1.主の公現日にイザヤの使信を聞く
・教会は12月25日にクリスマスを祝いますが、その12日後の1月6日に「主の公現」を祝います。公現=エピファネイア、現れるという意味です。マタイ福音書によりますと、この日、東方から三人の王たちが不思議な光に導かれてエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)と訪ねて来たとあります。この日にはマタイ2章と共にイザヤ60章が朗読されます。「世界中の人々が主の栄光を見て、エルサレムを訪れる」、その預言がイザヤ60章にあるからです。
・旧約聖書において、神の民とされたイスラエル民族は、世界史の中で自分たちの存在を主張する何物も持たない、小さく弱い民族でした。彼らは絶えず周りの大国の力に脅かされながら生きていました。歴史上、彼らのような小国が、大国によって滅ぼされ、国家も民族も消滅してしまった事例は数限りなくあります。イスラエルも周囲の国々からは、「風前の灯」のように、すぐ滅んでしまうような存在と考えられていました。ところがこの小さくて弱い民族に対して、預言者イザヤが驚くべき預言を語ります。それがイザヤ60章の預言です。
・彼は言います「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(イザヤ60:1~3)。歴史的に見れば、力も何も持たないイスラエルを目指して、世界の人々が集まってくるという事態が起こると考えられません。しかし、初代教会の人々は、このイザヤの預言がイエス・キリストが生まれられた時に、東方から三人の王たちが来て幼子のイエスを拝んだという伝承の中に成就したと理解しました。すなわち、イスラエルに生まれたイエス・キリストが世界の王になられ、世界中の人々がキリストを拝みに来ると彼らは主張したのです。マタイがこのことを福音書に書いた時、当時の人々は笑いました。そのようなばかげたことが起こるわけがないではないか。しかし、2000年の歴史はその預言が正しかったことを示しています。今日、世界人口の三分の一はキリスト教徒であり、毎年多くの人々がイエスの生まれたイスラエルに聖地巡礼で訪れます。今日はこのイザヤ60章の預言を通して、イエスがこの世に生まれられたことの意味を考えてみたいと思います。
・イザヤ60章の背景にあるのはバビロン捕囚からの解放です。紀元前587年、イスラエルはバビロニアによって国を滅ぼされ、首都エルサレムは廃墟とされ、国の指導者たちは捕虜として、遠い異国の地バビロンに連れて行かれました。その捕囚から50年がたち、人々は何とかバビロンで生活基盤を築きあげ、それなりの安定した生活を送っていた時、預言者が現れ、「主がペルシャを用いてバビロンを滅ぼし、あなた方を解放してくださる。共にエルサレムに帰ろう、主は荒野をエデンの園に、荒地を主の園にされる」と励ましました(51:3)。多くの人々は、安定した生活を捨ててまでも故国に帰りたくないとバビロンに残りましたが、信仰に燃えた少数の人々は祖国帰還の途につきます。紀元前538年のことです。しかし、帰国した民を待っていたのは厳しい現実でした。
・帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建工事でした。解放して下さった主に感謝したからです。帰国の翌年には、神殿の基礎石が築かれましたが、工事はやがて中断します。先住の人々は帰国民を喜ばず、神殿の再建を妨害しました。また、激しい旱魃がその地を襲い、穀物が不足し、飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲い、神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。そして人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンの方が良かったと民は言い始めているのです。
・この状況は、日本が戦争に敗れ、満州や朝鮮で暮らしていた人々が強制送還された時と共通するものがあります。着の身着のままで現地を追われ、日本に帰りさえすれば何とかなるとして、帰国した人々を待っていたのは、食糧難と迷惑そうな親族や近隣の顔でした。私の両親も満洲からの帰国民です。人々は生活の苦しさの中でつぶやきます「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。神に対する信仰まで揺らぎ始めていたのです。これに対して、「そうではない。問題は主にあるのではなく、あなたがたにあるのだ」と言って立ち上がった預言者が、第三イザヤと呼ばれる人です。
2.イザヤ60章の使信
・「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」とつぶやく帰国民に、彼は預言します「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(60:1-2)。約束の救いはすでに来ているのだと預言者は叫びます。ここに使われている時制は預言過去といわれるものです。へブル語の「預言過去」という時制は、未来のことをすでに起こったこととして聞いていくものです。今はまだ闇の暗さの中にあるが、すでに神の栄光はあなたの上に上った、やがて他の人々もその栄光を見てあなたの所にくるであろうとイザヤは言います。それが3節です「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(60:3)。闇に包まれている全世界の人々が、エルサレムに上る主の栄光を見て、これを慕って集まるであろう。「眠っている時ではない、起きよ」と預言者は人々を励まします。
