江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年8月22日説教(詩編62:1-13、神の前に静まる)

投稿日:2010年8月22日 更新日:

1.苦難の中にあっても動揺しないと言い切る詩人

・聖書教育に従って詩編を読んでおります。今日与えられました詩編は62篇です。62篇は前書きで「エドトンに合わせて、賛歌、ダビデの詩」と書きます。エドトンは神殿の奏楽者たちを指揮したレビ人の一人で、内容は「エドトンの調べによって歌う」という意味であり、直接に詩の内容を示すものではありません。内容的にいつの時代の詩であるかを確定するのが難しい詩です。ただ「世に存在する悪に対して信仰者はどう対処すべきか」を歌った普遍的な内容を持ち、親しまれている詩編です。詩人は歌い始めます「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう。神に私の救いはある。神こそ、私の岩、私の救い、砦の塔。私は決して動揺しない」(62:2-3)。「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」、それは「救いは、人からではなく、神から来る」と信じるゆえです。
・「沈黙して神に向かう」とは、あきらめて何もしないということではありません。詩人は困難な状況下にあることが次の4-5節によって暗示されています「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし、人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う」(62:4-5)。「お前たち」と呼ばれているのは同胞でしょう。同胞たちが「(私を)亡きものにしようとして」襲い掛かり、「(私を)倒れる壁、崩れる石垣」にしようとしています。詩人を地位から引き下ろし、殺してしまおうとする敵が彼にはいるのです。彼らは「口先で祝福し、腹の底で呪い」ます。肉の私たちは、「打たれたら打ち返す」、「やられたらやり返す」、存在です。詩人にもそうしたいという気持ちがあります。しかし彼はそうしないで、神に祈ります。すると、不安や焦り、怒りや不信に揺れ動いていた心の波が静まり、沈黙してすべてを御手に委ねることができるようになったと彼は告白します。
・詩人は「沈黙してただ神に向かえ」と繰り返します。「私の魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、私は希望をおいている。神は私の岩、私の救い、砦の塔。私は動揺しない」(62:6-7)。「私は動揺しない」、それは「神に希望をおいている」からです。詩人は続けます「私の救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神は私たちの避けどころ」(62:8-9)。「御前に心を注ぎ出せ」、自分の全存在を神の前にさらけ出し、ありのままの姿を神に見てもらえ。すべてを神の裁きに委ね、それに従おう。その時に命の道は開けて行くと詩人は言います。何故なら、自分の力に頼って、あるいは人の力に頼って何かを為してもその結果は虚しいからです。「人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな」(62:10-11)。「人の子」、「ベン・アダム」、土(アダマ)から造られ、ただ息をしているだけの存在、そのような人の子から救いは来ない、「人の子らは虚しく、欺き、息より軽い」、人は自分を犠牲にしてまでも他者のために行動しない、彼が考えるのは自分のことだけだと詩人は言います。だから、「ただ神にのみ向かえ」。「のみ=へブル語アク」という言葉がこの短い詩の中に繰り返し出て来ます。直訳しますと、2節「沈黙して神にのみ向かう」、3節「神のみがわが岩、わが救い」、他に6節、7節、10節にも出て来ます。「人に失望し、神にのみ依り頼む」詩人の心を浮き彫りにしています。
・詩編の最後の言葉は大事です「一つのことを神は語り、二つのことを私は聞いた。力は神のものであり、慈しみは、私の主よ、あなたのものである、と。一人一人に、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる、と」(62:12-13)。「力は神のものであり、慈しみもまた神のものである」ことを信じる時、私たちは神の前に沈黙して静まることが出来ます。しかし危急存亡の時に、私たちは自分の力で、あるいは人の助けを借りて、事態を打開しようとします。それは、結局は「神がこの世を支配しておられることを信じていないからではないか」と詩人は問いかけます。

