1.水がぶどう酒に変えられた
・今日、私たちはヨハネ2章「カナの婚礼」の記事を、聖書日課として与えられました。物語の舞台は、ガリラヤのカナという小さな村です。そこはイエスの生まれ故郷ナザレのすぐそばにあります。村で婚礼の祝いがあり、イエスの母マリヤは手伝いに行っていました。恐らくは親戚の家の婚礼であったのでしょう。だから、マリヤは宴席の料理や飲み物について気を配っています。当時の婚礼の宴は1週間も続いたそうです。人々の生活は貧しく、普段は十分に食べることが出来ない。だから、婚礼の宴は村中の楽しみの時であり、人々は飲みかつ食べるために集まってきました。その時、宴席に欠かせないぶどう酒が足らなくなります。これは宴を主催する家族にとっては、一大事でした。マリヤも責任の一端を持つ者として困惑し、同じ席にいた長男のイエスに相談します「ぶどう酒がなくなりました」。どうしたらよいだろう、何とかできないだろうかとの相談です。
・それに対してイエスは答えられます「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません」(2:4)。非常に冷たい、そっけない返事です。マリアは母と子の自然的人情によってイエスの気持ちを動かそうとしますが、イエスはこれを拒否されます。「私の時はまだ来ていません」、宴席のぶどう酒がなくなった、神の目から見たら、ごく些細な出来事であり、神の力を用いるべき時ではないとイエスは判断されたのでしょうか。しかしマリアはイエスが何かをしてくれることを信じて、召使いたちに言います「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」(2:5)。イエスは拒否されても求め続ける母の信仰に動かされます。「求めなさい、そうすれば与えられる」、熱心な懇願は神の子の心を動かします。
・その家には大きな6つの水がめがありました。それぞれに2ないし3メトレステも入る水がめです。1メトレステは39リッターですから、3メトレステは100リッターです。100リッターも入る大きな水がめが、6つも置いてあったのです。イエスは召使たちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われ、水が満たされたのを見ると「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。召使たちが水がめから水を汲んで世話役の所に運んで行ったところ、それは最上のぶどう酒に変わっていました。世話役は花婿を呼んで言います「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(2:10)。水がぶどう酒に変わる「カナの奇跡」が起こったのです。ここでは奇跡がどのようにして起こったのかについての説明は一切ありません。奇跡は神の業であり、人間には説明できないからです。
・この物語の中心は「水がぶどう酒」に変えられたことではないでしょう。それなら、ただの魔術に過ぎません。物語の中心は、その水が「飲むための水」ではなく、「清めの水」であったことです。ヨハネは記します「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである」(2:6)。「清め」はユダヤ人にとって大事なことでした。マルコには「ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」(7:3-4)とあります。
・ここに律法に縛られた当時のユダヤ人の生活を、私たちは見ます。人々は身を清く守るために、汚れから遠ざかろうとしました。異邦人と交わるのは汚れだとして、異邦人の家には入ろうともしませんでした。また、律法を守らない人と交わることも汚れであり、外に出るとそのような汚れた人と道ですれ違ったかも知れないから、手足を洗い清めた後でないと家にも入れない。さらには、食べることを禁止された汚れた食べ物を気づかないで食べたかも知れない。彼らは、いつ汚れを受けたかもしれないとして、こわごわとした生活していたのです。だから、毎日の生活の中で大量の清めの水を必要とし、大きな水がめがいくつもなければ、安心して暮らしていけない毎日であったのです。
2.もう清めの水はいらない
・イエスは言われました「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(マタイ15:10−11)。私たちは「汚れる」ことを極度に恐れるユダヤ人をおかしいと笑います。でも、本当は私たちも「汚れる」ことを恐れて、暮らしているのではないでしょうか。学校でも職場でも家庭でも、最大の問題は人間関係です。私たちは人の言葉に傷つけられた経験があるから、今度は傷つけられまいと防御して暮らしています。人の口から出るもの、言葉が人を傷つけるのは、言葉が心にあるものを反映しているからです。「心にもないことを言う」という言葉がありますが、それは真実ではありません。人は心にあふれてくることを語るのです。そして、人の心の中にあるのは、悪い思いです。私たちが誰かを妬ましく思う時、その思いは言葉となって出てきます。私たちが誰かを嫌いだと思うとき、その思いが言葉となって相手を傷つけます。ヤコブはそれを次のように表現します「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は不義の世界です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(ヤコブ3:5-8)。現代の日本の社会では、言葉の暴力によって、多くの子どもたちが自殺に追い込まれています。
・イエスは外からの汚れを心配するユダヤ人たちに言われました「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」。汚れは水でいくら洗っても、清くはならない。汚れを気にして、家に何百リッターの清めの水がめを置いても問題は解決しない。私たちの生活もそうです。人間関係を良くしようといくら努力しても、それは変わりません。何故ならば、汚れは私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるからです。