・その時、王たちは手ぶらで集まるのではない、彼らはあなたの息子や娘たちを手に抱いてくるのであろうとイザヤは言います「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る」(60:4)。捕囚地バビロンから帰国したのはごく少数の人々でした。多くの者は異国にまだ留まっています。しかし彼らは帰国し、あなた方と共にエルサレムの復興に加わるであろうとイザヤは言っているのです。初期の帰還者たちはエルサレム神殿の再建に失敗しました。彼らが少数であり、神殿再建のために必要な人力も財力もなかったからです。しかし諸国から王たちが集められる時、彼らは神殿再建に必要な富を携えて来るとイザヤは預言します「そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ、国々の富はあなたのもとに集まる」(60:5)。また帰国の民は、世界中から黄金や乳香、家畜を連れ戻り、それらは全て主の祭壇に供えられるであろうともイザヤは預言します「らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。ケダルの羊の群れはすべて集められ、ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ、私の祭壇にささげられ、受け入れられる。私はわが家の輝きに、輝きを加える」(60:6-7)。エルサレムの神殿は再建されるだけではなく、そこで再び盛んな祭儀がささげられるとイザヤは伝えます。彼はどうしようもない闇の中で故国再建の希望をなくしている民に、すでに光は来ていると希望の使信を語ったのです。
3.闇の中に光を見ていく
・今日の招詞にマタイ4:15-16を選びました。次のような言葉です「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。マタイはイエスが宣教の業をガリラやで始められた時のことを、イザヤの預言を引いて「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と言います。ガリラヤの地はかつてアッシリアに占領され、その領土に組み込まれて、住民は異邦人の支配に苦しみました。その住民に解放の時が来て、彼らが光を見たように、イエスが来られて、暗闇に住む人々も解放の喜びを見るとマタイは言っているのです。
・ヴィクトール・フランクルという人がいます。彼は1905年にウィーンで生まれた精神科医でした。しかし、ユダヤ人でしたので、第二次大戦中、ナチスによって、強制収容所に送られます。彼の妻や子、また両親も収容所の中で死にました。フランクルは、持ち物を全部取り上げられ、素っ裸にされた時、心の中でこうつぶやきました。「あなたたちは私から妻を奪い、子どもたちを奪うことができるかもしれない。私から服を取り上げ、体の自由を奪うこともできるだろう。しかし、私の身の上に降りかかってくることに対して、私がどう反応するかを決める自由は、私から取り除くことはできない」。また収容所で絶望して自殺を決意した二人の囚人に、彼は語りかけました「あなたを必要とする何かがどこかにあり、あなたを必要としている誰かがどこかにいるはずです。そしてその何かや誰かは、あなたに発見されるのを待っているのです」(V.E.フランクル「生きる意味を求めて」から)。フランクルは、非人間的な扱いを受ける収容所の中で、なお人間としての誇りを失わず、人々に優しい言葉をかけ、生きる希望を持ち続けました。そして、人々が次々と死んでいく中でも、彼は生き延びました。彼と同じように、希望を持ち続けることを選んだ人たちも、また生き延びることができました。彼は言います「どんな状況でも人生にイエスと言うことができるのです」(V.E.フランクル「それでも人生にイエスと言う」)。
・先に、イザヤ60:1「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」という言葉の時制が、預言過去であると申しました。未来のことをすでに起こったこととして聞いていくものです。ですからこの箇所も正確に訳せば、「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」となります(口語訳参照)。現実は闇の中にあります。しかしその闇の中に既に光を見ていく、それが信仰者の生き方です。自分を取り巻く現実は暗く悲しい、しかし神が共におられるから絶望しない。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」と主が言われる故に、常に前を向いて歩いて行くのです。自分がなぜ強制収容所に送られるのか、自分の妻や子供たちがなぜ殺されなければいけないのか、わからない。世の中には理由のつかない、理不尽な出来事が多くあります。地震で家が倒される、勤めていた会社が倒産した、子供が病に冒されて死ぬ、なぜなのか分からない。わからない中で、そのことの中に意味を見出していく時、神の光が輝いてきます。
・今年12月19日にNHKで「たった一人の反乱」という番組が放映されました。全国犯罪被害者の会代表幹事の岡村勲さんを取り上げていましたが、彼は山一證券の顧問弁護士でした。1997年、山一證券の資金運用で損害をこうむったある男が、岡村さんの家を訪れ、彼の妻を殺害します。この日を境に犯罪被害者となった岡村さんは法廷の傍聴席に座り、司法がいかに遺族の気持ちを無視しているか感じるようになります。法律家としてではなく、妻を失った一人の男として、司法の在り方に怒りを感じます。岡村さんは妻の遺影の前で司法を変えると心に決めます。そして、他の犯罪被害者の方たちと共に「全国犯罪被害者の会」を設立、その努力が実り、2004年に犯罪被害者等基本法が作られました。「事件が起こっていなかったら、この運動はしていましたか」という問いに、岡村さんは答えます「してません。絶対に。たぶんのんきに旅行とかしてたでしょう」。不条理な、悲しい出来事が、時にして人を偉大な行為に駆り立てるのです。パウロは言います「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(�コリント7:10)。苦難をどうとらえるかで、それは人を命にも、死にも導くのです。ですから、信仰者はどのような状況の中でも、現実から目をそらさず、闇の中に光を見出していく、そのような人生を生きるのです。