江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年9月12日説教(詩編103:1−22、私の魂よ、主を讃えよ

投稿日:2010年9月12日 更新日:

1.死の床から救いだされた者の祈り

・詩編103篇は重い病気に罹り、死の床から救いだされた詩人の感謝の歌です。詩人は歌います「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる」(103:3-4)。病を癒された詩人はまず自分の身に与えられた神の慈しみに感謝し、次に主の慈しみがイスラエルの民全体に及んでいることを感謝し、それのみならず、主の慈しみと憐れみは全人類を覆うことに驚嘆し、最後には天の御使たちにも「共に讃美せよ」と呼びかけています。詩編103篇は個人、民族、人類、天地と讃美が広がっていく、壮大なスケールを持つ歌です。そして中心になる言葉が、「主の慈しみ=ヘセド」という言葉です。
・最初に詩人は自分の魂に呼びかけます「私の魂よ、主を讃えよ。私の内にあるものはこぞって、聖なる御名を讃えよ。私の魂よ、主を讃えよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(103:1-2)。主は私を墓から、死の床から救いだしてくださった、そのことを忘れないと詩人は歌います。それが3節以下の言葉です「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる」(103:3-4)。当時の人々は病を罪の結果と理解しました。故に、癒しの前に罪の赦しが必要なのです。そして私たちの罪を赦されるのは主の慈しみ、ヘセドです。この慈しみを受けた者はそれを忘れることはありません。詩人は続けます「(主は)慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」(103:4-5)。
・6節から詩人の思いは自分だけではなく、イスラエルを救ってくださった主に向かいます。「主はすべて虐げられている人のために、恵みの御業と裁きを行われる。主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された」(103:6-7)。出エジプトでの「主の慈しみ」がここに記されています。イスラエルの民がエジプトで「虐げられていた」時、主はモーセを通して「恵みの御業と裁き」を行われ、私たちをエジプトから救いだしてくださったと詩人は歌います。詩人は続けます「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない」(103:8-9)。この言葉は出エジプト記34:6−7の引用です。エジプトから救いだされた民は喜び勇んで荒野の旅に出ますが、その旅は罪に満ちたものでした。民が逃亡した後、エジプト王は軍勢を整え、追跡して来ました。民は恐怖と混乱に襲われ、主を呪い始めます「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか・・・我々はエジプトで、ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましですと言ったではありませんか」 (出エジプト記14:11-12)。主は何も言わずに忘恩の民を助けらます。
・エジプト軍は海の中に沈みました。紅海の奇跡を見て、民は歌い踊って主を讃美しますが、数週間後、食べ物が底をついた時、民の不満が再び起こります「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」(同16:3)。主は彼らのために、マナと呼ばれる食物を用意されました。民は感謝しますが、やがてつぶやき始めます「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、私たちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(民数記11:4-6)。主は彼らにうずらの肉を与えます。「主は怒り続けることをされなかった」(103:9)、主の忍耐と憐れみによって、民は生き残り、約束の地に入ることができたのです。ですから詩人は歌います「主は私たちを、罪に応じてあしらわれることなく、私たちの悪に従って報いられることもない」(103:10)。「罪に応じてあしらわれたら私たちは滅んでいた」、主の慈しみが我らを生存させたと詩人は想起します。それは「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程、私たちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(103:11-13)からです。主の慈しみによって、私たちは生きることを許されている、それを知る者は主を賛美します。

