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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年7月4日説教(詩編1篇1−6節、いかに幸いか、神を知る者は)

投稿日:2010年7月4日 更新日:

1.詩編全体に対する序詞としての第1篇

・私たちは今日から3ヶ月間、教会学校と説教で詩編を学んでいきます。詩編150篇の中にはいろいろな詩があります。神を讃美し感謝する詩もあれば、苦難の中で救済を求める詩もあります。その中で、今日学びます詩編第一篇は詩編全体を統合する始まりの詩篇です。この詩では旧約聖書の代表的な考え方、「神を愛する者は報われ、神に逆らう者は滅びる」という因果応報が歌われています。
・詩編第一篇は「幸いなるかな」という言葉で始まります。詩人は歌います「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座ら(ない者)」(1:1)。「神に逆らう者」、へブル語レシャイーム、邪悪な者、悪事を働く者の意味です。「罪ある者(ハッタイーム)」とは、的を外す者、神の方を向かない者のことを指します。また「傲慢な者(レツイーム)」とは嘲る者、高慢な者を言います。詩人は「義人(正しい人)」とは、「悪を働かず、神にそむくことがなく、高慢でない者」だと否定的に語ります。それを肯定的に言い換えたのが、2節「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(1:2)です。主の教えとはトーラー(戒め、律法)ですが、それを毎日唱和し、守る人は幸いだと言われています。
・詩人は続けます「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば、実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(1:3)。主の教えに従う者の生活は「流れのほとりに植えられた木」のようであり、彼は豊かな水(御言葉)に養われて、多くの実を結ぶと祝福されています。乾燥地帯のパレスチナでは水は貴重です。水がないと生物は生きていくことができません。その水が豊かに与えられる幸いを詩人は歌います。流れとは用水路、木はなつめやしを指すのでしょう。「主の教えに従う者のすることは、すべて繁栄をもたらす」と詩人は歌いますが、彼は社会の現実がそうではないことを承知しています。詩編1篇の作者は詩編全体の編集者であり、彼は詩編の中に「悪しき者が栄え、正しい者が虐げられる」ことを訴えた詩が数多くあることを知っています。詩編73篇は訴えます「神に逆らう者の安泰を見て、私は驕る者をうらやんだ。死ぬまで彼らは苦しみを知らず、からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない・・・彼らは侮り、災いをもたらそうと定め、高く構え、暴力を振るおうと定める・・・そして彼らは言う『神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか』。見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく」(73:3-12)。彼はこの現実を知った上でなおかつ「神を愛する人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と断定します。ここにこの詩の命があります。詩人は、世の現実には「正しい者が虐げられ、悪が栄える」ことがあるのを承知の上で、その社会に横行する悪の企てに組しない者こそ幸いだと歌いあげているのです。
・詩人は律法を守らない人、主の教えに逆らう者は災いだと続けます「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされる籾殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていて下さる。神に逆らう者の道は滅びに至る」(1:4-5)。穀物は収穫が終わると、実と殻に分ける必要があります。当時のパレスチナでは、穀物の実をたたいてこれを実と殻に分離し、空中に放り投げます。その時、中身のないもみ殻は風に飛ばされ、重さを持つ実だけが再び容器の中に戻されます。そのように、悪しき者は、たとえ一時的に隆盛を誇るように見えても、内容のない空疎な存在として、あらゆる方向に吹き飛ばされると詩人は歌います。故に、彼は「神の裁きに堪え得ない」(1:5)と詩人は言うのです。聖書では、終わりの日にすべての人は裁きを受けるという思想があります。悪しき者、神に逆らう者は終末の審判で滅ぼされると詩人は言います。そして詩人は結論付けます「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」(1:6)。例え、邪悪な者の道が栄え、正しい者が虐げられるという現実があったとしても、それは一時的であり、世界を支配される神はその悪を糺される、悪がいつまでも栄えることはないとその信仰を歌います。

2.詩篇には救済の力はない

・詩編第一篇は義人を水辺の樹木に、罪びとを風に吹き飛ばされるもみ殻にたとえて、両者の人生が対照的であることを印象付けます。第一篇の中心的な思想は因果応報です。因果応報とは行為の善悪と人生の幸不幸を関連付ける考え方で、社会の根底にある思想です。「善は報われ、悪は滅びる」、「人は自分の蒔いたものを刈り取る」、「頑張った人は報われる」、そうであって欲しいという願いを込めて、現代社会もまた因果応報を考え方の基礎にしています。旧約学者の月本昭男氏は、詩篇釈義の中で次のように述べています「何が悪で何が善かは相対的であり、立場を変えれば、善が悪に、悪が善になりえます。また何が本当の幸福か、誰も知りません。このような中で、善と悪、幸と不幸を二分化して固定する応報的世界観の下では、応報原理があらゆる人生の出来事に当てはめられ、悪人が悪ゆえに栄え、善人が善ゆえに滅びる現実社会の不条理は無視されてしまいます。その結果、ヨブのように災難に見舞われた者は神に罰された者として断罪されることになります、このような因果応報論は、時には因果関連を世代間に広げ、あるいは死後の世界へと延長して、人生の不条理を安易に合理化し、社会のゆがみや矛盾を正当化するようになります」(月本昭男:詩篇の信仰と思想より)。
・しかし、聖書の中では、人間の幸不幸の説明原理としてではなく、地上における神の意志の成就、正しい裁きの切なる希求として、応報思想を考えます。先に見ましたように、この詩人も、義人の生涯は邪悪な者の生涯よりも幸福だと見ているわけではありません。そうではない現実があることを見つめながら、それでも悪に加担しない、正義を求めていく生き方こそ、幸いだと歌うのです。
・しかし、この詩は限界を持っています。詩人は人を義人と罪人に分け、対立させています。しかし、どこに完全な人、義人がいるでしょうか。詩編でさえ、義人はいないことを認めます「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。一人もいない」(詩編14:2-3)。人は心の中に重い闇(原罪)を抱えています。パウロは叫びます「私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:23-24)。詩編1篇は偉大な詩であると思います。しかし、この詩には人を滅びから救う力はありません。