・その汚れを、聖書は「罪」と呼びます。私たちの中にこの罪があり、その罪が人を傷つけ、自分も傷つけられているのです。その罪は自我、自分のことしか考えられない人間の業です。この自我という地獄から解放されない限り、平安はありません。その私たちの罪からの解放のために、イエスは十字架で死なれたと聖書は教えます。このぶどう酒はイエスが十字架で流された血を象徴しています。イエスが清めの水をぶどう酒に変えて下さり、そのことによって、人々が内心の汚れから解放される道が生まれのです。初代教会は「カナの婚礼」の記事を聖餐式の時に読みました。有名な話があります。6つの水がめに溢れるばかりの大量のぶどう酒では、婚礼の客は飲み尽くすことができなかっただろうと、ある人がヒエロニムスに尋ねました。 それに対して、彼は「だからこそ、今日の私たちが、そのぶどう酒を聖餐のぶどう酒として飲んでいるのです」と答えたと言うことです。
3.恵みと真理はイエスから
・今日の招詞として、ヨハネ1:16-17を選びました。次のような言葉です「私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」。ヨハネ福音書はイエスの活動の最初に、「カナの婚礼」と、「イエスの宮清め」の記事を持ってきます。「カナの婚礼」はヨハネ独自の記事ですが、そのまとめとしてヨハネは書きます「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)。カナでイエスは水をぶどう酒に変えられますが、この水は「清めに用いる」水でした。祭儀のための水が、イエスによってぶどう酒に、すなわち十字架の血に変えられて、もう祭儀の水は不要になったとヨハネは示唆しています。すなわち「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」のです。
・カナの婚礼に続いて、ヨハネはイエスの「宮清め」を書きます。他の福音書では、受難週の最後の出来事として記されている行為が、ヨハネでは最初に来るのです。イエスの宮清めに怒った祭司たちはイエスに迫って言います「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」(1:18)。それに対して、イエスは答えられます「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2:19)。口語訳は「私は三日の内にそれを起こすだろう」と訳します。原語「エゲイロウ」と言う言葉は、「起きる、目を覚ます」という意味ですので、口語訳の方が原意に近いと思われます。そして聖書の中では、この「エゲイロウ」という言葉は復活の意味に用いられます。復活は「神がイエスを死から起こされた」行為だからです。そうしますと、イエスがここで言われていることは、「あなたがたは私を殺すだろう。しかし父なる神は私を三日のうちに起こして=よみがえらせて下さる」という意味です。「あなた方は罪を清めるために動物犠牲が必要だとして祭儀制度を造り、神殿維持のために必要だとして神殿税を集めている。しかし私が人々のための贖いとして死ぬのだから、もう犠牲は不要であり、神殿も不要だ」としてイエスは神殿崩壊を預言されます。
・ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年頃ですが、当時の教会はユダヤ教からの迫害に苦しんでいました。その教会にヨハネは、「祭儀と律法を中心とするユダヤ教はもう役割を終えた。イエスの受難と復活を通してイエスが生きた神殿となられた。真理は私たちにある。主は復活して私たちと共におられる」ことを伝えたくて、福音書の初めに、カナの婚礼と宮清めの記事を持ってきたのです。イエスが自ら血を流されることを通して、人を縛る律法から私たちを解放して下さった、これが福音=良い知らせなのだとヨハネは強調しています。
・このことが私たちに教えますことは、もう律法の世界に逆戻りしてはいけないということです。イエスに従うとは道徳学者のような窮屈な生き方、「これをしてはいけない」、「あれをしてはいけない」という生き方ではありません。イエスが私たちに教えてくださったのは、喜びと祝福の中に生きることです。だから清めの水をぶどう酒に変え、それを楽しめと言われます。日本の教会には、禁酒禁煙という伝統がありますが、それはアルコールの害が社会問題となった18世紀のイギリスの教会から生まれた教えであり、それがアメリカに伝わり、アメリカ人宣教師を通して日本に伝えられたものです。イザヤは歌います「万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる」(イザヤ25:6)。聖書が私たちに語るのは、あふれるばかりのぶどう酒は神の祝福のしるしであるということです。そのことを忘れて、飲酒のマイナス面だけを見つめて、これを禁止するのが律法です。人間は信仰の本質でない事柄をいつの間にか本質に変えてしまいます。ここに律法主義の怖さがあります。
・禁欲と言う犠牲を捧げることを止めて、喜びをもって礼拝するようにヨハネは教えます。義務として礼拝に参加するのではなく、礼拝に参加することが喜びだから、教会に来て礼拝をささげる。その時、イエスの受難が、苦しみの象徴から、感謝と喜びのしるしになります。受難は復活への道を開く喜ばしい出来事なのです。ですから、英語圏の人々は、受難日を「Good Friday」と呼びます。「十字架につけられた救い主」という教えは理解が難しい事柄だとと思います。しかしイエスが十字架で死なれることにより私たちに祝福が与えられたことを、私たちは言葉だけではなく、生きかたでそれを証ししていきましょう。その時、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(�コリント1:25)ことを私たちは見るでしょう。