2.塵にしか過ぎない存在を慈しまれる主

・14節から讃美は、イスラエルを超えて、全人類を創造し、慈しまれる主への讃美に移っていきます。詩人は歌います「主は私たちをどのように造るべきか知っておられた。私たちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」(103:14)。この詩の背景には創世記2章の創造物語があります。創世記は記します「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。人間は神から「命の息」を吹きこまれ、生きる者になりましたが、その人間の命を支え、これを豊かにする働きが、慈しみ(ヘセド)です。塵に過ぎない私たちにこの神のヘセドが注がれることにより、私たちは生きる存在となるのです。「生きる」とは単に動物として生きるという意味ではなく、人格を持った存在として、敬われ愛される存在として生きることです。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、ギリシャ語には命を表わすのに二つの言葉があります。「ビオス」と言う言葉と「ゾーエー」と言う言葉です。ビオスとは生理学的命、心臓が動いているとか、呼吸をしている等の命であるのに対し、ゾーエーは人格的な命、人間らしく生きるという時の命です。人間は動物と異なり、生理学的命だけでなく人格的命にも生きることが必要です。「将来に希望を無くし、生きていても仕方がない」と思う時、この生理学的命(ビオス)では生きていますが、人格的命(ゾーエー)は死んでいます。人は神との関係が断絶した時に、主の慈しみを受けられなくなった時に、ゾーエーが死に、「生ける屍」となります。詩人は自分が主の慈しみによって生かされていることを感謝しているのです。
・そして詩人は人間の限界をわきまえています。彼は言います「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる」(103:15-16)。この言葉の背景にはイザヤ40章の言葉があるようです。イザヤは歌います「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:7-8)。人の命は野の花のようにはかないものです。今日生きていた人が明日は死にます。権勢を誇り、わが世の春を歌っていた人も、死ねばただの土に戻ります。自分が弱く、はかない存在であることを知る者は「主を畏れます」。そして「主の慈しみは世々とこしえに、主を畏れる人の上にあり、恵みの御業は子らの子らに、主の契約を守る人、命令を心に留めて行う人に及ぶ」(103:17-18)と詩人は歌います。自分が有限であることを知る故に、人は自分を超えた存在、主の前にひざまずくのです。
・やがて讃美は地上だけではなく、天上にも起こります。詩人は天の御使たちに呼びかけます「御使いたちよ、主をたたえよ、主の語られる声を聞き、御言葉を成し遂げるものよ、力ある勇士たちよ。主の万軍よ、主をたたえよ、御もとに仕え、御旨を果たすものよ」(103:20-21)。何故ならば、「主は天に御座を固く据え、主権をもってすべてを統治される」(103:19)。主は天地を支配され、私のようなものにもその「慈しみ」を与えてくださった、だから詩人は万感の思いを込めて、締めくくります「私の魂よ、主を讃えよ」と。

3.私の魂よ、主を讃えよ

・今日の招詞にヨハネ8:11を選びました。次のような言葉です「女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。姦淫の罪を犯した女性にイエスが言われた言葉です。イエスのもとに、律法学者とファリサイ派の人々が姦淫の現場で捕えた女を連れてきて、言いました「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」。モーセの律法は姦通に対して死刑を定めています。律法学者とファリサイ派の人々は、民衆に人気の高いイエスを妬み、彼を陥れようとしてこの女性を連れてきました。イエスが「女を殺すな」と言えば、モーセ律法に違反していると告発します。「女を殺せ」と言えば、イエス自身が教えている愛の教えに背くと非難しようと企んでいたのです。しかし、イエスは言われました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」(ヨハネ8:7-8)。イエスの答えを聞いた者は「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(同8:9)。良心に誓って、自らを「罪なし」と言える者は一人も居なかったのです。イエスは身を起して女に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われました「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」イエスはそれ以上、咎めようとせず女を赦されました。
・この女性はマグダラのマリアではないかと言われています。イエスが十字架にかけられた時、ゴルゴタの丘まで付き従い、イエスが葬られた後は、その墓に行き、復活のイエスに最初に出会った女性です。マグダラのマリアは、イエスの慈しみと、赦しにより新しく生まれ変わったのです。女を石打ちから守った温かい抱擁力、悔い改めを待つ忍耐、おおらかな罪の赦し、これらは全て主の慈しみ(ヘセド)からくるものです。
・この「主の慈しみと恵み」を経験したものはもう前のような、罪の人生を歩むことができません。「アメイジング・グレイス」を書いたジョン・ニュ−トンもその一人でした。彼は奴隷貿易に従事し、アフリカの黒人たちをアメリカ大陸まで運んで財をなした人です。その彼がある航海の時、嵐に会い、船が沈みそうになり、思わず「主よ、救い給え」と祈り、助かった彼は船を降り、それまでの仕事をやめて牧師になり、アメイジング・グレイスを書きます。その中で彼は歌います「Amazing grace how sweet the sound、That saved a wretch like me」。 「なんという恵み、主はWretch=人でなしの自分をさえ救ってくださった」、その感謝がこの歌を形成しています。
・彼は遺言で次のように告白します「私は自分の魂を救い主である恵み深い神にゆだねる。私が背教者であり冒瀆者であり不信仰者であった時に、主はあわれみをもって見過ごし、守ってくださった。そしてアフリカの海岸で邪悪な生活をしていた時、みじめな状態から救い出し、このような者を主のすばらしい福音を宣べ伝える者としてくださったのである。私は謙遜な信仰をもって、神であり人である主イエス・キリストの贖いととりなしに信頼する。これこそ、罪人が希望を託し得る唯一の基礎である・・・主は残りの人生をも守り、導き、天の御国において、私を主の御前に立たせてくださると信じている」(アメイジング・グレイス物語、村田美奈子著)。彼もまた詩編103篇の詩人と同じ、主の慈しみ(ヘセド)にふれて、人生を変えられたのです。103編の詩人は歌いました「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」(103:3-5)、ジョン・ニュートンの信仰告白そのものです。そして私たちもまた「赦された罪人」として、今ここに居ます。だから、詩人もマグダラのマリアも、ジョン・ニュートンも、そして私たちも叫びます「私の魂よ、主を賛美せよ」と。

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