3.詩篇1編を祝福に変えられるイエス

・今日の招詞にマタイ5:3‐5を選びました。次のような言葉です「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。有名な山上の祝福の冒頭の言葉です。詩編1篇は「幸いだ」と言う言葉で始まります。「幸いだ」(ヘブル語アシュレイ)はギリシャ語訳聖書(70人訳)では「マカリオス」と訳されました。この「マカリオス」と言う言葉は、イエスの「山上の祝福」の冒頭の言葉です。原文では「幸いだ、貧しい者たち。神の国は彼等のものである」とあります。「幸いだ、神に逆らう者の計らいに従って歩まず」という詩編1:1の構成と同じです。イエスは詩編1篇を想起しながら、目の前にいる人々に「あなた方は貧しいゆえに幸いだ」と言われたのです。
・何時の時代でも人々は幸福を求めます。イエスのもとに集まった人々も幸福を求めていました。ある者は、長い間病気で苦しんでいます。別の人は食べるものもない貧乏の中にいます。精神的な悩みを持つ人もいたでしょう。彼らはいずれも現在の情況さえ変れば、この病気や貧困さえ取り除かれれば、幸福になれると思っていました。その彼らにイエスは言われます「あなた方は貧しい、しかし貧しいからこそ幸いである。あなた方は悲しみを持つ、しかし悲しんでいる者が幸いなのだ。あなた方には苦しみがある、その苦しみこそあなた方を幸いにする」。聞いた人々は理解できません。貧しいこと、病気であることが幸いとは思えなかったからです。イエスはなぜ「貧しい人々、悲しむ人々」を祝福されたのでしょうか。
・イエスは貧しさや病気は不幸であるという現実を十分に承知したうえで、苦しむ人々に「私の所に来なさい」と呼びかけ、その不幸を幸いに変えようと約束されます。彼はナザレでの宣教の始めに宣言されます「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18-19)。彼は心打ちひしがれている人々に向かって、「私の祝福を受けなさい」と言われました。そして自らの十字架死を通して、不幸を幸いにする道を開かれました。弟子のペテロは告白します「(この方は)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(�ペテロ2:24)。私たちの罪を担うことを通して、私たちを死の刺から救い出して下さったとペテロは告白します。
・旧約はキリストを知りません。ですから「苦難の中にあっても挫けずに、神の救いを仰ぐ信徒の姿」に希望を見ました。「神は悪を糺し、神に依り頼む者を顧みられる」という信仰に、その望みを託しました。しかし、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人は幸いだ」と歌い上げても、人間の罪はその神の教えを律法として人間を縛るものに変え、律法を守る者が義人とされ、律法を守らない者は罪人として排斥されていくことを防ぐことはできませんでした。その限界の中にイエスが来られたのです。今、イエスの目の前にいる、貧しい人々、悲しむ人々こそ、「アム・ハ・アレツ(地の民)」として、社会から卑しまれ、排除された人々です。イエスはその人々の側に立って、彼らこそ神の国にふさわしい者だと言われているのです。そして自分を正しいとする律法学者やパリサイ人に言われます「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(マタイ21:31-32)。イエスは旧約の限界を知っておられました。ですから、その限界を超えるもの、神の赦しと憐れみを祝福として述べられたのです。詩編1篇はイエスによって、山上の祝福という喜ばしい福音に変えられていったのです。
・水野源三と言う人がいます。彼は子どもの時に熱病にかかって全身麻痺になり、生涯寝たきりの生活を送りました。人間的に見れば、悲惨な人生です。彼の体で動くものは唯一その眼球だけでした。彼は自由になる目の瞬きで自分の意思を母親に伝え、詩を書きました。彼は言います「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現われなかった」。「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった」、病気になったことさえも祝福になる世界がここにあります。私たちに本当に必要なものは、病のいやしではなく、貧乏からの救済でもなく、苦難からの救いでもないのです。心が貧しくされて神の言葉が聞こえるようになること、その時、貧乏であることも、病気であることも、苦難が与えられていることもまた、祝福に変わって行くのです。イエスは詩編1篇を山上の祝福に昇華されることを通して、そのことを教えて下さったのです。「いかに幸いか、神の子を知る者は」、まさに私たちにキリストが与えられていることこそ、幸いなのです。

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