犠牲として捧げられた肉が市中に出回っており、肉を食べるという行為は偶像の神に捧げられたものを食べることとなり、それはいけないと考えたユダヤ人信徒が多かったのでしょう。ユダヤ教には厳しい食物規定があり、それを守ることが信仰だと考える人々がいたのです(使徒15:29)。その中で、自由主義者たちは、禁欲的な人々を「信仰の弱い者」として軽蔑し、他方ユダヤ人信徒は節度を守らない人々を「罪人」として裁いていたようです。パウロはこのような人々に言います「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」(14:3a)、何故ならば「神はこのような人をも受け入れられたからです」(14:3b)。
・パウロの考え方は明白です。彼は言います「それ自体で汚れたものは何もないと、私は主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」(14:14)。イエスは言われました「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが人を汚すのである」(マルコ7:15)。だからパウロは何を食べても良いと考える人たちを律法の規制から解放されているという意味で「信仰の強い人」と呼び、食べてはいけないと思い込んでいる保守的な人たちを「信仰の弱い人」と言ったのでしょう。では何を食べても良いのだから自由主義者が正しいのか、パウロは違うと言います。たとえ何を食べても良いとしても、肉を食べることでつまずく人がいるのに肉を食べるのは間違っていると彼は言います。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」(14:15a)。何故ならば「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14:15b)。正しい行いであっても、その行いが人を傷つける時、それは正しいものではなくなります。パウロは続けます「 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。全ては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」(14:20)。
・また、ある人たちは「特定の日」を重んじていました。ちょうど私たちが「仏滅」や「友引」を気にするのと同じです。熱心なユダヤ人は特定の日に断食する風習がありましたが、自由主義者はそれを見て「何と不自由な生活をしているのか。信仰は人を解放するものではないか」と嘲笑したのかも知れません。しかし、ここでパウロは繰り返します「特定の日を重んじる人は主のために重んじる」(14:6)。相手を理解し、受け入れないのはあなたにキリストの愛がないからだと。

2.全ては許されているが、全てが益になるわけではない
・「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」、この言葉を私自身が体験したことがあります。私たち家族は10数年前に、仕事でオーストラリアに6年間駐在しました。その地で、日本で宣教師として働き、引退してシドニー日本人教会の牧師をされていたヘイマン夫妻と出会いました。ある時、ご夫妻を食事に招いた時、ヘイマン先生はワインを一滴も飲まれませんでした。ワインを飲まないオーストラリア人に出会ったのは初めてでした。理由を尋ねた時、先生は言われました「あなたはワインを楽しみなさい。ワインは神様からの贈り物です。でも私は飲みません。お酒を飲むことによってつまずく人がいるかもしれないからです」。ヘイマン先生は、自分は飲んでもかまわないと思っても、他者のために「飲む自由」を捨てました。ここに福音信仰を生きている一人のクリスチャンがいました。私が後年牧師になった理由の一つは、ヘイマン先生の生き方に対する感動があったような気がします。
・パウロは言います「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」(14:6b)。多様性の中にあってお互いを受け入れあう、それが教会の理想ですが、現実の教会はそうではありません。現実の教会は内部争いばかりしている、そこに問題があります。現在、日本キリスト教団では「主の晩餐式(聖餐式)」を巡る争いが起きています。「まだ洗礼を受けていない人は主の晩餐にあずかってはいけない」と考える教団主流派の人々が、未洗礼者を含む礼拝参加者全員への晩餐を実行し、是正勧告に応じなかった牧師を免職したのです。主の晩餐を洗礼者だけに限るか、全ての人に開放するかは、いずれも聖書的根拠があり、神学的に争いのある事柄ですが、それが牧師の免職まで行けば、まさにローマ教会と同じ「裁き」がなされていると考えざるを得ません。クリスチャン人口1%の日本で求められているのは、いまだキリストを受け入れない人々にどのように伝道すべきかの知恵と実践であり、外部の人々にはどちらでもよい事柄で内輪もめすることではないでしょう。パウロは言います「私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(14:8-10)。人と言う視点で見れば「裁き」が必要かもしれませんが、神の前では「愛、赦しあい」が求められています。

3.教会の一致のために
・今日の招詞にローマ12:4-5を選びました。次のような言葉です「というのは、私たちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。私たちは多くの兄弟姉妹と共に教会を形成します。部分が集まって全体(教会)を形成しています。部分である個人個人は多様な価値観と世界観を持ちます。お酒を神が下さった恵みとしていただく人もいるし、酒の害を見てお酒を飲むことは罪だと思う人もいます。肉を食べても良いと考える人もいれば、肉は動物の生命を絶って食べるのだから、「殺すな」という戒律に反すると考える人もいます。どちらが間違っているのでもなく、どちらも正しい。
・しかし、教会において求められるのは人の正しさではなく、神の正しさです。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(14:17)とパウロは言います。「肉を食べてもよいか」、「未受洗者に晩餐を配っても良いか」という問題は、「神はこの人をも受け入れられた」、「キリストは彼のためにも死なれた」という真理の前では些細な問題です。その些細な問題で教会を壊してはいけない。パウロはコリント教会への手紙の中で述べます「全てのことが許されている。しかし、全てのことが益になるわけではない。全てのことが許されている。しかし、全てのことが私たちを造り上げるわけではない」(�コリント10:23-24)。自分の正しさだけを主張していく時、教会は壊れるのです。
・教会の中には信仰の立場の違いが生じるのは当然です。主の晩餐式やバプテスマの理解も人により異なるでしょう。その時、異なる人を排除するではなく、多様性を認めて行くのが教会です。何故ならば、裁きをなさるのは神であって私たちではないからです。パウロは言います「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(14:10)。この世にあっては「違う者」は排他されます。しかしあなたがたは「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14:15)。教会でこの世と同じ裁きがされているとしたら、あなた方の信仰はどこにあるのかとパウロは問いかけます「もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」(14:13)。お酒を飲んでもかまわない、全ては許されているのだから。しかし、あなたがお酒を飲むことで兄弟がつまずくのであれば、兄弟の前でお酒を飲むのを止めなさい。
・何をしても良いが、隣人への愛が行為を制約します。キリスト者の自由とは、自分の権利を相手のために放棄することです。キリストが来て下さった、私のために死んでくださった、この愛を知った時に私たちは根底から変えられます。私たちはキリストが私たちを赦してくれたのだから他の人を赦します。たとえ誰かが私たちを憎み私たちにつばを吐きかけようと、私たちはつばを吐き返すことをしません。キリストは彼のためにも死んでくださったのですから。病気の人が教会に来ても病気が良くなるわけではありません。貧乏な人が教会に来ても金持ちになるわけではありません。しかし、病気のままに、貧乏のままに祝福を受けるのが教会です。外部状況は変わらなくとも内側から新しい人間に変えられて行くのが、教会と言う場です。その教会にあって、「互いに争いあうのは止めなさい。自分と違うものを受け入れなさい。全ては許されているが、全てが良いものを作り上げるのではないことを知りなさい」とのパウロのメッセージこそ、クリスマスを迎えるこの時に聞くべき使信です。

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