2.現実の世界の中で詩編62篇を考える

・62篇の詩人は言いました「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな」、たとえ相手が「暴力に依存し、力を頼みにしていてもあなた方はそうするな」。ここには報復を戒めたパウロの言葉と同じ心が息づいています。パウロは迫害の中にあるローマ教会に書き送りました「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われると書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:19-21)。
・「神は天だけではなく、地も支配しておられるのだから、すべてを神に委ねて静かに待て」と詩編詩人もパウロも言います。しかし人は「神に委ねて静かに待つ」ことができず、自分の手で報復をしようとします。前にジェームズ・マグロー著「グランド・ゼロからの祈り」と言う本をご紹介したことがあります。テロで破壊されたNY貿易センタービルと同じ地域にあったオールド・ジョン・ストリート・合同メソジスト教会で行われた2001年9月16日から10週間の祈りを集めた本です。グランド・ゼロとは爆心地、テロ攻撃を受けた現場に立つ教会が、この出来事をどのように受け止めていったのかが祈りの形で記されています。事故から5日後の2001年9月16日、犠牲者の多くはまだ瓦礫の下におり、電気も止まっている中で、教会はろうそくの明かりの中で礼拝を持ちました。広島やベルリンで起きたことが今自分たちの上に起こったことを悲しみ、亡くなった人々に哀悼を捧げながら、教会は祈ります「仕返しと報復を立法化せよと要求する怒りの声が悲劇の現場から教会の説教壇に至るまで鳴り響いています・・・復讐を求める合唱の中で『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように」。
・次の週、町には星条旗があふれ、国内のイスラム教徒はテロのとの関連を疑われて次々に拘束されていきます。アメリカに忠誠を誓わない者はアメリカの敵だとの大統領声明が出されます。その中で教会は祈ります「戦争の風が勢いを増しています。どうか私たちに聖霊を吹き込んで下さい・・・私たちの怒りと復讐の要求を平和への切望に取り替えて下さい」。やがてアフガニスタンに対する報復攻撃が始まりました。テロの首謀者とみなされたビン・ラディンがそこにいると思われたからです。教会は祈ります「現在起きている事件の中で、全ての人々への同情心で私たちを満たすよう、聖霊を送って下さい。その人々とはアフガニスタンの罪なき子どもたち、女や男たちです。おお神様、あなたの愛に満ちた霊を全ての悩める心に吹き込んで下さい」。
・世の人々は同胞を殺された怒りと怖れの中で、アフガニスタンを憎み、攻撃する中で、教会はその人々のために祈ります。「キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられました。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれました。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられません。国は間違っています、神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」と教会は祈ります。この祈りにも関わらず、アフガニスタン攻撃は強化され、さらにはイラクへの爆撃も始まりました。祈りは無力なのでしょうか。そうは思いません。
・戦争開始から9年、イラクとアフガニスタンの紛争は泥沼化し、多くのアメリカ人が死に、負傷し、膨大な軍事費はアメリカ社会の屋台骨さえも揺るがしかねない財政赤字を生んでいます。危機に瀕したアメリカは、今どのように戦争から撤退するべきかを模索しています。詩編62篇は歌いました「暴力に依存するな。力が力を生むことに心を奪われるな」、「神の前に静まらなかった」コストはあまりにも大きすぎたことを今アメリカ人も知ったのです。そして今改めて人々は「グランド・ゼロからの祈り」を祈り始めています。教会は「地の塩、世の光」の役割を果たしたのです。

3.神の前に静まる

・今日の招詞にイザヤ30:15を選びました。次のような言葉です「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」。前701年、アッシリアは大軍でエルサレムを包囲し、ユダ王国に降伏を迫りました。圧倒的武力を誇るアッシリアの将軍たちは、「ユダの王ヒゼキヤにこう言え。お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはないと思ってはならない。お前はアッシリアの王たちが、すべての国々を滅ぼし去るために行ったことを聞いているであろう。それでも、お前だけが救い出されると言うのか」(列王記下19:10-13)とイスラエルの神を嘲笑します。その言葉に、動揺し、慌てふためく民に対してイザヤが言った言葉が招詞の言葉です。
・しかし、神はアッシリアにたいして行為されました。列王記は記します「その夜主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリア王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた」(列王記下19:35-36)。ギリシャの歴史家ヘロドトスは言います「アッシリア軍にペストが発生し、多くの将兵が死に、彼らは包囲を解いて引き上げたのであろうと」(ヘロドトス・歴史)。
・イザヤの助言に従ったヒゼキヤ王は「神の前に静まり」、ユダは滅びることはありませんでした。しかしアッシリアが衰退すると、次にはバビロン帝国が勢力を伸ばしてユダを再び支配下に入れようとします。預言者エレミヤは「バビロンは神の鞭であり、バビロンに従えば国を滅ぼすことはない」と降伏を勧めますが、時の王エホヤキムは最も現実的と思われる政策、すなわち「見えない神ではなく、見える人に頼る」政策をとります。エジプトに頼ってバビロンに対抗しようとしたユダは、バビロンにより国を滅ぼされてしまいます。エジプト軍は救援に来ましたが、圧倒的な敵勢力を前に自国に帰りました。エジプトは自国の盛衰をかけてまでユダを救おうとはしませんでした。結果的に「人の救いに頼る」という政策は最も非現実的な政策でした。このことは日米安保条約に国の防衛を依存する現在の日本の政策の是非を私たちに考えるように迫ります。何故ならば、アメリカもまた自国を危険にしてまでも日本を救わないだろうと思えるからです。
・聖書は遠い昔に語られた言葉ですが、今の私たちにも語り続けています。神は今も働いておられるからです。国を滅ぼされたユダの人々は神に祈りました「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いは虚しいものです」(詩編60:13)。「人間の与える救いは虚しい」、だからこそ、詩編62篇の記者は「沈黙して神にのみ向かえ」、「神のみがわが岩、わが救い」、「のみ=へブル語アク」という言葉を繰り返すのです。私たちも多くの困難の時があります。「生涯をかけた事業が破たんに瀕している」、「信頼していた人に裏切られる」、「失業して職を探しても見つからない」、「重い病の中でどうしてよいのかわからない」、そのような中で、「沈黙してただ神に向かう」時を持つことの大切さを詩編62篇は教えます。「沈黙してただ神に向かう」時、「見えなかった命の道が開けて行く」ことを私たちは体験するでしょう。その体験が私たちを信仰者にして行くのです。

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